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2014年11月11日火曜日

一歩後退二歩前進 高橋悠治

音楽についてなんたら書くのはもうやめたよ
せいぜいYOUTUBEを貼り付けるぐらいだね
オレにできるのは。

次ぎのような文章を書くべきなのさ本来ひとは。
1978年初版発行なんだから
悠治40歳のときのものさ

ところできみたち、
いまこういった文章に当ったことがあるかい?
長い文章じゃなくていいさ
ツイッターだっていいよ
あるかい?

エラそうにツイッターがどうのこうのと言っている
ションベンくさい売れっ子の研究者やら評論家がいるが
アイツらとんでもないひよわなエリートじゃないかい?






『ロベルト・シューマン』 高橋悠治


一歩後退二歩前進

シューマンについて考えてみよう。なぜ十九世紀のロマン主義の音楽家にいまかかわりあわなければいけないのか?

学問的な研究をする興味はない。他人の生きた時代、他人の生き方、他人の思想を正確に理解し、記述し、批判したって何になるのだ? 作品のかくされた意味を読みとって、それをどうするのだ? シューマンの音楽とのであいを演出しオレもオマエもおなじなやみなんだ、とくれば小林秀雄のようにひよわなエリートをだますことはできるだろうが、文化の役割を無条件に肯定するのは宮廷道化役のすることだ。芸術家の孤立無援の思想をエラそうに言いたてるがよい。そのことばがもっともらしくひびくのは、本人も気づかぬうちにカネで買われてしまっている思想だからだ。過去にかかわるのはどんな時か?

 
    コブ

  コブ
  あれはきみか?
  タマリンドの木につるされ
  血にまみれ-
  ヤツらがきみの両手を切りおとしたのはなぜだ?
  きみはどうしてもたたかうのだと言った
  コブ、いまきみを信じるよ
  おぼえているかい
  朝、村へいくぬかるみ道をあるいたことを?
  日が照りつけ、道は遠く
  きみにおくれまいとしても、つかれた脚はすべるだけ
  きみは歩調をゆるめて待ってくれた
  いっしょに歩く時をすごすため
  きみのしてくれたおかしな話
  女の子が雨の日学校へいこうと
  一歩前進すれば、道がすべって二歩もどる
  そこで女の子はうしろを向いてあとずさりして歩いていった
  そしたらたちまち学校についた
  ぼくらは笑った、するとホラ
  村がもう見えた
  脚も元気をとりもどした
  どうしてもたたかうのだと言ったね、コブ
  いまきみを信じるよ
  今日、コブ
  きみを見て
  木からぶらさがり
  手を切りおとされた姿を見て 
  ぼくは思った、ぼくはもう二度と歩けまいと
  それからきみの笑いを思いだし
  どうしてもたたかうのだといったことばを思いだし
  ぼくは元気をとりもどす
  コブ、いまきみを信じるよ

一九七六年十月六日、バンコクのタマサート大学で四人の学生が右翼になぐり殺され、死体は木につるされてさいなまれ、焼かれた。そのなかの一人のために、友人が書いた詩がこれだ。ことばの技術をきわめた日本の現代詩人たち、ことばが銃弾のようにまっすぐ人を打つ技術を教えてくれ。

現在の状況がきびしく、まともに前進できない時、過去を問題にしながら後退すると見せて前進することもできる。障害物をとびこえるためにうしろへさがる、あのやり方だ。やがて助走、目もくらむ一瞬の跳躍がくる。われわれのいるのは、だがここではない。一九七六年十月のタイのクーデターの前の状況ほどわるくはないが、別な意味で、一層悪質な状況、脚元がすべりだしたのを感じながらも、まだこのまま前進できると信じている時、そのくせぬかるみしか見えず、真の敵の姿はどこにもなく、一歩踏みだす度に後退していく、こんな時だ。見えている風景がニセであり、抵抗もニセであるような、奇妙な安定のなかで生きている、こんな場所だ。

現代の危機、文化の危機については、たくさんのことが言われた。言うほどに、ことばはそらぞらしく、行動はちぢかまっていく。危機を言うことばの効力だけは信じられると言うのか? 価値がゆらぐのを危機と言うなら、ことばが何で例外になろう? ことばに表現するだけで批判や抵抗が成立するとおもえるとすれば、日本ではことばが実践の裏打ちをもたない無意味な身振りにすぎないからゆるされているのをわすれている。ことばの価値がまずすりへってしまった。

大江健三郎は書く、「死をおしつけてくる巨大なものへの最後の抵抗として、なにもかもを笑いのめし、価値を転倒させる道化」。何と悲愴ぶった笑い、センチメンタルな道化だろう。しばいがかった最後の抵抗の前に、巨大なものをその名ではっきり名指し、最初の抵抗を見せてくれ。キム・ジハの笑い、殺されたタイの大学生の笑いにくらべれば、ピンチランナーの笑いは笑いを信じない笑いだ。力なく、そのくせ重苦しい笑いが空中に飛びかっている、ah、ha、ha。

ことばの価値がすりへると同時に、沈黙も意味をうしなった。言うべき時にはだまって身をかわし、しゃべらなくてよい時にはとめどなくしゃべる。

状況に足をとられて前進できない時、前進を言いつつ後退しているのがわかった時、沈黙が必要だ。いままでの方法、領域はすてて、すばやく撤退しなければならない。それでなければ自分のあやまちをくりかえし、それを防衛しながら状況におぼれていくのだ。

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。