柄谷行人は福島原発事故後、3ヶ月経たときのインタヴューで次のように語っている。
【柄谷】最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。
日本の場合、低成長社会という現実の中で、脱資本主義化を目指すという傾向が少し出てきていました。しかし、地震と原発事故のせいで、日本人はそれを忘れてしまった。まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている。だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。しかし、そもそもエネルギー使用を減らせばいいのです。原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。あいかわらず、無駄なものをいろいろ作って、消費して、それで仕事を増やそうというケインズ主義的思考が残っています。地震のあと、むしろそのような論調が強くなった。もちろん、そんなものはうまく行きやしないのです。といっても、それは、地震のせいではないですよ。それは産業資本主義そのものの本性によるものですから。([反原発デモが日本を変える])
その後も日本では、《世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか》という真の課題を忘れてしまえる「出来事」が続出した。たとえば第二次安倍政権樹立、米中韓国との軋轢、ネオナチ猖獗など。
中井久夫は、バブル時代にすでに日本の「引き返せない道」を書いている。
一般に成長期は無際限に持続しないものである。ゆるやかな衰退(急激でないことを望む)が取って代わるであろう。大国意識あるいは国際国家としての役割を買って出る程度が大きいほど繁栄の時期は短くなる。しかし、これはもう引き返せない道である。能力(とくに人的能力)以上のことを買って出ないことが必要だろう。平均寿命も予測よりも早く低下するだろう。伝染病の流入と福祉の低下と医療努力の低下と公害物質の蓄積とストレスの増加などがこれに寄与する。ほどほどに幸福な準定常社会を実現し維持しうるか否かという、見栄えのしない課題を持続する必要がある。
私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。
この文のベースにある考え方は次の文にあらわれている。
ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。
今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。
(……)
冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)
これはジジェクにも、ベルリンの壁の崩壊による東西間の「まなざし」がなくなってしまったという語り口によるほぼ同様の見解の文がある。
私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「まなざし」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「まなざし」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「まなざし」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「まなざし」それ自体ということです。
そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly(,邦題『ジジェク自身によるジジェク』)からだが、邦訳が手元にないので、私訳 を附す)
そして現在、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。これはジジェクと同じラカン派であるベルギーの精神分析医Paul VerhaegheがGuardian(ガーディアン 2014.09.29) にて"Neoliberalism has brought out the worst in us"「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」という主張と同じ文脈のなかにある。もっともVerhaegheの見解は、新しい「文化のなかの居心地の悪さ」、--ただ「政治的」というよりは、個人と組織とのネガティブスパイラルという面への照射ーーに傾くものだが。それはこの短く書かれたガーディアンの記事ではなく、Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent(PaulVerhaeghe) に詳しい。
人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」12番 原佑訳)
21世紀になって、われわれはみな「イギリス人」になってしまっている。
