きみのははしたない模作ばかりだ
優雅に剽窃をしたまえ
それを禁じるのは
たかだが狭い共同体のルールに過ぎない
慎ましい村社会の規則など吹っ飛ばせ
精神の自由はそこからはじまる
優雅に剽窃をしたまえ
それを禁じるのは
たかだが狭い共同体のルールに過ぎない
慎ましい村社会の規則など吹っ飛ばせ
精神の自由はそこからはじまる
《…それなりの原理によって安定しようとする理論的閉域に手をさしのべ、超=虚構的な言説の断言をつかみとり、文脈が崩れることをも怖れずにそれを駆りうけてくると、優雅な身振りでその出典を曖昧にしながら、自分の言説にくみいれるのだ。つまり、バルトは他者の言葉をあからさまに引用する…》
《…他人の言葉や概念をあからさまに引用することすら辞さないその身振りは、ほとんど盗みのそれに近いということもできるだろう…》
《…出典となった言説にあっては深さに保護されていた概念なり語句なりが、文脈から孤立化させられてあたりにばらまかれることで断片化の力学にさらされ、もっぱら拡散しながら浅さの衣裳をまとうことになる……バルト的な犠牲者の言説は、文脈を奪われた語句たちによる浅さの戯れを介して理論の閉域を解放する》
彼が好んで使う語は、対立関係によってグループ分けされている場合が多い。対になっている二語のうちの、一方に対して彼は《賛成》であり、他方に対しては《反対》である。たとえば、《産出/産出物》、《構造化/構造》、《小説的〔ロマネスク〕/小説〔ロマン〕》、《体系的/体系》、《詩的/詩》、《透けて見える/空気のような》〔ajouré/aérien〕、《コピー/アナロジー》、《剽窃/模作》、《形象化/表象化》〔figuration/ représentation〕 、《所有化/所有物》、《言表行為/言表》、《ざわめき/雑音》、《模型/図面》、《覆滅/異議申し立て》、《テクスト関連/コンテクスト》、《エロス化/エロティック》、など。ときには、(ふたつの語の間の)対立関係ばかりではなく、(単一の語の)断層化が重要となる場合もある。たとえば《自動車》は、運転行為としては善であり、品物としては悪だ。《行為者》は、反“ピュシス〔自然〕”に参与するものであれば救われ、擬似“ピュシス”に属している場合は有罪だ。《人工性》は、ボードレール的(“自然”に対して端的に対立する)なら望ましいし、《擬似性》としては(その同じ“自然”を真似するつもりなら)見くだされる。このように、語と語の間に、そして語そのものの中に、「“価値”のナイフ」の刃が通っている。(『彼自身のよるロラン・バルト』)
という次第で私はここに、現代のぶよぶよの大頭ども(ロートレアモンの言葉)に向けて手短な美学を、つまり剽窃のエロティシズムを素描したいと思う。というのも、私はこれまで剽窃し、また剽窃されてきたが、この〈オカマホリ〉! とか、よくも魂を奪ったな! とか、俺の実体を盗みやがって! とか、そんなくだらないことを叫んだためしはないからである。私は他人の傘下で、他人の傾きに沿って、他人の仕立てで(縫い子が言うような意味において)それぞれの本を書いてきた。しかしそこにはまた手当たり次第、気の向くままに耽った周辺的な読書の記憶が加わっている。そうした読書のなかで私は文の断片を、ときには語を掠め取ってきたが、こんどはその掠め取った文や語のほうが、知らぬがままに行きたがっている場所へと私を引っ張っていってくれた。こうして、すでに書かれた文が、私の未来のエクリチュールになっていったのである。というのも、文章はつねにそれ固有の意味以外にも無数のことを語っていて、剽窃とはアナモルフォーズ〔意図的に歪めて描いた絵画〕の技法以外のなにものでもないのだから。(ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』、尾河直哉訳)ーー文学の泥棒について
……「テクスト理論」と呼ばれるメタ言語的な言説とも深くかかわりあってはならず、あくまで浅い関係にとどまらなければならない。なぜならみずからそうした言説を担うことは、支配する「テクスト」を支配することにほかならず、とどのつまりは「テクスト」の終りの宣言にも通じてしまうからだ。誰の指摘をまつまでもなく自明のことであるはずのそうした事実を視界におさめえぬ者たちの疑いを知らぬ楽天性が、支配とは無縁の振舞いだと確信しながら「テクスト理論」の構築を目論むとき、バルトは、その超=虚構的な言説とも浅く戯れながら上質な部分を救わずにはいられない。それなりの原理によって安定しようとする理論的閉域に手をさしのべ、超=虚構的な言説の断言をつかみとり、文脈が崩れることをも怖れずにそれを駆りうけてくると、優雅な身振りでその出典を曖昧にしながら、自分の言説にくみいれるのだ。つまり、バルトは他者の言葉をあからさまに引用するのである。事実、『作品からテクスト』のバルトは、そこで「テクスト」をめぐる七つの命題を提起しているが、「隠喩の域を出ないことは承知の上のアプローチ」だとされるその命題のいくつかを読みながら、われわれがそれらが同時代の何という「作者」から来ているかをほぼ正確に言いあてることさえできるはずだ。他人の言葉や概念をあからさまに引用することすら辞さないその身振りは、ほとんど盗みのそれに近いということもできるだろう。その意味で『作品からテクストへ』にはいかなる独創的な思想も含まれていないのだが、にもかかわらず、あるいはであるが故に、重要な文章だといわねばなるまい。というのも、「テクスト理論」の領域でいくつかの概念をバルトに提供したとみられる批評家や理論家たちの多くのものが、そのかたわらにバルトの文章を見出すことで救われているからである。出典となった言説にあっては深さに保護されていた概念なり語句なりが、文脈から孤立化させられてあたりにばらまかれることで断片化の力学にさらされ、もっぱら拡散しながら浅さの衣裳をまとうことになるからである。バルト的な犠牲者の言説は、文脈を奪われた語句たちによる浅さの戯れを介して理論の閉域を解放する。(蓮實重彦『物語批判序説』)
《ぼくは、書くことはみな「なぞり書き」だと思う。あらゆる意味でなぞり書きであって、それこそド・マンが、古典主義は意識的ななぞり書きをやって、ロマン主義は無自覚ななぞり書きだという言い方をしている。要するになんにもなしに書くことなんていうことはありえないわけで、いずれもなぞり書きである。ただそれに対して自覚的な人が批評家で、無自覚な人が批評家でないというわけではない。自覚的でありながら、それを非顕在的にするのが一応近代小説だったと思う。それがなぞり書きであるということは、非顕在的で、ナラティヴには表われない。それに対して批評というのは、無自覚な人であっても、それはなぞり書きだということがわかる構造になっているのが近代までの性格だったのでしょうね。》(共同討議「批評の場所をめぐって」『批評空間』1996Ⅱ-10 福田和也発言))