昭和二十三年戊子 荷風散人年七十
一月初三。今日も晴れて暖なり。去年の暮より野菜統制のため闇値またまた暴騰し大根一本金拾円人参三、四本金弐十円となる。街頭に新衣を着たる子供多く駄菓子屋の飴売れること夥し。羽子板紙鳶もよく売れるといふ。これ市川にて見る戦後第四年新春の光景なり。三ケ日文士書估の来ることなし、正午混堂より帰り春本『濡ズロ草紙』を草す。また老後の一興なり。
…………
荷風の断腸亭日乗を一年毎にうしろから読む。逝去の歳昭和三十四年から三十三年、三十二年……という具合に。
昭和二十七年十一月に文化勲章授与、ただちに文化勲章年金証書をも与えられる。年額金五十万円。
昭和廿七年 十二月卅一日。晴。文化功労者年金五十万円下渡しはその後何らの通知もなし。如何なりしや笑ふべきなり。夜銀座マンハッタン女給三人と共に浅草観音堂に賽す。家に帰るに暁三時半。月よし。
荷風は父譲りの莫大な資産以外にも、年金五十万円以外に全集や映画化などの著作権料や著書の印税が多額に入っていたはず。反骨精神の象徴のようだった荷風の文化勲章受賞をいぶかる文学関係者も多かったそうだが(たとえば伊藤整は、勲章をぶら下げる荷風の写真をみて「哄笑」したらしい)、戦後のインフレで所有している株券も預金も紙くず同然になった上に、戦災で偏奇館を焼失して親戚や知人の家を転々としていた永井荷風にとって、年金は今後の経済生活を保障してくれるしてくれる貴重な「財源」だった、あるいはひどい吝嗇家だったとする人もいる。
いずれにせよ、最晩年、市川菅野、あるいは京成八幡に移転したあとも、荷風いわくは独り「陋屋」に住む。住み込みの家政婦は置かない(通いの家政婦はあったようだが、部屋は埃だらけだったそうだから、毎日通う者だったのかも疑わしい)。
日本にいる外国人は日本人が自分たちをあまり家に招かないとよく言う。私は幸運にも多くの作家から自宅へ招かれた。一番忘れ難いのは、永井荷風の家だ。(中央公論の)嶋中さんが荷風に会う時に私を同伴したのである。市川に向かい、狭まった道路を歩くと表札もなく目立たないお宅に着く。私たちは女中らしい人に案内されて中へ通された。日本人はよく「家は汚いですが」と謙遜しても実は大変清潔であるが、荷風の部屋は腰を下ろすと埃が舞い立った。荷風は間もなく現れたが、前歯は抜け、ズボンのボタンも外れたままの薄汚い老人そのものだった。ところが話し出した日本語の美しさは驚嘆するほどで、感激の余り家の汚さなど忘れてしまった。こんな綺麗な日本語を話せたらどれほど仕合わせだろうと思った。(ドナルド・キーン「私の大事な場所」を読む楽しみ)
最期は吐血して、翌日通いの家政婦に発見される。(参照:断腸亭日乗 昭和三十四年)
<ひとり暮らしの荷風は外食することが多かったが、際立った特徴があった。荷風に限らず老人特有の「無精」だったのかもしれないが、いつでも同じものを注文するのである。
もっとも有名な例は、最晩年、市川の自宅に近い食堂「大黒家」でのカツ井と日本酒だ。毎日毎日そればっかり。最晩年のことで、食事は一日一回だったというから、その徹底ぶりは鬼気迫るものがあった。最後の日も清酒一本にカツ井を食べ、深夜、胃潰瘍の吐血でその米粒を吐き出した姿で死んでいたくらいだ>
食事を済ませ、帰宅した荷風は、メモ帳を取り出して、それを見ながら日記を書いた。特別あつらえの上質の紙を綴じて和本仕立てにして、これに極細の毛筆で書いて行くのである。こうした日記を死の前日まで42年間、一日も欠かさず書き続けたというから、ただごとではない。彼の後半生は、まるで日記を書くためにあるかのようだった。(永井荷風の生活)
以下、永井荷風『断腸亭日乗』を中心に備忘もう少々。
