《君は『戦争と平和』を読んでいるときに、重傷を負ったボルコンスキイをむりやり地理的かつ時間的にナターシャと接触させようとして、どれほどトルストイが無理をしているか、気づいただろうか?》─『ナボコフ=ウィルソン往復書簡集
1940-1971』
ナボコフの挑発に促されて、この何週間か『戦争の平和』をめくっていた。
むりやり地理的かつ時間的に、の箇所はすぐ知れた。
手元にある岩波文庫(米川正夫訳)では、第三部 第二篇の395頁にまずはこうある。
囀りの声を立てて矢のごとく飛びながら地上へおりた小鳥のように、アンドレイ公爵(ボルゴンスキイ)から二歩ばかりへだてた大隊長の馬のそばで、榴弾があまり高い響きを立てずにぐしゃりと落ちた。(……)
『これがいったい死なんだろうか?』アンドレイ公爵はまったく新しい羨望の眼をもって、草や、苦蓬や、旋回する黒い玉から舞い上がる煙の流れを見ながら、こう考えた。『俺は死ぬことができない。死にたくない、俺は生活を愛している、この草と土と空気を愛している……』
榴弾は炸裂し、ボルゴンスキイはわきの方へけし飛ばされ、片手を上げたまま胸を下に倒れる。右の脇原からは大きな血のしみが草の上に流れひろがる。
「ああ、何というこった、本当になんというこった! 腹部に命中するとは! これじゃだめだ! ああ、何というこった!」――将校たちが叫んでいる。
このボロジノの戦いは、1812年8月26日であり、戦闘後、ナポレオン軍は120キロ離れたモスクワに、9月2日に乗りこむ。ところが重傷のボルゴンスキイを運ぶ馬車は、8月31日の夜、モスクワに辿り着いている。ナターシャ一家(ロストフ家)の知人はほとんど全部モスクワを出ていっているのにもかかわらず、彼らはモスクワにぎりぎりまでうろうろしている。
ボルゴンスキイが、ロストフ家に入り込む場面も奇妙だ。
この夜また一人の新しい負傷者が、ボワルスカーヤ街を運ばれてきた。門のそばに立っていたマーヴラ・クジミーニシナは、その車をロストフ家に入れさせた。この負傷者は、マーヴラ・クジミーニシナの想像によると、よほど身分のある人らしかった。乗りものは四輪馬車で、前は膝掛けで蓋をしたうえに、幌までおろしてあった。馭者台の上には馭者と並んで、品のいい老侍僕が腰をかけていた。後ろの荷馬車には軍医が一人と、兵卒が二人乗っていた。
「わたくしどもにおいでくださいまし。どうぞ、御主人がたはお発ちになりますので、家じゅうがら空きでこざいます」と老婆は侍僕にむいて言った。
「そうだなあ」と侍僕はため息をつきながら言った。「とても行き着かれそうもないでなあ! わたしどもも、モスクワに自分の家があるんだが、だいぶ遠いうえに、誰もすまっていないもんだから」第三部p477
ナボコフはおそらくこのあたりのことを言っているのだろう。
…………
こうやって拾い読みをすると、ほかの場所も読み返してみたくなる。結局、第一部の終わりあたりから、最後までまた読むことになる。
第一部の終わりでも、アンドレイ公爵は重傷を負っている。アウステリッツの会戦(1805)の場面であり、その箇所はあまりにも有名だ。
『これはどうしたのだ? 俺は倒れかかっているのか! なんだか足がへなへなする!』とアンドレイ公爵は考えると、たちまちあおむけにぶっ倒れた。彼はフランス兵と砲手の争闘の結果がどうなったか、赤毛の砲手が殺されたかどうか、大砲は鹵獲されたか助かったか、それを見るつもりで眼を開いた。が、なにも見えなかった。彼の頭上には高い空――晴れ渡ってはいないが、それでも測り知ることのできないほど高い空と、その面をはってゆく灰色の雲のほか何もない。
『なんという静かな、穏やかな、崇厳なことだろう。俺が走っていたのとはまるっきりべつだ。』とアンドレイ公爵は考えた。『われわれが走ったり、わめいたり、争ったりしていたのとはまるっきりべつだ。あのフランス兵と砲手が、おびえた毒々しい顔つきをして、洗桿をひっぱりあっていたのとは、まるっきりべつだ。この高い無限の空をはっている雲のたたずまいは、ぜんぜんべつなものだ。どうして俺は今までこの高い空を見なかったんだろう? 今やっとこれに気がついたのは、じつになんという幸福だろう。そうだ! この無限の空以外のものは、みんな空〔くう〕だ、みんな偽りだ。この空以外はなんにもない、なんにもない。しかし、それすらやはりありゃしない、静寂と平安のほかなにもない。それでけっこうなのだ!……』一巻 P538-539