It was Nietzsche who observed that “human beings do not desire happiness, only the Englishmen desire happiness”- today’s globalized hedonism is thus merely the obverse of the fact that, in the conditions of global capitalism, we are ideologically “all Englishmen” (or, rather, Anglo-Saxon Americans…)(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")
どこかの「経営コンサルタント」が文科省の有識者会議にて提案して話題になっているG型大学とL型大学ーーG型大学はGLOBALのG、L型大学はLOCALのLーーもこの「イギリス人」の流れのなかにある。だがそれは「われわれに最悪のものを齎す」とまでは言わないでおこう、旧制高校時代のエリート主義の復活的要素の提案の芽もあると受け取るのなら、それは単純に否定されるべきものではないとも言いうるのだろうから。
蓮實重彦)エリート教育をやったほうが、左翼は強くなるんですよ。エリートのなかに絶対に左翼に行くやつが出るわけですよね。
(……)ところがいまは、エリート教育をやらないで、マス教育をやって、何が起こるかというと、体制順応というほうに皆行っちゃうけどね。(『闘争のエチカ』)
今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。
困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。
いずれにせよ、20世紀には異様なことが起こったであり、前世紀初頭のヒトの数はわずか20億だった。
(「今までに存在した世界人口累計」より)
こういった状況下で(急激な少子高齢化で)、社会保障制度(年金制度など)はまともに存続できるわけがない。大和総研の「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(2013)には、1970年に就業者9人で高齢者1人を支える制度として始まった社会保障制度は、《90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である》と記述されている。
高齢化先進国の日本の場合、老年人口指数で言えば、既に 2010 年時点で 100 人の現役世代が 35 人の高齢者を支えており、2020 年には 48 人、2050 年には 70 人を支える必要があると予想される(いずれも国連推計であり、社人研推計ではより厳しい)。
賃金対比でみた給付水準 (=所得代替率) は、 現役世代と引退世代の格差―老若格差―と言い換えることが可能である。この老若格差をどうコントロールするかが、社会保障給付をどれだけ減らすか(あるいは増やすか)ということの意味と言ってよい。少子高齢化の傾向がこのまま続けば、いずれは就業者ほぼ 1 人で高齢者を 1 人、つまりマンツーマンで 65 歳以上人口を支えなければならなくなる。これまで 15~64 歳の生産年齢人口何人で 65 歳以上人口を支えてきたかといえば、1970 年頃は 9 人程度、90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である。医療や年金の給付が拡充され、1973 年は「福祉元年」といわれた。現行制度の基本的な発想は 9 人程度で高齢者を支えていた時代に作られたものであることを改めて踏まえるべきだ。
ドイツのように移民人口が多い国でさえ、付加価値税率19%でありつつ、年金破綻の懸念にひどく憂慮している。左翼勢力が相対的に強いだろうフランスでも、すでに、《80年代以降、政府は(政権の左右を問わず)女性が家庭に戻るように仕向け、この分野への予算を削減しようとの思惑から、政策方針を大幅に転換した。》(「子供か仕事か、欧州女性たちのジレンマ」 アンヌ・ダゲール)
たとえば、これはここでの文脈とは異なり、男女の賃金格差の図であるが、この図を見ると男女賃金格差は、フランス、イタリアは改悪している(差が広がっている)ことがわかる。
フランスやイタリアの状況は、おそらくもっと詳しく、--たとえば移民女性の賃金などを顧慮してーーデータを見なくてはならないという議論もあるだろう。だがそれはここでは脇にやる。
たとえば、ドイツ。
現在ドイツでは、出生率が1.34 (McDonald 2007)、日本では1.32(全国保育団体連絡会・保育研究所2007)とほぼ同レベルであり, 両国とも深刻な状況にある。その一方で、ドイツと日本における平均寿命の上昇は、両国の高齢者年金制度に深刻な影響をもたらしている。高齢者人口の増加と出生率の低下により、日本同様、ドイツも財政的に困難な状況に直面しており、この変化に対応するために様々な政策が導入されている。(「男女不平等とワーク・ライフ・バランス: ドイツにおける社会変化と少子化問題」(アンドレア・ゲルマー/バーバラ・ホルトス 2007)
各国の合計特殊出生率推移は、次の通り。
これをみると、韓国は日本以上に驚くべき状況であることが窺われる(韓国の年金制度のありようは「資料:韓国の自殺率と出生率」を見よ)。上の図には中国のデータはないが、2013年に発表された大和総研の「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」には次のような記述がみられる。