上掲と同じく、元文献を読む機会もなく殆どウェブ上から拾ったものであり、なんらの感想を呟くつもりもなし。ひたすら資料を並べるのみ。
◆『永井荷風ひとり暮らしの贅沢』(永井永光・水野恵美子・坂本真典、新潮社とんぼの本)より
永井永光は、荷風の従兄弟大島一雄(芸名杵屋五叟)の次男。1944年荷風の養子になり、いまも荷風の八幡の家と遺品を守りつづけているとのこと。(……)
●他人から見た荷風
本書によって『摘録 断腸亭日乗』だけでは分からない荷風のひととなりがいくつか分かった。
その1――再婚相手の芸妓八重次は1年も経たぬうちに家を出たのだが、そのときこんな置き手紙をしていった。《あなた様にはまるで私を二束三文にふみくだしどこのかぼちや娘か大根女郎でもひろつて来たやうに御飯さえ食べさせておけばよい……〈中略〉女房は下女と同じでよい「どれい」である〈中略〉つまりきらはれたがうんのつき見下されて長居は却而御邪魔》ちょっと八重次もひがみがきついんじゃないのとは思うが、しかしこんなおもしろいネタを『日乗』に書きのこさないのはおかしい。おもいあたるふしがあったのだろう。
その2――戦後、五叟の一家とともに市川の家でくらすのだが、一家の側から見るとずいぶんわがままなやりかたをしている。疥癬治療のため一番風呂にくさい薬をドボドボ入れてはいったり、畳の部屋に下駄や靴で上がり、七輪をおいて煮炊きをする。その様子を撮した写真が1枚掲載されている。七輪のまわりには調味料を入れているとおぼしきビン缶のたぐいが並んでいる。横文字のラベルが付いているところが荷風らしい。荷風にしてみれば五叟のうちはラジオがうるさくてかなわんから、自分を敬愛するフランス文学者小西茂也のうちに移るのだが、小西も傍若無人にあきれはて立ち退きを申し出ている。
◆「半藤一利と新藤兼人、そして松本哉の語る永井荷風 」より
終戦となって、荷風は大島五叟一家が疎開していた熱海へ身を寄せます。そこも仮りの宿で、千葉の市川へ大島一家と共に引越して行きます。独り暮らしで気儘に生きてきた荷風は他人との同居生活にしばしばトラブルを起こします。
そこで、近くの小西茂也(フランス文学の翻訳家)の一室を借りますが、ここでも荷風は奇行ががすぎて同居できません。
新藤は「奇行がすぎて同居でき」ないと書いているが具体的なことは何も書かれない。何があったかは半藤一利が教えてくれる。
「復讐がこはいから僕は何も云ひません。その代り荷風が死ねば洗ひざらひぶちまけますよ」と言っていたのに、小西氏は荷風よりも早く逝ってしまった。ゆえに小西氏に代わってと、佐藤春夫氏がバラしている巷説--それもありそうでなさそうな噂話であるが、フム、フム、なるほど、と納得させられるところもある。
「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」
《昭和20年、空襲で偏奇館焼失。兵庫県明石から岡山へと逃げ、ここで疎開中の谷崎潤一郎に会った直後に終戦。熱海にしばらくいて、昭和21年、66歳で千葉県市川市に移転。
市川では四度居を変えている。はじめは市内菅野の借家、次いで菅野の知人宅(京成電鉄京成八幡駅近く。フランス文学者小西茂也宅)に約2年、次いで菅野の一戸建て、昭和23年、69歳の時に市内八幡に新居を建てた。昭和34年に亡くなくなるまでこの家だった。で、小西氏宅に居た時は氏から立ち退きを申し立てられている。その理由は八畳間に古新聞を敷き古七輪を据えた危険で乱雑な生活だった。小西著「同居人荷風」から興味深い以下を紹介。
…冬は部屋のなかで火を熾すので火事の心配を常にせねばならぬのが玉に疵なりと。