そしてピエールとの渡し船の場面の「高い空」。
アンドレイ公爵は渡し船の欄干に肘をついて、ピエールの話を聞きながら、蒼ずんだ水面に輝く赤い反映を、まじろぎもせず見入っていた。ピエールは口をつぐんだ。あたりはしんと静まりかえっていた。渡し船はとうに向こう岸へ着いている。ただ川波が弱い音をたてながら、船底にひたひたとあたるばかりであった。アンドレイ公爵はこの波のささやきがピエールの言葉に和して、「そうだ、信じなさい。」というように感じられた。
アンドレイ公爵はため息をついた。そして、ピエールの赤くなった顔を、光にみちた、子供らしい、やさしい眼でちらと眺めた。ピエールの顔には勝ち誇ったような表情ではあるが、それでもやはり、優越権を握った友にたいする遠慮の色がうかがわれた。
「そう、それが本当にそうだったらなあ!」と彼は言った。(……)渡し船を出るときに、彼はピエールの指さした空を仰いだ。かつてアウステルリッツの戦場に横たわって眺めたかの高い永遠の空を、彼はあのとき以来はじめて見たのである。と、なにかしら、ずっと前から眠っていた心中のある優れたものが、ふいに悦ばしげに彼の胸によみがえった。
アンドレイ公爵がなれっこになった以前の生活条件ははいると同時に、この感情は消えてしまったけれど、彼の育まれなかったこの感情が、心の中に生きていることは自分でも知っていた。ピエールとの会見はアンドレイ公爵にとって、一つの画期的な事件であった。このとき以来、外見上こそ変わりがないけれども、内部の世界に新しい生活が始まったのである。二巻P193-194
ほかにも若年期からのお気に入りの場面が、五、六箇所ほどあり、こういった大小説は、その場面に近づく予感とともに読むことになってしまう。
ところで、ここで冒頭のナボコフをまねて、次のように言ってみることにする、
ーー「きみは覚えているだろうか? ボルゴンスキイがナターシャに出会うロストフ家の田舎の地所愉楽村の場面を。彼が眠れぬまま二階の部屋のバルコニーで、窓を開けて月夜を眺めつつ耳をすます上の階からのナターシャの声音の甘美さを。そしてその前後の愉楽村に向かう途中にある白樺林のなかの楢の老樹と帰途の同じ木の描写の反転を」。
そこにはいままで書かれた小説のなかで、最も繊細なポエジーの極致のひとつがあるとは言えないだろうか。
だがひとにはそれぞれ愛する小説やその個別の箇所をもっているのであろうし、わたくしの場合若年期に強烈な印象を受けたある箇所だけを慈しむようにして、ほかの箇所に眼が届かなくなるという「悪癖」がある。
最も古典的な物語(ゾラやバルサックやディケンズやトルストイの小説)には、いわば薄められた合成語分離法とでもいうべきものがある。われわれは全体を同じ緊張度で読みはしない。テクストの完全性をあまり大事にしない、無造作なリズムで読む。知りたい一心で、なるべく物語の白熱する部分(それは、常に物語の関節であり、謎や運命の暴露を進行させる部分だ)に到ろうとして、(《退屈》そうに思われる)ある箇所を斜め読みしたり、抜かしたりする。描写や説明や考察や会話はとばしても罰は受けない(誰もみていないから)。その時、われわれは、舞台に跳び上がって、すばやくダンサーの服を脱がせ、ストリップの先を急がせるキャバレーの客に似ている。急がせるといっても、順序に従って、だ。つまり一方では、儀式の挿話(エピソード)を尊重し、他方では、それを早めるのである(ミサをはしょる司祭のように)。快楽の源泉であり、技法である合成分離法は、ここでは、散文的な二つの縁を向かい合わせる。秘密を知るのに有用であるものと有用でないものを対立させる。それは単なる機能性の原理から生じた断層である。それは直接言語活動の構造からは生れない。言語活動の消費の時にだけ生れるのである。作者はそれを予見できない。すなわち、読まれないであろうことを書こうとすることはできない。しかし、偉大な物語のもたらす快楽は、読むことと読まないことのリズムそのものだ。プルーストやバルザックや『戦争と平和』を逐語的に読んだ者がいるだろうか(プルーストの幸せ、それは、誰も、読むたびに、決して同じ箇所はとばさないことだ)。