少子高齢化が進展している日本が社会保障システムや政府財政の持続性に問題を抱え、制度疲労に対して喫緊の改革を迫られている点は周知の事実だが、中長期的にみると高齢化は日本に限った話ではなく、世界共通の課題である。ただ、国によってそのスピードが大きく異なることから、高齢化への取り組み方も変わってこよう。
国連の推計に基づくと、いずれの国の中位数年齢(年齢順に並べ、全人口を 2 等分する年齢)も年を経るにつれて上昇していく。例えば、2010 年時点の日本の中位数年齢は 44.7 歳であり、先進国平均の 39.7 歳を大きく上回り、ドイツ(44.3 歳)やイタリア(43.2歳)に近い。それが 2020 年には 48.2 歳、2050 年には 52.3 歳に上昇し、世界における超高齢社会のフロントランナーのポジションは譲らない。他方、高齢化の進展が相対的に遅いドイツやイタリアの場合、2050 年時点でも中位数年齢は 49 歳代にとどまる。
これに対して、 日本の後ろ姿を急速に追いかけてくるのが中国である。 世界最大の人口 (2010年時点 13.4 億人)を抱える中国の場合、2010 年の中位数年齢は 34.5 歳と先進国平均を 5 歳ほど下回っていたが、2020 年には 38.1 歳、2050 年には 48.7 歳へ大きく上昇すると予想される。
つまり、日本の中位数年齢が 40 年間で 7.6 歳上昇するのに対して、中国は同じ期間で 14.1 歳(四捨五入の関係で上記の年齢の差分とは一致せず)と 2 倍近く上昇する計算である。一方、中国に次ぐ人口 12.2 億人を抱えるインドの中位数年齢は 2010 年時点の 25.1 歳から 2020 年には28.1 歳、そして中国を抜いて世界最大の人口(16.9 億人)を抱えるであろう 2050 年には 37.2歳に達すると予想されている。40 年間で 12.1 歳上昇するものの、発射台が低いだけに 2050 年時点でも世界のなかで相対的に若さを保っていよう。
中国の高齢化が急速に進むとみられる背景の一つは、1979 年から導入されている“一人っ子政策”であり、同政策によって出生率は急激に低下した。同時に経済発展によって死亡率が低下した結果、人口ピラミッドの形がいびつになってきた3。2010 年時点で中国の 65 歳以上人口が全人口に占める割合 (高齢化比率) は 8.2%に達し、 経済発展の途上段階で人口構造の成熟化が進んでいる。高齢化に伴う社会的コストが増える一方で、その費用を負担する現役世代の伸び率が鈍化している状態であり、今後中国では現役世代の負担感が大幅に高まっていくと予想される。
具体的に、高齢者人口(65 歳以上)を生産年齢人口(現役世代、15~64 歳)で割った老年人口指数を求めてみると、 2010 年時点では 100 人の現役世代で 11 人の高齢者を支えていたが、 2020年には 17 人、2050 年には 42 人を支えることになり、約 4 倍の負担になる。今後の中国は、これまでの 2 桁台の高い成長率から質の伴った安定成長へスムーズにシフトするという目標を実現しながら、社会保障制度など膨張する費用を賄わなければならない。例えば、子どもが 1 人しかいない家庭では高齢者介護が大きな負担になるために、年金補助制度などを強化していく方針であるという。
ちなみに、 日本において高齢化比率が中国の 2010 年と同じ 8.2%を上回ったのは 1977 年であった。中国の現在の経済規模は日本を抜いて世界 2 位だが、1 人当たり名目 GDP(2010 年時点)は 4,400 米ドル程度であり、 1977 年当時の日本の 1 人当たり名目 GDP6,100 米ドルを下回っている。この間の生活水準や物価の変化を考えれば、その格差はより大きい。単純な比較はできないが、中国では人々の生活が豊かになる前に高齢化が始まっている。
ここでもう一度、中井久夫の文を反芻しておこう、《私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた》と。
◆国民負担率の国際比較
西欧諸国に比せば、国民負担率を上げる余地が、日本にはあることがわかる(その具体的な方法は、消費税増ということになるのだろう)。
消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。(岩井克人)
※参考
日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013)より)
参考2:「貨幣」から読み解く2014年の世界潮流(岩井克人)
これまで日本は、GDP比200%以上という巨額の債務残高にもかかわらず、長期金利がほとんど上がらなかった。その理由は、失われた20年で良い融資先を失った日本国内の金融機関が国債を保有していることもあるが、同時に「消費税率を上げる余地がある」と市場から見られていたことも大きい。社会保障を重視する欧州では20%を超える消費税が当たり前なのに、日本はわずか5%。いざ財政破綻の危機に瀕したら、いくら何でも日本政府は消費増税で対応すると考えられてきたのだ。
