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2013年10月31日木曜日

剽窃と模作

《私は小説作品として(「探究」シリーズを)読んでいる。彼(柄谷行人)は『探究Ⅱ』を、デカルトとスピノザと3人で書いている。しかも、ワープロを使って。》(蓮實重彦)

――ツイッターにて拾ったので蓮實重彦がどこで語っているのかは窺いしれないが、いかにもロラン・バルトを愛する蓮實重彦のすぐれた「剽窃」である。

ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。(『彼自身によるロラン・バルト』)

あるいは『物語批判序説』の蓮實重彦ならこう書く。

《…それなりの原理によって安定しようとする理論的閉域に手をさしのべ、超=虚構的な言説の断言をつかみとり、文脈が崩れることをも怖れずにそれを駆りうけてくると、優雅な身振りでその出典を曖昧にしながら、自分の言説にくみいれるのだ。つまり、バルトは他者の言葉をあからさまに引用する…》

《…他人の言葉や概念をあからさまに引用することすら辞さないその身振りは、ほとんど盗みのそれに近いということもできるだろう…》

《…出典となった言説にあっては深さに保護されていた概念なり語句なりが、文脈から孤立化させられてあたりにばらまかれることで断片化の力学にさらされ、もっぱら拡散しながら浅さの衣裳をまとうことになる……バルト的な犠牲者の言説は、文脈を奪われた語句たちによる浅さの戯れを介して理論の閉域を解放する》(「近未来の剽窃のために」より)



ところで剽窃などを批判・揶揄する言葉、たとえば「自分のことばで表現しろ」などという発話は、この発話文自体、小学生のころから先生や、あるいは教育熱心な父母から聞かされてきた台詞の引用であり、それにも気づかず批判のことばとしてしたり顔の連中から頻出するのは、滑稽というよりほかあるまい。

仮に自己表現しようとしても、彼は少なくとも、つぎのことを思い知らずにはいないだろう。すなわち、彼が《翻訳する》つもりでいる内面的な《もの》とは、それ自体完全に合成された一冊の辞書にほかならず、その語彙は他の語彙を通して説明するしかない、それも無限にそうするしかないこと。(ロラン・バルト『作家の死』)

もちろん翻訳する辞書が、中学生程度どまりのみの台詞で出来上っているよりは、それなりの経験・古典の読書などによって出来上っているほうが好ましいには相違ない。


さて冒頭の引用を異なった側面から読むこともできる。『探求Ⅱ』の柄谷行人なら、デカルトやスピノザ、『探求Ⅰ』ならウィトゲンシュタイン、『トランスクリティーク』ならカントやマルクスに成りかわって、彼らなら現在をどう観るのか、どう解釈するのか、そうやって書いているとしてもよいだろう。

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

 …………

どの語彙を選ぶかどの構文を採るか、その選択の前で迷う自由はあっても、新たな選択肢そのものを好き勝手に発明することは禁じられているのだから、語る主体としての「わたし」が自分自身の口にする言葉に対して発揮できる個性など高が知れている。

しかし、実はこの制約と不自由こそ、逆に「わたし」が独我論的閉域から開放されるための絶好の契機なのである。どんな些細な言葉ひとつでもそれを唇に乗せたとたん、「わたし」は他者のシステムに乗り入れることになる。それを言い表そうとしないかぎり「わたし」自身に属する独自な感覚であり思考であると思われたものも、口に出すやいなや如何ともしがたく凡庸な言葉の連なりとして「わたし」自身の鼓膜によそよそしく響き、幻滅を味わうというのはよくある体験なのではあるまいか。自分の奥底まで届いた唯一のかけがえのない貴重な出来事を言葉にしようと試みて、語れば語るほど言葉がよそよそしく遠ざかってゆくというもどかしさが、われわれをしばしば苛立たせていないか。

だが、このよそよそしさとこのもどかしさこそ、言語の実践を彩っているもっとも豊かなアウラと言うべきものなのである。よそよそしさの溝を何とか跨ぎ越えよう、触れえないものに何とか触れようとして虚空をまさぐる宙吊りの時間のもどかしさに耐えながら、「わたし」は言葉を欲望する。言葉という他者に刺し貫かれることで豊かになりたいと願うのだ。

そんなとき、言葉は、まさしくあの「わたし」をうっとりさせる春宵の風の正確な等価物となる。むしろ、受精の機会を求めて風に乗って飛散する花粉のような何ものかと言うべきかもしれぬ。そして、よそよそしさともどかしさそのものを快楽に転じながら「わたし」が辛うじて声に出したり紙に書き付けたりしえた発語の軌跡とは、あたかもこの濃密な花粉を顔いっぱいに浴びてしまった人体に現れる過剰な免疫反応としての花粉症の症状にでも譬えられるかもしれぬ。他者のシステムとしての言語を前にした発語のもどかしさの快楽とは、眼の痒さやくしゃみを堪えながらしかし鼻孔をくすぐる花の香に陶然とすることをやめられずにいる者の、甘美なジレンマに似ている。(松浦寿輝『官能の哲学』)