私が物語で味わうものは、従って、決して内容ではないし、構造でさえない。むしろ私がその美しい外被につける擦り傷だ。私は急ぐ。とばす。顔を挙げる。また読み始める。悦楽のテクストが、単なる読書の時間性にではなく、言語活動自体に与える裂傷とは関係がない。
そこから、二つの読み方が生ずる。一つは一気に逸話の関節に向かい、テクストの広がりを見渡すが、言語活動の遊びを知らない(シュール・ヴェルヌを読むとき、私は先を急ぐ。ところどころ話の流れを見失う。しかし、私の読書は言語の覆流水―――洞穴学において持ち得る意味で―――によって魅せられることはない)。もう一つの読み方は何もとばさない。吟味し、テクストに密着し、いわば、熱心に、夢中になって読み、テクストの各箇所で、言語活動―――逸話でなく―――を断ち切る連辞省略を捉える。この読み方を魅するのは(論理の)発展でも、真理をむしろとることでもなく、意味形成性の薄片だ。熱い手遊び(マン・ショード)のように、興奮は進行を急ぐことから生じるのではなく、いわば、垂直の大騒ぎ(言語活動とそれの破壊の垂直性)から生じるのである。
…
この密着した第二の読み方は現代のテクスト、限界=テクストにふさわしい読み方である。ゾラの小説を、ゆっくり、通して読んで見給え。本はあなたの手から滑り落ちるだろう。現代のテクストを、急いで、断片的に読んで見給え。このテクストは不透明になり、あなたの快楽に対して門戸をとざすことだろう。あなたは、何事かが起こればいいと思う。しかし、何も起こらない。言語活動に起こることは話の流れには起こらないからだ。すなわち、《起こる》もの、《過ぎ去る》もの、二つの縁の断層、悦楽の隙間は、言語活動の量(ボリューム)の面において、言表行為において生ずるのであって、言表の連続において生ずるのではない。早読みしないこと、丹念に摘みとること、現代作家のものを読むには、昔のような読書のひまを再び見出すこと、すなわち、貴族的な読者になることだ。(ロラン・バルト「テクストの快楽」)
1828年生まれのトルストイは、1862年に『戦争と平和』に着手(~完結1869年)しており、つまり三十代の半ばからの仕事であるが、そのみずみずしさの度合いは、後年の作品とは大きく異なる、--などと多くの先達の称揚の尻馬に乗っていまさら語ってもはじまらないが、アランがトルストイの後年の作品を読んだあとには、やはり『戦争と平和』に戻るように奨め、小林秀雄が「読む本に困ったら、トルストイを。出来れば『戦争と平和』を」などとするのに十代の頃強い印象を受けていまだその影響下あるためか、わたくしにも『戦争と平和』がもっとも近しい。そこには、プルーストのいう「ビロードの肌触り」がある。
理知が摘みとってくる真実――この上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる真実――透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほどその価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実な、より干からびた輪郭をもち、平板で、深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじようなビロードの肌ざわりはない。(プルースト「見出された時」)
今、私の人生の半ば、私の個人的なものの頂点にあって、二つの本の読み方を再発見したのです(実は、いく度も読み返すので、正確にいつとはいえないのですが)。第一は、残念ながら、もう書かれることのないような大小説、トルストイの『戦争と平和』です。今、お話するのは作品についてではなく、それから受ける衝撃についてです。この衝撃は、私にとって、ボルゴンスキ老公爵の死で、彼が娘のマリアに語りかける最後の言葉で、死が迫って、愛の言葉(おしゃべり)を一度も交わすことなく愛し合っていたこの二人が引き裂かれ、どっと愛情がほとばしる所で、頂点に達します。第二は、『失われた時』の、祖母の死のエピソードです(この作品はこの講演の最初の部分とは別の資格でここに登場します。私は、今度は、作家にではなく、「話者」に同化しています)。これはこの上なく純粋な物語です。私が申し上げたいのは、ここでは、苦しみが(『失われた時』の他のエピソードとは逆に)注釈を加えられていないだけに、そして、やがて来る、永久に引き裂こうとする死の残忍さが、シャンゼリゼのあずまやへの立ち寄りとか、フランソワーズに髪をとかしてもらって揺れる哀れな頭といった間接的な事物や事件を通してしか語られないだけに、純粋であるということです。(ロラン・バルト『テクストの出口』より)