消費増税は、もちろん短期的には消費に対してマイナスだろうが、法人税減税などと組み合わせれば、インパクトを最小限に抑えることができる。重要な点は、消費増税によって財政規律に対する信頼を回復させ、長期金利を抑制することだ。実際、消費増税の実施が決定的となった昨年9月には、長期金利は低下した。
現在、2015年に消費税率を10%に上げることの是非が議論されているが、私は毎年1兆円規模で肥大するといわれる社会保障費の問題を考えても、10%への増税は不可避であり、将来的にはそれでも足りないと思っている。むしろ、アベノミクスの成功に安心して10%への増税が見送りになったときこそ、長期金利が高騰し、景気の腰折れを招くことになるだろう。
このような議論をすると、「1997年に消費税を3%から5%へ引き上げたあと、日本経済は不況に陥ったのではないか」との反論が上がる。しかし当時の景気減退は、バブル崩壊後の不良債権処理が住専問題騒動で遅れ、日本が金融危機になったことが主因である。山一證券や北海道拓殖銀行の破綻は、小さな規模のリーマン・ショックだったのである。
また、「消費税は弱者に厳しい税だ」という声も多い。だが、消費額に応じて負担するという意味での公平性があり、富裕層も多い引退世代からも徴収するという意味で世代間の公平性もある。たしかに所得税は累進性をもつが、一方で、「トーゴーサン(10・5・3)」という言葉があるように、自営業者や農林水産業者などの所得の捕捉率が低いという問題も忘れてはいけない。
こんななかでいわゆる「左翼」の活動家はいまだこんなことをオッシャッテおり(「経済なき道徳は寝言」)ーーたまたま半年ほどまえ拾ったものであり、お二人にはなんのウラミもないが、「左翼」の典型的ツイートとして掲げさせてもらうーー、それを正義の味方として振舞いたいらしい左翼だかリベラルだかの学者センセまでRTしておられる。
河添 誠@kawazoemakoto
・「消費税増税で低所得層に打撃になるのは問題だと思うけれど、今の日本の財政では云々」という人へ。前段の「低所得層への打撃」だけで、消費税増税に反対するのに十分な根拠になるはず。なぜ、財政を理由に低所得層の生活に打撃になるような増税が正当化されるのか?この問いにだれも答えない。
・「消費税増税にはさまざまな問題がありますが、財政の厳しい状況では仕方ないですね」と、「物わかりよく」言ってみせる人たち。低所得層の生活が破壊され、貧困が拡大する最大の政策が遂行されるときにすら反対しないのかね?まったく理解不能。
※河添誠氏のプロフィール欄
《NPO非営利・協同総合研究所いのちとくらし研究員・事務局長/首都圏青年ユニオン青年非正規労働センター事務局長/都留文科大学非常勤講師。非正規労働者・低い労働条件の正社員と失業者の生活支援・権利拡充のために活動中。反貧困たすけあいネットワーク、反貧困ネットワーク、レイバーネット日本の活動なども。》
※藤田孝典氏プロフィール欄
《ほっとプラス代表理事。反貧困ネットワーク埼玉。ブラック企業対策プロジェクト共同代表、生活保護問題対策全国会議、福祉系大学非常勤講師。著書『ひとりも殺させない』》(「偽の現場主義が支える物語的な真実の限界」より)
真のラディカル左翼であるなら、消費税を西欧諸国なみに挙げる提案を支持し、そこから、たとえばベイシックインカム制度が夢物語であるなら、フリードマンの「負の所得税」などを変奏して提案していくべきではないだろうか。
もちろん消費税増の導入の景気停滞の影響は顧慮しなくてはならないということはある。
現在、消費税が5%から8%の影響も存外大きいままなのかもしれない。とはいえ、そうであるなら、8%→10%を遅らせるべきなのだろうか。
とはいえ、アベノミクスなどなんの成功もしていないじゃないか、という反撥もあるだろう。ではどうしたらいいのか? それなしでいたずらな政策否定ではなしのつぶてである。
結局、あれらの「左翼」も「イギリス人」である。イギリス人とは、経済合理主義者の謂であり、短期的な「快」のみを求める。彼らの「快」は、中長期の視点をなおざりにし、いまこの場でのみ「庶民的な正義の味方」として振舞うことだ。それさえできれば「後は野となれ山となれ!」、--そうでなかったなら、どうしてあのような寝言を言いうるのだろう、ーー《財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する》などと。
われわれは、真の「糞便」をしっかり観察すべきだ、その「糞便」にある甚だしい病気の兆候を見逃して、「うんこ」の臭いのみ鼻を抓む習慣はそろそろやめなければならない。
…………
さて冒頭、柄谷行人の発言の引用で始めたのだ。彼はその後、2013年の講演で次のように発言していることを付記しておこう。
債務危機の解決策は、《増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルト》しかない。戦争かデフォルトを選択する戦略なのだろうか、あれらの「左翼」たちは。北野武は、日本という国は一度亡んだほうがいい、という意味のことをどっかで言っていたが、内心「デフォルト」志向なのだろうか。
…………
ーーなどということをわたくしが書いても致し方ないのだが、たぶんこういうことは「海外住まい」の消費税増があろうがなかろうが関係ない者のみが言える特権であるのかもしれず、実際すぐれた経済学者も、アベノミクス導入以前には、「逃げ切れるか」、などとオッシャッテイタわけだ。