松浦寿輝独自の詩的散文であるようにみえつつ、やはりここにも何人かの作家たちとのインターテクスチャアリティがある。

インターテクスチャアリティ、すなわち、一つのテクストは、過去のテクストの総体のなかで書かれ、かつそれは過去のテクストの意味を僅かでも変えること(エリオットの「伝統」概念参照)。


「私とは一個の他者である」(ランボー)はあまりに名高すぎるというのなら、ランボーの翻訳者鈴木創士氏のツイートだっていい、《「自分の言葉で表現しろ」は誤解を生む言いかたである。言葉は本来他人のものであり、その他人もまた別の他人から借りてきたのであって、言葉の使用法などというものはすでにして言葉の誤りである。規則や慣習に反抗した程度で損なわれる「自分」など、もともと表現するに値しないお粗末なものなのだ》


さらにヴァレリーのカイエの一節を並べてみよう。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)

ここでの「他者」は訳者の恒川氏によれば「言葉」である。そしてそれは「言葉」でなくてもよい。

ポール・ヴァレリー『カイエ』の引用は、実は中井久夫の「感銘を受けた言葉」(『アリアドネからの糸』所収)からだが、中井氏はこの引用のあと、次のように書いている。

訳者によれば、この手段は「言語」であるそうだが、ヴァレリーがそう考えていたにせよ、それは言語に限ったことではないと考えてもよさそうである。私は、このアフォリズムを広く解して「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」というふうにした。

いずれにせよ、《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して。》(ニーチェ遺稿)でありつつ、もしかりに作家たちに独自なものがありうるならばーーあるいは《「わたし」をうっとりさせる春宵の風》やら《受精の機会を求めて風に乗って飛散する花粉のような何ものか》としての独自性といってもよいーー、まずは音調やスタイル(文体)であるだろう。

――「自分の声をさがしなさい」(須賀敦子)


中井久夫ならこう言う。

「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、電車の中でも、まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(……)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて」

そしてロラン・バルトなら、ニーチェの音調を語る、文である思想、という歌唱と。

『批評的エッセー』の中によく見てとれるように、エクリチュールの主体は「進化する」のである(荷担〔アンガーシュマン〕の道徳から、記号表現の道徳性へと移行して)。彼は、みずからが対象として扱う著作者たちに応じて、順を追って進化する。けれどもそれを導くものは、私がそれについて語る著作者自身ではなく、むしろ、《その著作者によってしむけられて私がその人について語るにいたることがら》である。つまり、私は《その人の認可のもとに》私自身から影響を受ける。私が彼について語ることがらによって、私は、私自身についてその同じことを考えさせられる(あるいは、そのことを考えないようにさせられる)、と、そんなふうに言ってもいい。

だから二種類の著作者たちを区別しなければならない。第一は、人がある著作者たちについて書く、そういう対象としての著作者たちであり、彼らからの影響は、人が彼らについて語ることがらの外にはなく、そのことがらに先立つものではない。そして第二は(もっと古典的な考えかたであり)、人が読む対象としての著作者たちである。ところで、第二の著作者たちから私に及ぼされるものはいったい何だろうか。一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)(『彼自身によるロラン・バルト』)

ところで剽窃と模作の違いはなんなのだろうか。

ロラン・バルトは次のように剽窃に《賛成》し、模作に《反対》する。

彼が好んで使う語は、対立関係によってグループ分けされている場合が多い。対になっている二語のうちの、一方に対して彼は《賛成》であり、他方に対しては《反対》である。たとえば、《産出/産出物》、《構造化/構造》、《小説的〔ロマネスク〕/小説〔ロマン〕》、《体系的/体系》、《詩的/詩》、《透けて見える/空気のような》〔ajouré/aérien〕、《コピー/アナロジー》、《剽窃/模作》、《形象化/表象化》〔figuration/ représentation〕 、《所有化/所有物》、《言表行為/言表》、《ざわめき/雑音》、《模型/図面》、《覆滅/異議申し立て》、《テクスト関連/コンテクスト》、《エロス化/エロティック》、など。ときには、(ふたつの語の間の)対立関係ばかりではなく、(単一の語の)断層化が重要となる場合もある。たとえば《自動車》は、運転行為としては善であり、品物としては悪だ。《行為者》は、反“ピュシス〔自然〕”に参与するものであれば救われ、擬似“ピュシス”に属している場合は有罪だ。《人工性》は、ボードレール的(“自然”に対して端的に対立する)なら望ましいし、《擬似性》としては(その同じ“自然”を真似するつもりなら)見くだされる。このように、語と語の間に、そして語そのものの中に、「“価値”のナイフ」の刃が通っている。(『彼自身のよるロラン・バルト』)