…若い連中は“のぞき”や女道楽に金を使わぬから秀れた情痴小説が書けぬ。自分は待合を歌女に出させた折り、隣室からのぞき見せり。
…部屋があまりに乱雑なるゆえお部屋を掃除す。洗顔中なりし先生、慌てて部屋に戻り金を蔵いありし所へ行きて、掃除中の女房の前にて金勘定を始めたりと。
…僕は風呂屋へ行くと必ず女湯の方をのぞいてくる。老人だから怪しまれぬ。これも年寄りの一徳、近頃の女の風呂場での大胆なポーズには驚くと申されたり。/…先生の話はすべて金と女に落つ。
さらに「鴎外荷風万太郎」という本に収録の小島政二郎「永井荷風」一文には、不眠症の荷風が自分より30歳も若い小西夫妻の夜の楽しみを覗き見した…いや、覗き見することをやめなかったからだ、を紹介し、この二年前に発表されている荷風氏の小説「問わずがたり」の第六節を見よ、とある。(同棲していた辰子の娘・雪江20歳と女中・松子の同性愛を障子に穴を開けてのぞき見する場面のことだろう)》(大田蜀山人・永井荷風・谷崎潤一郎 “遊学”)
昭和八年歳次葵酉 荷風年五十又五
十一月十一日 反故紙
書架を掃除するに鉛筆にてかき散らせし草稿を見出したり。拙劣にして今更添削するにも足らぬものなり。唯その日の紀念にと写し置くこと左の如し。
友達の家庭に何かおもしろからぬ事が起ったり、あるいは子供や娘の事から親達の困っている事などが言伝えられると、その度ごとに君は仕合せだよと、いつもわたくしは友達から羨まれるのである。わたくしは四十前後から定まった妻を持たず、また一度も子を持ったことがない。女房持や子持の人から見ると、わたくしの身の上は大層気楽に思われるらしい。
(……)わたくしは始から独身で一生を送ろうときめたわけではない。六十になっても七十になっても好色の慾は失せないものだと聞いているから、わたくしは今が今でも縁があれば妻を持ってもよいと思っている。(……)一夜の妻が二夜となり、三夜となり、それからずるずる縁がつながって行ったら、大いに賀すべき事だと思って、そういう場合には万事成行きにまかせて置いた事も度々であった。つまりわたくしの方から積極的に事をまとめようとはしない。一夜の妻が変じて一生涯の伴侶になろうという場合には、相方ともにそれ相応の覚悟がなくてはならない。一夜妻は譬えて見れば船か汽車の中で知合になったその場かぎりの話相手であるが、正妻になると少しく事が面倒になる。良人には良人たるべき覚悟、妻には妻となるべき決心がなくてはならない。そこでわたくしは諄々として女に向って講義を始める。この講義をきくとまず大抵の女はびっくりして逃げてしまう。別にむずかしい事をいいうのではないが、わたくしの説く所は現代の教育を受けた女には、甚しく奇矯に聞こえるらしい。わたくしの説は一家の主婦になるものは下女より毎朝半時間早く起き、寝る時には下女より半時間おそく寝る事。毎日金銭の出入はその日の中に洩れなく帳面に記入する事。来客へ出すべき茶は必ず下女の手を待たず自分で入れる事。自分の部屋は自分にて掃除する事。家内の事は大小となく一応良人に相談した上でなければ親戚友人には語らぬ事。まずこの位の事であるが、正面から規則を見せつけられると、大層窮屈に思われると見え、御免を蒙る方が多い。わたくしは何事に限らず人に物事を強いるのを好まないので、わたくしの言う事をきかないからとて決してその人を憎みはしない。縁談がまとまらなくてもその後長く交際のつづいていたような例もある。……
◆「濡ズロ草紙」の全文公開を(『永井荷風ひとり暮らしの贅沢』(永井永光・水野恵美子・坂本真典、新潮社とんぼの本))より