忙しい現代、ひとはかつての古典などめったに読み返しはしない。いま、若い人たちのなかで、アランや小林秀雄のように読むひとがどれだけいるのだろう。「小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったといふ具合な解り方をして了ふ」(小林秀雄)というのは錯覚かもしれない。だがその「錯覚」を覚える読み方をしているひとがどれだけいるだろう。
忙しい人間に文学、つまり、本を読むことの必要などない筈であって、それでも教養が身に付けたいという種類のいじらしい考えでいても、そうしたせかせかした気持で人が書いた言葉など楽しめるものではない。仮に本当に教養が身に付けたいのであっても、そんなに忙しいならば、又、教養というのが精神を快活にするものであるならば、その間に眠った方が体にも、精神にもよさそうである。(吉田健一『文学の楽しみ』)
まあ現在そんなことを言い出したら、殆んどの人は本など読めなくなってしまうのかもしれない。
だが今でも次のようなことはいえるだろう。
私の人生観はわりと単純で、善人と悪人というんじゃなくて、余裕のある人間と、余裕のない人間とがあるんだろうと。それは程度の差もあるし質もあるだろうけど、私はそう考え、そういう軸で人をみている(中井久夫「家庭の臨床」『「つながり」の精神病理』ちくま学芸文庫、2011年(初出1985年))。
吉田健一には次のような名文句がある、「書棚には、五百冊ばかりの本があれば、それで十分というのが、吉田さんの口癖だった」(篠田一士『読書の楽しみ』)
篠田一士はこうも書いている、《「本は五百冊あればというのは、ズボラか、不勉強かとは逆に、よほどの禁欲、断念のはてに実現するもので、これを実行するには、並大抵の精神のエネルギーではかなうことではない。一日に三冊もの本を読む人間を、世間では読書家というらしいが、本当のところをいえば、三度、四度と読みかえすことができる本を、一冊でも多くもっているひとこ そ、言葉の正しい意味での読書家である」
吉田健一こそ「そういうひとだった」というのだ。》
私はバルザックのために戦ってきた。時どきこんな人にお目にかかるのだが、『谷間のユリ』は実にたいくつだ、ということを私に証明するせっかちな読者がある。ところが私には、あの作品が『イリアッド』ないし『ハムレット』にもひけをとらぬことの証明ができない。じつは私はそう心得ているのだが。しかし、そういう読者に対して、あなたは読まないで話していますね、ということならいつでも証明できる。私は崇高なくだりをいくつか挙げてみるが、彼はそういう箇所に気づいていさえいないのである。(アラン『プロポ』「読者のつとめ」杉本秀太郎訳)
…………
「肝心の作品をよく読みもしないで、手前勝手な理屈をこねまわす文学研究者の何と多いことよ」
森有正は、「彼(アラン)はアリストテレスを十八回読破したと言う!」と、感嘆の声を発しているが、およそアランほど、徹底して古典を読みこんだ者はいないであろう。
例えば、彼は、トルストイの大作『戦争と平和』を10回以上、あの厖大なサン・シモンの『回想録』を一行も飛ばさずに少くも三度以上反読する。『谷間の百合』、『パルムの僧院』、『赤と黒』に至っては実に五十回以上も読み返し、しかも読むたびに喜びを新にする。
「ステイヴンソンの『宝島』は、はとんど記憶の中に書きとめられている」と言う。おそらく、プラトンやスピノザ 、デカルト、ヘーゲル、(……)などの哲学者も、こんな風にして、その全著作をくり返し彼は熟読したのであろう。
例えば『谷間の百合』が退屈だとかつまらぬとか言う者がいるが、彼等はかけ足でページからページへと急いだだけで、ろくによく読みもしないで勝手な言辞を弄している、これこれしかじかの素晴らしい個所を引用してみると、彼等はそんな部分があったことにさえ全く気づいていない。
