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2013年10月29日火曜日

「牧畜民族は農耕民族と違うというホラ話」、あるいは蓮實重彦と中井久夫

やれ、日本の猿は西洋の猿とは違う、やれ日本人の脳は西欧人とは違う、やれ牧畜民族は農耕民族と違うというホラ話も、結局は、見えないはずの差異をイメージとして抽象的に可視化して、虚構としての内部と外部を捏造してそれに安住するという話でしょう。(蓮實重彦『闘争のエチカ』1988)

それぞれの「ホラ話」は、河合雅雄の猿学、角田忠信の左脳と右脳、そして牧畜民/農耕民は、中井久夫の「分裂病と人類」ということになるのだろう。

狩猟採集民の時間が強烈に現在中心的・カイロス的(人間的)であるとすれば、農耕民とともに過去から未来へと時間は流れはじめ、クロノス的(物理的)時間が成立した。農耕社会は計量し測定し配分し貯蔵する。ときに貯蔵、このフロイト流にいえば「肛門的」な行為が農耕社会の成立に不可欠なことはいうまでもないが、貯蔵品は過去から未来へと流れるタイプの時間の具体化物である。その維持をはじめ、農耕の諸局面は恒久的な権力装置を前提とする。おそらく神をも必要とするだろう。(中井久夫『分裂と人類』)

同世代人の中井久夫(1934生れ)と蓮實重彦(1936生れ)が、お互いにその名を出すのを寡聞にして見たことがないのは、このあたりに由来するのかもしれない。

中井久夫は自ら《私の分裂病論の核心の一つは一見奇矯なこの論文にある。他の仕事は、この短い一文の膨大な注釈にすぎないという言い方さえできるとひそかに思う》としているわけで、それをあっさり「ホラ話」とされては、怒髪天を衝くという具合になることは充分予想される。


一言にしていえば、S親和者の優位性は「徴候を読む能力」にある。少くとも狩猟採集民族には欠かせない能力である。イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグが全く別の接近路から「徴候知」を抽出していたのとほぼ同時に独立して私も徴候知に市民権を与えたわけだ。この能力は、農耕社会の到来とともに重要性が減り、その結果、失調をおこしやすくなるかもしれないが、リーダーや気候や天災の予測に必要な能力である。雨司、呪術師はしばしば王を兼ねていたという。医師にも当然なくてはならない能力である。

しかし、職業生活だけがすべてではない。鬱病の場合と違う。徴候知は万人に必要であり、赤ん坊が母親の表情を読むことがすでにそうではないか。そして徴候的認知はとくに配偶者選択に有利である。相手が世俗的なことを考えているときに求愛しても成功はおぼつかない。状況や相手の表情や何やかやから「今だ」というタイミングを読む力は徴候知に属し、徴候知は「接合率」を高める重要因子である。だから、S親和者はなくならないーー。これはハックスリのよりもナイスな答えではないかと私は思った。

私の分裂病論の核心の一つは一見奇矯なこの論文にある。他の仕事は、この短い一文の膨大な注釈にすぎないという言い方さえできるとひそかに思う。S親和的な人、あるいは統合失調症患者の士気向上に多少程度は役ったかもしれない。家庭医学事典などは破滅的なことが書いてあるからである。(「『分裂病と人類』について」2000年初出『時のしずく』所収)

もうひとつの主著『徴候・記憶・外傷』にもこうある。

不安なしに対象世界が徴候化することはある。それは、狩人の場合であって、カルロ・ギンズブルグは、些細な足音や草の倒れた形から獣が通った跡を推理する狩人の「徴候的知」を、歴史家、医師、推理作家などの方法の先駆として、この「知」による科学に「演繹」や「帰納」による科学と同等の「知」としての位置を与えることを主張している。(……)この「知」は、意識的な「方法論」methodologyではなく、十八世紀の古くからいわれながらあまり取り上げられていない「セレンディピティ」による知であると私は思う。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」p27)


わたくしは、中井久夫、蓮實重彦とともにその著書を愛する人間なので、ここではなんやかやと言いたくないが、蓮實重彦発言の起源は、つぎのレヴィ=ストロースの『野性の思考』の叙述に負うところがあるのではないか、とふと思う。


未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きをもち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読みとるアメリカインディアンや、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく誰のものかを言いあてるオーストラリア現住民( Meggitt )のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらには目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、いま相手の車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なるところはない。この比較はまったく突飛に見えるけれども、多くのことをわれわれに教えてくれる。われわれの能力がとぎすまされ、知覚が鋭敏になり、判断が確実性をますのは、一つには、われわれのもつ手段とわれわれの冒す危険とがエンジンの機械力によって比較にならぬほど増大したためであり、もう一つには、この力を自分のものとしたという感情からくる緊張が他の運転者との一連の対話の中で働いて、自分の気持に似た相手の気持が記号の形で表わされることになり、まさにそれが記号であるがゆえに理解を要求するため、われわれが懸命に解読しようとするからである。

このようにわれわれは、人間と世界が互いに他方の鏡になるという、展望の相互性が機械文明の面に移されているのを再び見出すのである。そしてこの相互展望は、それだけで、野生の思考の属性と能力を教えてくれることができるように思われる。異文化社会に属する観察者から見れば、おそらく、大都会の中心部や高速道路の自動車交通は人間の能力を越えるものと判断されるであろう。たしかにそれは人間の能力を越えているのである。そこでは人間どうし、自然法則どうしがそのまま向き合うことがなく、運転者の意図によって人間化された自然力の体系どうし、人間が媒介する物理的エネルギーによって自然力に変換された人間どうしが向かい合うのだから。もはやそれは動かぬ物体に対する行為主体の操作でもなければ、行為者の地位にまでもち上げられた物体が、代償をもとめることなく自分の地位を物体に譲った主体におよぼす逆作用でもない。すなわち、どちらから見ても、一定量の受動性を含むような状況ではないのである。登場する存在は、同時に主体として、また客体として、ぶつかり合う。そこで使われるコードでは、両者をへだてる距離の単なる変動が、声なき呪文の力をもつのである。(「再び見出された時」『野生の思考』クロード・レヴィ・ストロース著 大橋保夫訳)