巻末に永井永光が、「ぬれずろ草紙」を抜粋している。昭和23年(70歳)1月、《春本『濡ズロ草紙』を草す。また老後の一興なり。》と記したエロ小説だ。そこに目をとめた新潮社のT氏が永光に見せろと迫った。おそらく新潮社としては「濡ズロ草紙」を世に出したかったのだろうが永光がウンと言わず、しょうがない、荷風ゆかりの写真を集めて「とんぼの本」シリーズに加え、そのなかに抜粋を掲載するという条件で折り合った……本書上梓のいきさつはおそらくそんなところだ。さまざまな花柳界を描いた荷風が最後に挑んだパンパン小説だ。400字詰め換算で70枚ほどの中編であるという。『日乗』の昭和27年から30年にかけてしきりに有楽町のフジアイスに出かけたことがしるされているが、そこは「洋パン」のたむろする店だったという。取材をかさねていたわけだ。
戦争未亡人の「わたし」が桜田門のあたりでアメリカ兵に声をかけられ、《見附の中へ入り松の木の立つてゐる土手に登り草の上に腰をおろしわたしが蹲踞(シャガ)むのを遅しとスカートの下からヅロースの間へ指先を入れました。わたしは何しろ二年ぶり男にさはられるのは其日が初てでしたから触られただけでもたまらない気がして男の胸の上に顔を押付け息をはづませ奥の方へ指が入るやうにぐつと両方の足をひろげる始末です。》読んでいて、ええぞええぞそれからどしたと興がのってくると永光の解説文に切り替わってしまう。はなはだ興ざめ。
永光は文の最後を《この公開には私なりの考えがあっての一回切りの体験だった。これよりのちは一切これを公けにするつもりはない。》としめくくっているが、そんな偉そうなことを言う資格があるのか。芸術作品は人類の共有財産ではないか。パンパンの生態がよくわかり、半壊した新橋演舞場の楽屋が米兵たちが女を引きずり込む場所になっていたなどという興味深い事実も描かれ、戦後裏面史になっているというのに。そしてなにより荷風自身が河盛好蔵にむかって「あらゆる種類の娼婦を書いてきましたがねえ、残すところはパンパンだけなんです」と語っているように最後のエネルギーをふりしぼって書いたものだというのに。「四畳半襖の下張り」ほど完成度が高くないというだけで(それとても永光の感想にすぎない)死蔵していいものだろうか。元妻八重次が永光にもらしたこんな言葉「性的には、女性が満足できる男じゃないですよ」まで公開しておいてだ。父親(養父)の性行為をヘタクソだったとバラしておきながらその作品を隠すとは。バランスを欠いているのではないか。
◆『濡ズロ草紙』より
「残った一人はわたしの腰をかかえて見付の中へ入り松の立っている土手に登り草の上に腰をおろしわたしがしゃがむのをおそしとスカートの下からズロースの間へ指先を入れました」
「夕月が出て涼しそうなその辺の木かげや芝草の上にはあっちにもこっちにも米兵と日本の女とが抱合ったり寝転んだりしています。拭いた紙だの使った後のサックが歩く道の上に掃くほど捨ててあります」
◆無常と俳詣-永井荷風の諸作を巡って- 加田 謙一郎
松本哉は、荷風の女性関係を詳細に調べて、『女たちの荷風』 を書き残した。その巻尾に挙げられたエピソードは、歴史小説家永井路子の母、アルト歌手であった永井智子による、次のような荷風追悼文の一節であった 。
稽古が遅くなって、朝の七時頃劇作家などとうらさびた朝の浅草の裏通りを歩いている時、遊郭の女郎衆が着ぶくれた身なりで、夜の疲れをそのままに、朝参りをするのを見て、劇作家が、「ああ、きたないなあ、あれだけはいやだな。きたないもんだ」と言うのに「いやあ、あれが美しく見えなくちやあ、小説は書けませんぜえ。あれが美しく見えなくちやあ」 と白い息といっしょに呟かれる先生、そんな先生に、私は慈父のような温かみを覚えるのでした。(永井智子「『葛飾情話』 のヒロインとして」、「婦人公論」昭和三十四年七月号)
