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2014年11月13日木曜日

philia 愛とneikos闘争、あるいはビオスBiosとゾエZoë

――いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――(ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 「悦楽(享楽)と永劫回帰」より)

《フロイトのタナトス欲動は、〈他〉のなかの消滅に対抗して個の生の継続を確保する。このように解釈したら、死の欲動は、ビオス欲動である。ビオスBiosとは古代ギリシアの個の生の名である。それは死するが、また個がどのように彼もしくは彼女自身の生を処するかにかかわる。ゾエZoëは、逆に、永遠の生それ自体である。限定されたビオスを貫く縫い糸であり、個別的なものが消滅しても、ゾエは破壊されない。このように読めば、フロイトのエロスはゾエ欲動であり、タナトスはビオス欲動である。》(Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』私訳)

ここにあるように、ビオスとゾーエーは古代ギリシャ人が語った概念であり、フロイト派ならぬユング派のカール・ケレーニイの著作に次のように書かれている。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

このケレーニイの文は、冒頭のニーチェの《永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを》の変奏とさえ言いうるだろう。

『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像』という書名にあるように、ディオニソスは、ゾーエー(破壊されざる生)、エロスの神ということになる。とすれば、ディオニソス/アポロンの対立は、エロス/タナトスの対立となるのか。無限の生(ゾーエー)/一回性の生(ビオス)と。

「永遠の生」についてはラカンはこう語っている。

根源的な喪失とはなにか? 「永遠の生の喪失である、それはひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる、そのMeiosis(分裂)により」(ラカン『セミネールⅩⅠ』英訳からの私訳)

フロイトはその最晩年の著作(1937年)でーーラカンがフロイトの遺書と呼んだーー、「永遠の生」をphilia 愛=エロスとしている。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳

このようにしてポール・ヴェルハーゲによって、《生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す》と書かれることになる(参照:フロイトの『Why War?』における愛と憎悪)。

エロスが死をめざす、という意味は、〈大文字の母〉との融合を目指すということであり、だがそのとき個体は消滅する。エロスは不安にかかわるのだが、その不安とはその消滅の怖れの不安だ。

タナトスが生をめざす、という意味は、エクスタシーの瞬間の個体の消滅から逃れだし、しかしながらつねにエロスの欲動と合体して、ファリックな快楽(性交に代表される)の反復衝動をするということだ。灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動。(参照:エロスとゆらめく閃光

もちろんこれらの解釈については異論があるだろう。とくにタナトス概念については諸説紛々である。だが、わたくしの書き物において、たとえば〈愛〉という語彙を使用するとき、このヴェルハーゲのフロイト解釈にもとづいて主に叙述している。そしてそれはニーチェにも繋がる、ーーというのは最近いささかどうでもよくなってきたのだが、カボチャ頭くんたちの誤読を惧れるので、いま念押ししておこう。

ここでやや遡って、フロイトの同じ後期でも1920年の著作ーーエロスとタナトス概念がはじめてこの論文で書かれたーー『快感原則の彼岸』におけるプラトンの『饗宴』の引用箇所をその前後も含めて抜き出しておく。

……われわれは科学の領域で性の発生の問題についてわずかしか発見したものをもたないので、この問題は、仮説という光線すらも射し込まない暗闇に比することができるほどである。まったく別の場所で、むろん、われわれはこのような仮説に出くわすことはあるけれども、それは非常に空想的なものである。たしかに科学的な説明というよりは、むしろ一つの神話である。だがそれは、われわれがまさにのぞんでいる一つの条件を満たすものであって、もしそうでなかったら、私はあえてここで引用する勇気をもたなかったであろう。それは、つまり以前の状態を回復するという要求から一つの本能を演繹しているのである。

言うまでもなく私はここでプラトンが『饗宴篇』の中で、アリストファネスを通じて展開させている理論のことをさしている。この理論は、性的衝動の起源のみならず、対象に関するその重要な変型の由来をも論じている。

「つまりわれわれの身体は、もとは現在とおなじにつくられていなかった。それはまったく別物だった。最初に三つの性があった。いまのように男と女だけでなく、この二つの性を結びつけていた第三の性……つまり男女〔おとこおんな〕があった……」この種の人間ではすべてが二重になっていた。つまり四本の手と四本の足、二つの顔、二重の陰部などをもっていた。ところがゼウス神は、あらゆる人間を二つの部分に分けようという気になった。「ちょうど『まるめろ』の実を漬け物にするために真っ二つにするように……こうして全体が二つに断ち切られてしまったため、二つの半分はたがいに憧憬に駆りたてられた。彼らは手と手で抱き合い、合体しようとの望みをいだいて、たがいにひとと絡み合った……」

われわれは、詩人哲学者の暗示にしたがって、生命ある物質は生を享けたさいに、小部分に引き裂かれ、これら小部分はその以来というもの、性的衝動によってふたたび結合しようと努めると、勇んで仮定すべきなのであろうか?(……)

しかし、批判的な考慮から出た数言をつけ加えておく必要があろう。ここに展開した仮定を、果たして確信しているかいないか、また、どの程度まで信じているのかと問う人があるかもしれない。私は自分でも信じていないし、他人にもそれを信じよなどと求めはしないと答えたい。もっと正確にいえば、私がどの程度それを信じているのか分からないのである。確信というような感情的な要素は、ここではまったく問題とするに足りないように思われる。われわれは、ある思考過程に身をまかせ、それがみちびくところまでついて行くことはできるが、それはただ学問的な好奇心からである。いってみれば、悪魔の代弁者として思考の路を追うのだが、だからといって、悪魔に身を売ることにはならない。(……)

以前の状態を回復しようとするのが、現実に本能の一般的な性質であるとすれば、精神生活において多くの事象が快感原則の支配をうけずに成就されることは、あやしむにたりないであろう。この性質はそれぞれの部分的衝動につたえられて、それぞれの場合に応じて発展経路の一定段階にふたたび到達することになるであろう。しかし、これらのすべてのことは、快感原則がまだ支配するにいたらない場合のことであるから、快感原則に対立する必要はないのであって、衝動的な反復現象が快感原則の支配とどのような関係ひあるかは、未だに解決されていない課題である。

われわれは、心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する衝動興奮を「拘束」すること、それを支配する一次過程を二次過程に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギーをもっぱら静的な(強直性の)備給に変化させることなどのことをみとめた。(フロイト『快感原則の彼岸』フロイト著作集6 p188-190