ここではドゥルーズの翻訳者でもある宇野邦一氏、--ドゥルーズを剽窃しているのか・模作しているのかの判断はひとまずおくことにして、ーー氏は次のように書いている。

……ひとりの思想家を理解すること、ひとつの思想を理解すること、これは一体どのようなプロセスなのか。ドゥルーズ自身は、ことあるごとに、「理解すること」は重要ではなく、むしろ「使用すること」のほうが大切だと述べている。理解することは、どうしても一度考えられ、書かれたことを正確にたどり、みずからの思考の中に模写し再現することをともなうだろう。 (……)

ところが、再現することも、模写することも、あるいは正確さということさえも、重要であるどころか、むしろ避けるべきこととドゥルーズは考えている。むしろどんな断片でもいいから、それを手にとって、使ってみること、たたいたり、裏返したり、匂いを嗅いでみたりしてみて、いっしょに時間をすごし、別の脈絡に移動させ、使いみちをみつけること。そんなイメージを、ドゥルーズは思想を「理解する」のではなく、「使用する」こととして提唱しているのだ。(宇野邦一『ドゥルーズ――流動の哲学』)

この「使用すること」は、蓮實重彦の書くロラン・バルトの態度、すなわち《他人の言葉や概念をあからさまに引用することすら辞さないその身振り》やら《出典となった言説にあっては深さに保護されていた概念なり語句なりが、文脈から孤立化させられてあたりにばらまかれることで断片化の力学にさらされ、もっぱら拡散しながら浅さの衣裳をまとうことになる》などの文章と共鳴するとしてよいだろう。

こうやって、「理解すること/使用すること」と「模作/剽窃」のふたつの二項対立を並べることができる(ドゥルーズならこの「剽窃」を、つまり「使用すること」を、「自由間接話法」というのかもしれないが、ちょっといま調べてみる気はしない)。


ヴァリエーションとして、解釈学/解釈、Meaning/Senseなどがあるだろう。

《Meaning is an affair of hermeneutics(解釈学), Sense is an affair of interpretation(解釈)》(参照緒:「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン



いまどき二項対立かい? というひとがいるのは知っている。きっとことさら「聡明な頭脳」をもっているのだろう。せいぜい、それなしにやってみたまえ。

僕も、どこかで形式と内容というのは、現実としては抽象でしかないという感じがしているわけです。ただし概念操作としては、明らかに機能しているし、僕もその機能に従って批評を書いたりするわけだし、ソシュールにしたってそうなんです。たぶん形式と内容といったものは、それ自体が大きなものとして括られて、ひとつの記号になっちゃうだろうということはわかっているけど、そのことを括弧に入れて仕事をせざるをえないわけですよ。こっちは二元論の罠に好んで落ちているわけで、べつに二元論を永遠に回避しようなんて思っているわけじゃない。二元論を回避するというのは、なんかのお終いであるわけですよ。そのなんかのお終いを自ら自分で演じて見せるほど、僕は図々しくもないし、またそれほど達観してもいないつもりです。

浅田君が二元論はいけないと言っているけれどもね。概念操作としては二元論というものは絶対必要なんですよ。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

デリダ? 二項対立の脱構築? ーー「脱構築」の脱構築はどうなってるんだい? あれは、否定神学、男性の論理さ、とジジェクは言う。

In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(『LESS THAN NOTHING』)

あるいは「観念論」だとも、ユートピア的希望に支えられた、ーーオレはデリダにはほとんど無知だけどね。

Even Derrida's notion of “deconstruction as justice” seems to rely on a utopian hope which sustains the specter of “infinite justice,” forever postponed, always to come, but nonetheless here as the ultimate horizon of our activity.(同上)

…………

※追記:「自由間接話法」について、いくらかネット上から拾ってみたので、ここに附す。

著者はバディウの指摘した、ドゥルーズにおける自由間接話法の多用から話を始める。他者の発言をカッコにくくらず、「と言った」とも受けず、裸のまま地の文の中に置く手法である(この評の冒頭、3行目「特に」以下がそれにあたる。「我々の多く」がそう言うのか、書く私の発言なのか、決定不能になる)。

 すると、評する主体と評される主体は交じり合う。まるで相手の考えの奥に潜り込むようにして、ドゥルーズは対象を思考する。(ドゥルーズの哲学原理 [著]國分功一郎
ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないかと思ってはいるが、なかなか とりかかれないまま。(壁の向うのざわめき  高橋悠治
自由間接話法とは、例えば「彼女は彼のくそ顔をぶっ叩きたかった。」という文が、形式的には三人称による客観的 =中立的な記述にみえて、しかし実は「くそ顔」という語彙の選択によって「彼女」の視点 =主観に寄り添っていることが分かるというように、ある主観が直接的ではない形で示される、主観的とも客観的とも言えない状態のこと。(偽日記