◆永井荷風と作曲家・菅原明朗(あるいは永井智子)
「生活を共にしたとはいえ、四月二十六日から五月二十五日までは居室だけは別にしていたが、それ以後は居室までも共にせざるを得なくなり、四六時中を文字通りの共同の暮らしをしたので、荷風の日記がどのようにして書きつけられて行くかを眼のあたり見ることが出来た」(菅原明朗「罹災日乗考」(『現代文学大系月報』1965)
爆弾はわたくしの家と蔵書とを焼いた。わたくしの家には父母のみならず祖父の手にした書巻と、わたくしが西洋から携帰つたものがあった。わたくしは今辞書の一冊だも持たない身となつた。今よりして後、死の来るまで-それはさほど遠いことではなからうが-それまでの間継続されさうな文筆生活の前途を望見する時頗途方に暮れながら、わたくしは西行と芭蕉の事を思ひ浮かべる。
歌人とならうが為めでもなければ、又俳詣師にならうがためでもない。わたくしは唯この二人の詩人がいづれも家を捨て、放浪の生涯に身を終わつたことに心づいたからである。家がなければ平生詩作の参考に供すべき書巻を持ってゐやう筈がない。さびしき二人の作品は座右の書物から興会を得たものではなく、直接道途の観察と霹旅の哀愁から得たものである。(永井荷風「冬日の窓」)
…………
以下、作家たちによる荷風の毀誉褒貶のいくつか。
私は永井氏を現代随一の文章家と思っているが、最近の文章では、「葛飾土産」 の中にある、真間川の流れを辿って歩く文章が実にいいと思った。ああいう文は誰にも書けぬ。あの文でもよく分かる様に、永井氏の文章は、観察という筋金が通っている処が、非常な魅力である様に思われる。「ひかげの花」 にしても、そうである。あれは、執拗に見る人の作であり、分析家や心理家の作ではない。それから、この作のもう一つの特色は、作者の人生観がよく現れているところにあると思う。それはひかげの花の様に暮らしている人々に対する作者の強い共感である。真間川という世人から忘れられた凡庸な川の流れを辿って孤独な散歩をする様に、作者は、こういう人生のひかげの花を摘むのである。華々しい教養や文化は、寧ろ真の人間性を覆いかくして了うものだ、そういう作者の確信は恐らく大変強いものだろう。世人は永井氏を変人だと言っている様だが、世人には変人と思わせて置く、こんな好都合な事はない、と永井氏は考えておられるのではないかと思う。(小林秀雄、「ひかげの花」、『荷風全集』月報、一九五一年)
ここで、ちょつと戦後の荷風について考えてみれば、戦後の荷風は文学活動を放棄した、と考えるのが妥当なようだ。私の友人のある大学の先生が、こんなことを言った。「荷風が戦後、いくつかの尻切れトンボのごく短い文章を発表し、それについて批評家がいろいろあげつらつているが、自分の推理によると、もしかすると、こういう事実が考えられる。
彼は、戦後はほとんど猥文しか書かなかったのではないか。そして、導入部だけを活字にして発表し、それから後につづく部分、丹念に毛筆で書きつづられた部分は、筐底深く蔵いこまれてあるのではないか。」その推測を聞いたとき、私はコロンブスの卵を思い出した。如何にも荷風ごのみのことである。(吉行淳之介、「抒情詩人の拒殺」「中央公論」昭和三十四年七月号)
一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。しかし、これがただの乞食坊主ではなくて、かくれもない詩文の家として、名あり財あり、はなはだ芸術的らしい錯覚の雲につつまれて来たところの、明治このかたの荷風散人の最期とすれば、その文学上の意味はどういうことになるか。