肝心の作品をよく読みもしないで、手前勝手な理屈をこねまわす文学研究者の何と多いことよ、とアランは嘆くのである。(アランと小林秀雄より)
アランにしろ、小林にしろ、彼等が最も軽蔑するのは、物を創る忍耐も工夫も、そこにある喜びも苦しみも知ることなく、もっともらしい空疎な言辞を呈するやからだ。芸術家は、美についてなど考えない。そんな空想じみた考えからは何も始まりはしない。「芸術家は、物Dingを作る、美しい物でさえない、一種の物を作るのだ。人間が苦心して様々な道具を作った時、そして、それが完成して、人間の手を離れて置かれた時、それは自然物の仲間に這入り、突如として物の持つ平静と品位とを得る。それは向うから短命な人間や動物どもを静かに眺め永続する何ものかを人間の心と分とうとする様子をする。」画家や彫刻家は言うまでもなく、音楽家も詩人も小説家も一種の物を創り出す人間である。小林は、思想家さえもそうだと言う。「鑿を振り上げる外にどうしようがあるのか」そういう行為が思想だ。「思想といふ一種の物を創る仕事」「文体を欠いた思想家は、思想といふ物に決して到る事は出来」 まい、といった風に小林は語るのである。
また例えば、小林が宣長を引用しながら述べる、感情は訓練され馴致されなければ、その人の明瞭な所有物とならない、自分の物として見る事の出来る対象にならない、「歌とは、意識が出会ふ最初の物だ」という言葉。あるいは、歌とは一種の礼であり「秩序なく泣いては、人と悲しみを分つ事が出来ない」悲しみのうちにあって、悲しみをととのえ「悲しみを救ふ工夫が礼である即ち一種の歌である」(同上)
読書百遍とか読書三到とかいういい古された教訓には、実に容易ならぬ意味があると言う小林は、「読書について」と題された断片的なエッセイでこう述べている。誰れでもよいが、一流の作家の全集を読むのは非常によい事だ。全集を、日記から書簡まで、隅から隅まで読む。一流といわれるような人は、どんなにいろんな事を考え、試みていたかよくわかるだろう。それまで単純に考えていた、その作家の思想とか性格は、もはや判然としたものではなくなり、ますます奥の方に手探りで探さなければならないものとなろう。「僕は、理窟を述べるのでほなく、経験を話すのだが、さうして手探りをしてゐる内に、作者にめぐり会ふのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。かうして、小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったといふ具合な解り方をして了ふと、その作家の傑作とか失敗作とかいふ様な区別も、別段大した意味を持たなくなる、と言ふより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるといふ様になる。」
プラトンにせよ、デカルトにせよ、ヘーゲルにしろ、コントにしろ、ことさら彼等の思想などを探ることなく、モンテーニュやバルザックを読むような具合に、気ままに、楽しみながら、心ゆるやかに読むこと。小林秀雄の愛用する言葉を用いれば、漫読することだ。何かを学ぼうとして、自分は何物も学んだことはない、とアランは言う。「私見によれば、記憶にとどめようとなどせず、ただ気晴らしに読むのが秀れた読書法なのだが、これは余りに知られていない。こんな風にして読んだものほど、我々と一体となり、我々を豊かにし、和ませるのだ。」(同上)
《彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。
今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。》(「交通について」)中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』河出書房新社、1979.9)
小説でいえば、ヘーゲルの役割を果たしたのはトルストイです。彼は完全な物語を書いてしまった。これ以上の小説はないと作品自体がいっています。
そのあとにフロベールが出てきて、終わったはずの小説を書く。「感情教育」は1848年の革命を、決して物語にならないように書いたものです。物語のディコンストラクション(脱構築)として。彼以後のすべての近代小説は、終わった物語をもう一度書く、というものなんです。 ((平成2年5月1日朝日新聞夕刊 対談 大江健三郎&浅田彰)