藤田孝典@fujitatakanori:
・みんなが社会手当を受けたら、国の財源がなくなるという人々がいる。それはウソ。それなら欧州の国々はとっくに破綻している。
・ 財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する。
こういった「左翼」の消費税増反対などというものは、《文句も言えない将来世代》への残忍非道の振舞いではないか(参照:アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン)。
簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。
しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)
80年代の消費税導入の遅れ、90年代にいっそうの消費税増が遅れたからこそ、現在、いっそうひどい財政危機に瀕し、いま弱者たちの首をいっそう絞めているのではないか、――とまでは言わないでおくが、「左翼」の連中は、未来の他者への心配りがまったく欠けた経済音痴どもの集まりではないかと疑わざるをえない。90年代におけるあれら「左翼」の弱者擁護の名目での「誠実で正義感溢れる」姿勢・活動が、いまの急激な「格差社会」成立にかなり貢献しているのではなかろうか。
彼らの経済的弱者への「共感」による合意(コンセンサス)は、今ここにいる者たちの間でのみの合意であり、未来の経済的弱者への配慮はなされない。90年代に「未来」であったその弱者は、2014年の今ここに多数いる。その苦境に大いに貢献したのではないか、あの正義の味方「左翼」の連中は。
彼らの経済的弱者への「共感」による合意(コンセンサス)は、今ここにいる者たちの間でのみの合意であり、未来の経済的弱者への配慮はなされない。90年代に「未来」であったその弱者は、2014年の今ここに多数いる。その苦境に大いに貢献したのではないか、あの正義の味方「左翼」の連中は。
…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。
たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)
真のラディカル左翼であるなら、消費税を西欧諸国なみに挙げる提案を支持し、そこから、たとえばベイシックインカム制度が夢物語であるなら、フリードマンの「負の所得税」などを変奏して提案していくべきではないだろうか。
負の所得税とは所得に関係なく一定の税率を一律にかけ、 基礎控除額を定めることでそれを上回った者から所得税を徴収し、下回った者は逆に所得に応じた負の所得税を払うものである。負の所得税とはすなわち政府からの給付金である。
基本税率 40 パーセント、基礎控除額が年収 200 万円だとすると 年収 1000 万円の者は基礎控除額を超過している 800 万円が課税対象となり 40 パーセントの 320 万円を所得税として支払う。
年収 200 万円の者は基礎控除額を上回りも下回りもしないため所得税を支払わない。
年収 100 万円の者は基礎控除額 200 万円を 100 万円下回るためマイナス 100 万円が課税対象となり、40 パーセントのマイナス 40 万円を支払う。つまり政府から 40 万円を受け取る。この 40 万円が負の所得税である。
つまりまったく収入が無い者はマイナス 200 万円の 40 パーセントである 80 万円を受け取ることになり、これが最低レベルの所得の者に支払われる生活保護額となる。(「再分配方法としての負の所得税」ネット上PDFよりーー「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人))
もちろん消費税増の導入の景気停滞の影響は顧慮しなくてはならないということはある。
消費税が3%から5%に引き上げられた1997年の景気動向については、アジア通貨危機(7月)、金融システムの不安定化(11月)という大きなショックに日本経済が見舞われたため、消費増税そのものの影響だけを析出するのは容易ではない。(社会保障・税一体改革の論点に関する研究報告書説明資料(第Ⅱ部) 平成23年5月30日東京大学大学院経済学研究科長吉川洋 )
現在、消費税が5%から8%の影響も存外大きいままなのかもしれない。とはいえ、そうであるなら、8%→10%を遅らせるべきなのだろうか。
私は「消費税引き上げの影響は存外に大きい可能性がある」という見方です(植田和男先生とたぶん同じ)。ただし、目先の景気と将来の負担との比較の問題で、目先の痛みは大きいとしても、それをしなかったときの将来の痛みはもっと大きいと考えています。(池尾和人氏ツイート)
消費税率10%への引き上げ見送りが、日銀の政策への最大のリスクになる(黒田東彦日銀総裁インタヴュー)
現在、2015年に消費税率を10%に上げることの是非が議論されているが、私は毎年1兆円規模で肥大するといわれる社会保障費の問題を考えても、10%への増税は不可避であり、将来的にはそれでも足りないと思っている。むしろ、アベノミクスの成功に安心して10%への増税が見送りになったときこそ、長期金利が高騰し、景気の腰折れを招くことになるだろう。(岩井克人)
