さて、もういくらか四つのディスクールのメモ。
まず再度、形式的構造の図
Agent は動因、other(他者)はobject(対象=目的)ともされる
三番目にPruduct生産物と、四番目にtruth真理がある
じつは一番目の動因の真の出発点であり、抑圧されたもの
これら四つ(動因、他者、生産物、真理)は空の箱であり、ここにそれぞれの要素が入る($ ,S1 , S2 ,a)。
主人S1、大学人S2、分析家a、斜線を引かれた主体$のディスクールがありそれは次の通り。
ここでは、抑圧されたものだけをみる(左下隅)
・主人の言説では、斜線を引かれた主体$が抑圧されている
つまり、斜線を引かれていない主体として語る
・大学人の言説では、主人S1が抑圧されている
この言説の抑圧された真実は、中立的な「知」という見かけの背後に、主人の身振りがあること
・分析家の言説では、S2が抑圧されている
無-意味をなす沈黙とスカンシオンという技法の背後には、「知」が抑圧されている
・ヒステリーの言説では、対象a(ここでは愛、あるいは愛憎とだけしておく)が抑圧されている
ややくわしくは、ヒステリーのディスクールと「人間関係」を参照。
たとえば、大学人のディスクールは、だれだれ曰く、という形式などにより、主人S1が抑圧されていることになる。デカルトさえもディスクールを成り立たせるために、「神」が必要だったのは周知の通り。
私は、私が疑っているということ、したがって私の存在はあらゆる点で完全なのではないということ(というのは、疑うよりも認識することの方が、より大いなる完全性で在ることを、私は明晰に見るから)を反省し、私は私自身より完全な何ものかを考えることをいったいどこから学んだのであるか、を探求することに向った。そして、私は、それが、現実に私より完全であるところのなんらかの存在者からでなければならぬということを明証的に知った。(デカルト『方法序説』)
…………
◆Paul Verhaeghe FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN’S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES より
Every field of knowledge functions by the grace of such a guarantee: for example, in our field: “Lacan has said that…”, “Freud has said that…”. The primary example of this relationship between knowledge and mastersignifier is of course Descartes, who needed God to guarantee the correctness of his science.
「医者のディスクール」は、大学人(知)の言説ではなく、主人の言説であるという指摘がある。
A classic example, since the study by Jean Clavreul concerns the medical discourse. A medical doctor functions as a master signifier, without any respect for his being divided as a subject; his dividedness is situated underneath, as part of a hidden truth. In functioning as master-signifier, he will reduce the patient to an object of his knowledge, and this shows in the terminology used, e.g. when referring to a patient as the “cardiac failure of room ”. The net result of the discourse is the lost object, which means that the master will never be able to assume the cause of his desire, as long as he stays in this discourse.
そして医者がつねに主人の言説を語るわけではないことに注意。大学人がつねに大学人の言説で語るわけではない、あるいは、ヒステリー症者がつねにヒステリーのディスクールを語るわけではないのと同様。分析家が分析家のディスクールであるのは、ほとんど治療室のみの稀な機会だろう。
ところで、ロラン・バルトは学者のパロールと作家のエクリチュールを区分けするとき、エクリチュールとは分析家のディスクールに近似する、としたくなる誘惑に駆られる。
パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)
知識人の文章には転移は起こりづらいが、作家の文章には転移を促すものがある。それは分析家が「知を想定された主体」(対象a)として転移を惹き起こすのと似る。
分析家の、無-意味をなす沈黙とスカンシオンという技法はエクリチュールに通じる(抑圧された「知」の姿態)。
《詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である》(中井久夫)とされるとき、詩はもちろん対象a(アウラ)として機能し、分析家の言説に近い。
※ドゥルーズ研究者の重要な著作が今年は何冊か出版されているが(垣間見るにほとんど「学者」、あるいはパロールの文体)、この10月に出版される書き手の文体は(他の短いエッセイから推測されるかぎりで)、分析家=エクリチュールの技法で書かれている箇所が、ひとを魅惑するだろう。その文体は、ドゥルーズを解釈するのではなく、ドゥルーズを生きるだろう。
書くことは〔エクリチュール〕とは意味することとは縁もゆかりもなく、測量すること、地図化すること、来るべき地方さえも測量し、地図化することにかかわるのだ。(『千のプラトー』)
以下、藤田博史氏セミネール断章 2012 年 11 月10 日講義より(上の図も併せて)。
ここで資本家のディスクールについて考えてみます。資本家が目指すものは利益を生み出してくれる過剰な価値の創造です。つまり、資本家のディスクールによって生産されるものは剰余価値です。そしてその剰余価値を生み出すものは、プラスアルファの価値が付与された魅力的な製品群です。たとえば、アップルコンピュータは Retina ディスプレイを搭載した13 インチのMacBookPro を市場に送り出しました、製品というのはいい換えれば知の結晶です。ですから、生み出すのは製品(S2) つまり知です。このように商品を産み出してそこに剰余価値を発生させる。これが資本家のディスクールの根本構造になります(図4)。
ところで、このディスクールは既存の四つのディスクールのどれかに似ていませんか。そう、右半分が主人のディスクールになっているのです。主人のディスクール(図3)。これはいってみれば真理から知に向かって突き進んでゆく命令話法です。これに対し、資本家にとっての真理性は絶対的な条件ではありません。極端なことをいえば、資本家の目的は事業によって出来る限り利益を生み出すことです。端的にいえば、出来るだけお金を儲けることです。良い悪いは別にして、基本的にはそういうことになります。そして、資本家は、必ずしも自らを突き動かしている動機について意識的であるとは限りません。ソフトバンクの孫さんやユニクロの柳内さんですら、もしかしたら、自らの欲望については無知のままでいるかもしれない。先日ニュース番組を見て興味深いと思ったのは、この二人は同じことをいっているのです。すなわち「ナンバーワンでないと意味がない」と。これはどういうことかというと、自分の足下がナンバーワンになること、つまり自分の真理の場所にナンバーワンが来ないといけない、ということなのです。つまり真理は自分の足下になければならない。しかしながら、その一方で、自分自身の欲望については無知であり続ける。ですから資本家のディスクールはこのような構造をなしている。結果的には、主人のディスクールの動因 agent と真理 vérité を上下にひっくり返した形になっています。結果としてはそうなります。しかしながら皆さんは資本家のディスクールが成立している意味を知っていなければなりません。
この論文は、ラカンの四つのディスクールと資本主義のディスクールを理解するのに、あまりにも多くの新しい指摘がある(Levi R. Bryantは、ラカンをめぐって英文献を検索すればかならず当るブログ『Larval Subjects』の執筆者)。彼によれば、ラカンの古典的な四つのディスクールとまったく異なった地平に、資本主義のディスクールがあるのであって、資本家のディスクールはそのなかにひとつに過ぎない。
Throughout this paper I distinguish between discourses and universes of discourse. A discourse is an individual structure such as the discourse of the master, the analyst, the hysteric, or the university. As Lacan attempts to demonstrate, the discourse of the hysteric, analyst, and university are permutations of the discourse master found by rotating the terms of this discourse clockwise one position forward. A universe of discourse, by contrast, is a set of structural permutations composed of four discourses taken together. Based on the four terms Lacan uses to represent the variables of any discourse, there are 24 possible discourses. However, these discourses form sets of permutations, such that there are only six possible universes of discourse. For a brief account of Lacan's discourse theory and the six universes of discourses consult the appendix to this paper on page 53.
ここにある六つのuniverses of discourseのひとつが、資本主義のディスクールということになる。