どうもその程度の認識もなく、その意味も分らずパロディやらバスティッシュやらとノタマウ愛好者がしたり顔で文学を語ってしまっていることはないか。まあそれは無知として致し方ないにしろ、これら巷間の「宇宙人」たちは好きとか感動したとかばかり語るだけで、小説の細部の指摘、たとえば冒頭のナボコフのような指摘がされている様子もほとんど窺われない。
もっともナボコフの読みは唖然とさせるものが多く、たとえば、カフカの『変身』のカブト虫をめぐる解釈の徹底性など、それを読めば、わたくしのような凡庸な読者はなにも読んでいなかったことを思い知らされる。
ナボコフのようでなくてもよい、《フローベールは「黄色の印象を与えたい」がために『サランボー』を、「わらじ虫がうようよする片隅のあのカビの色みたいな感じを出したい」がために『ボヴァリー夫人』を書いたらしく、これを聞いただけでもフローベールに好感を抱かざるを得なくなる》とアンドレ・ブルトンは言っているが、これを読めばまた『ボヴァリー夫人』を再読したくなる。そんな指摘ができるのが本来の小説の読み手だろう。
浅田:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。
大江:浅田さんには「自分は単なる明晰にすぎない」という、つつましい自己規定があるんですね。明晰な判断力ではとらえきれないものがあって、それは明晰さより上のレベルだと思っていられる。天才というようなものが働くレベルというか。文学というあいまいな場所で生きている人間からすると、上等な誤解を受けている気がします・・・・・・(笑い)。
浅田:ところが不思議な転倒現象があるんです。戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫であり、明晰であるべき批評家たちが不透明に情念を語ることに終始したんですね。三島は、最初から作品の終わりが見え、そこから計算しつくされたやり方で作品を組み立てて、きらびやかであるだけいっそう空虚な言葉の結晶を残した。他方、小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかりだった。二重の貧困です。(平成2年5月1日朝日新聞夕刊 対談 大江健三郎&浅田彰)
浅田彰の苛立ちは、ここにある「二重の貧困」へのものであり、彼はあえて「貧しい領土」にとどまっているのであり、彼の資質がそれだけではないのは、かつてときおりみせた「音楽」や「映像」などへの官能的表現にふと垣間見らる、としておこう。
メタリックな切断と貫通の力が音楽を<外>へと解き放つ。音楽はそこを横切っていく旅人だ。そして、旅人たちの出会いやすれちがいがまた新しい音楽を散乱させることになるだろう。
逆に、<外>を駆ける速度と強度を失い、閉じた空間の中に堆積していくとき、音は音楽であることをやめる。
(……)
こうして、音たちは旅人になる。<外>の空間を縦横無尽に横切っていく、その途方もない往来。それが音楽である。
そんな音楽に耳を傾けること。そのうち、自分自身が無数のきらめく微粒子となりメタリックな音の粒となって、コスミックなさざめきの中に漂い出すこと。それがヘルメスの誘惑である。いかがわしくもあり危険にも満ちた、それでいてあらがいようもなく魅惑的な、音楽の誘惑である。(浅田彰『ヘルメスの音楽』)
いまはマラルメプロジェクトにかかわり、少し前にはフォーサイスの舞踏をめぐって次のように書いているわけだ。
演劇があくまでも意味に縛られているのに対し、舞踏は意味に先立つ純粋な出来事に向かうのだ。それは、既成の知のコードを逃れて「骰子一擲」としての純粋な思考に向かうことであり、同時に、目に見えるアクチュアルな運動のコードを逃れて不可視のヴァーチュアルな運動に向かうことでもあるだろう。そのような裸形の出来事としての舞踏がマラルメの夢見たものであるとすれば、その夢は、一世紀の後、フォーサイスによって――そう、加算的総合に向かうブーレーズ以上に、減算的純化に向かうフォーサイスによって、ほとんど実現に近づいたかに見える。(浅田彰「マラルメに始まる」)
…………
※附記
※附記