とはいえ、アベノミクスなどなんの成功もしていないじゃないか、という反撥もあるだろう。ではどうしたらいいのか? それなしでいたずらな政策否定ではなしのつぶてである。
結局、あれらの「左翼」も「イギリス人」である。イギリス人とは、経済合理主義者の謂であり、短期的な「快」のみを求める。彼らの「快」は、中長期の視点をなおざりにし、いまこの場でのみ「庶民的な正義の味方」として振舞うことだ。それさえできれば「後は野となれ山となれ!」、--そうでなかったなら、どうしてあのような寝言を言いうるのだろう、ーー《財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する》などと。
われわれは、真の「糞便」をしっかり観察すべきだ、その「糞便」にある甚だしい病気の兆候を見逃して、「うんこ」の臭いのみ鼻を抓む習慣はそろそろやめなければならない。
西洋におけるトイレのデザインの三つの基本型は、レヴィ=ストロースが考えた調理の三角形(生、焼く、煮る:引用者)に対応する、排泄の三角形を構成している。伝統的なドイツのトイレは、排泄物が消えていく穴が前のほうについているので、便は水を流すまで目の前に横たわっていて、われわれは病気の兆候がないかどうか、臭いをかいで調べることができる。典型的なフランスのトイレは、穴が後ろのほうについているため、便はすぐさま姿を消す。最後にアメリカのトイレはいわば折衷型、つまり対立する二極の媒介で、トイレの中に水が満ち、便が浮くが、調べている暇はない。(……)
ドイツ-フランス-イギリスの地理的三角形を三つの異なる実存的姿勢の表現と解釈した最初の人物はヘーゲルである。ドイツの反省的徹底性、フランスの革命的性急さ、イギリスの中庸的な功利的実用主義。政治的スタンスの面でいえば、この三角形はドイツの保守主義、フランスの革命的急進主義、イギリスの穏健な自由主義と解釈できる。社会生活のどの面が優性かという点からみると、ドイツは形而上学と詩、フランスは政治学、イギリスは経済学だ。トイレを考えてみれば、排泄機能の実践という最も身近な領域にも、同じ三角形を見出すことができる。魅了され、じっくりと観察する、曖昧な態度。不快な余剰をできるだけ速やかに排除しようとする性急な姿勢。余剰物を普通の物として適切な方法で処理しようとする実用的なアプローチ。(ジジェク『ラカンはこう読め』)
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さて冒頭、柄谷行人の発言の引用で始めたのだ。彼はその後、2013年の講演で次のように発言していることを付記しておこう。
「世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策 で競っている。日清戦争 後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国 は不適格。私はインド がヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります」
「現実政治を知らなすぎると言って、私の言うことを笑うかもしれませんが、『来るべき戦争』がやってきた時に、私の言ったことを認めざるを得ないでしょう」
債務危機の解決策は、《増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルト》しかない。戦争かデフォルトを選択する戦略なのだろうか、あれらの「左翼」たちは。北野武は、日本という国は一度亡んだほうがいい、という意味のことをどっかで言っていたが、内心「デフォルト」志向なのだろうか。
アタリ氏は「国家債務がソブリンリスク(政府債務の信認危機)になるのは物理的現象である」とし、「過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない」と言う。すなわち、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトである。そして、「これら8つの戦略は、時と場合に応じてすべて利用されてきたし、これからも利用されるだろう」とも述べている。(……)
現にアタリ氏自身も「(公的債務に対して)採用される戦略は常にインフレである」と述べている。お金をたくさん刷って、あるいは日銀が吸収している資金を市場に供給して貨幣価値を下げ、借金をチャラにしてしまいしょう、というわけだ。(資料:「財政破綻」、 「ハイパーインフレ」関連)
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ーーなどということをわたくしが書いても致し方ないのだが、たぶんこういうことは「海外住まい」の消費税増があろうがなかろうが関係ない者のみが言える特権であるのかもしれず、実際すぐれた経済学者も、アベノミクス導入以前には、「逃げ切れるか」、などとオッシャッテイタわけだ。
むしろデフレ期待が支配的だからこそ、GDPの2倍もの政府債務を抱えていてもいまは「平穏無事」なのです。冗談でも、リフレ派のような主張はしない方が安全です。われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれないのだから...(これは、本気か冗談か!?)(ある財政破綻のシナリオ--池尾和人2009.10ーーアベノミクスの博打)