おもえば、葛飾土産までの荷風散人だった。戦後はただこの一篇、さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし。しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない。荷風の生活の実情については、わたしはうわさばなしのほかはなにも知らないが、その書くものはときに目にふれる。いや、そのまれに書くところの文章はわたしの目をそむけさせた。小説と称する愚劣な断片、座談速記なんぞにあらわれる無意味な饒舌、すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。書くものがダメ。文章の家にとって、うごきのとれぬキメ手である。どうしてこうなのか。荷風さんほどのひとが、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手のとどかぬうちに、どうすればこうまで力おとろえたのか。わたしは年少のむかし好んで荷風文学を読んだおぼえがあるので、その晩年の衰退をののしるにしのびない。すくなくとも、詩人の死の直後にそのキズをとがめることはわたしの趣味ではない。それにも係らず、わたしの口ぶりはおのずから苛烈のほうにかたむく。というのは、晩年の荷風に於て、わたしの目を打つものは、肉体の衰弱ではなく、精神の脱落だからである。老荷風は曠野の哲人のように脈絡の無いことばを発したのではなかった。言行に脈絡があることはある。ただ、そのことがじつに小市民の痴愚であった。
(中略)
むかし、荷風散人が妾宅に配置した孤独はまさにそこから運動をおこすべき性質のものであった。これを芸術家の孤独という。はるかに年をへて、とうに運動がおわったあとに、市川の僑居にのこった老人のひとりぐらしには、芸術的な意味はなにも無い。したがって、その最期にはなにも悲劇的な事件は無い。今日なおわたしの目中にあるのは、かつての妾宅、日和下駄、下谷叢話、葛飾土産なんぞに於ける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い。(石川淳「敗荷落日」)
《鴎外を先賢師父と仰いだ荷風には史伝体の小説なり随筆を書く資性器量、天性の文辞、絶倫の筆力がありあまるほどあった。さらに言えば生え抜きの自然主義作家正宗白鳥なぞには真似しようのない戯作者気質が生まれながらに備わってあった。(……)
稀代の名文家荷風による香以伝を待ち望んでいた読者は歿後五十年経たいまにすくなからずある。吉原にとどまらず岡場所、茶屋教坊ほかの歌吹海に身銭を切って足を運んだことのない鴎外が破滅型の大通世界を描くなど土台無理の話、香以の取巻き馬十連の阿弥号を誤り写したりするのは当然の結果であろう。鴎外が頼みの材料とした「歌舞伎新報」に出る魯文の『再来紀文廓花街』を駆使しながら、荷風であったらそれまでのお座なりの香以伝とは似て非なる下世話に通じた風流考証を手堅く仕上げたものに相違ない。》(加藤郁乎「かたいもの」)
元々荷風といふ人は、凡そ文学者たるの内省をもたぬ人で、江戸前のたゞのいなせな老爺と同じく極めて幼稚に我のみ高しと信じわが趣味に非ざるものを低しと見る甚だ厭味な通人だ。(……)
荷風は生れながらにして生家の多少の名誉と小金を持つてゐた人であつた。そしてその彼の境遇が他によつて脅かされることを憎む心情が彼のモラルの最後のものを決定してをり、人間とは如何なるものか、人間は何を求め何を愛すか、さういふ誠実な思考に身をさゝげたことはない。それどころか、自分の境遇の外にも色々の境遇がありその境遇からの思考があつてそれが彼自らの境遇とその思考に対立してゐるといふ単純な事実に就てすらも考へてゐないのだ。(坂口安吾「通俗作家 荷風」)