(共同討議)「芸術の理念と<日本>」 浅田彰、磯崎新、岡崎乾二郎、柄谷行人 『批評空間』 No.10 1993年
●小林秀雄的レトリック
岡崎 ・・・その見えない物自体のような函(ルビ:ハコ)である<地>に、<絵画>や<芸術>を代入し実体化して自分だけ見えるかのように信じる人が多いから困るんですけれどね。
岡崎 ・・・その見えない物自体のような函(ルビ:ハコ)である<地>に、<絵画>や<芸術>を代入し実体化して自分だけ見えるかのように信じる人が多いから困るんですけれどね。
浅田 さっきの話で言うと、アメリカ型モダニズムというのは、メタ・レベルで、各ジャンルが自己批判を通じて自己純化せよというルールをおいた上で、それを、建築なら機能性、絵画なら平面性に自己を還元せよというオブジェクト・レベルのルールに引き下ろして記述したわけですね。それに対して、前に岡崎さんが小林秀雄について言われたように、日本の場合は、そういう記述を行わず、つねにメタ・レベルに留保された曰く言い難い美の<理念>に触れ、それをトートロジカルに反復するだけだ、と。しかし、実は、自分こそがそういう<理念>を直接摑んでいるという思い込みが、背後で両者を共通して支えているんですね。
岡崎 そうですね。クレメント・グリンバーグでも、あるいは藤枝晃雄さんでも、肝心なところで、絵画を描くだけで絵画はのりこえられるとか、平面でありながら平面でないとか、わけのわからない反語形を言い出すところで、残念なことに小林秀雄になってしまうんですね。<真正の>なんて理念をふりまわし始めたら、せっかくの本邦唯一の読むに堪える形式批評も台無しですよ。ただの判断基準なき趣味判断になってしまう。自分だけが特権的にその見えざる理念をにぎっていると主張しているにすぎなくなってしまうわけですから。
柄谷 それはもともとロマン派(シュレーゲル)にあったような事柄ですね。カントがそういうことを背理として指摘していたけれども。
浅田 カントは、美学的判断は主観的であるにもかかわらず原理上はいかなる人にも普遍的に妥当することを要求するという、ほとんどむちゃくちゃなことを言っている。
柄谷 ロマン派はそれをつなぐのがイロニーだと言う。
浅田 グリンバーグのような目ききとその追随者たちとか、小林秀雄とか、そういう特権的な人がけが見られるものだとすれば、それは<理念>ではないんです。とにかく、日本のグリンバーギアンの不思議なところは、きわめてドグマティックな個人崇拝になっているところでしょう。岡崎さんとの往復書簡(『読売新聞』一九九〇年三月二十日夕刊)で藤枝晃雄が書いていたのは、磯崎新は、理論的にはともあれ、卑俗なポストモダニストたちとは区別して評価しなければならない、なぜなら、彼の設計したロサンジェルス現代美術館で講演をしてきたグリンバーグが、建築を認めこそすれ批判しなかったから、と(笑)。これはモダニズムどころかプレモダンそのものでしょう。
岡崎 どういうわけかわからないけれど、この私にだけ見えちゃったっていう人がいるわけね。あるいはそれによって事後的に私という主体性を支えている、そういう話になっちゃう。本人は、私が、とは主張していない。受動的であるかのように装ってしまう。
磯崎 それはいたって日本的なレトリックじゃないの。
岡崎 かもしれないけれど、ドナルド・ジャッドだってほとんど同じレトリックだから。
柄谷 小林秀雄の有名な言葉で、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」というのがある。しかし「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう。ぼくは「花」なんて見たことがない(笑)。「この花」と言っても、結局は概念から逃れられない。ものを書くなら、そこで勝負するほかない。とにかく概念がいやなら、いっさい物を言わないことだね。「美はひとを沈黙させる」なんてことも、書くべきではない。
浅田 小林秀雄で言うと、私といまここの美しい「花」(あるいはランボーでもモーツァルトでも)との特権的な出会いというトポスがあって、とにかくそれをバーンと出せばみんな平伏するしかない、と。磯崎さんも「見えない制度」で言われるように、その安っぽいトリックをもっとも鮮烈に批判したのは高橋悠治でしょう。