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2013年10月24日木曜日

母親拘束から抜け出ていない模範生

十六歳の生徒が、突然学校の成績を激しく落とした。教育心理学者のところにいって相談してきなさい、と言われて、少年はすべては両親の不快な離婚訴訟に関係して耐えられないからと白状した。「善意の」心理学者は少年を説得する、きみは両親のために勉強しているんじゃなく、自分自身のためにだよ、と。次の日から少年は全く勉強しなくなった。結局、彼は自分自身のために勉強していたわけでは全くないのだから。

自分自身のため、自分自身の「欲望」などというのは全く馬鹿げている。だがいまでも善意の心理学者たちはこういったことを言い兼ねない。


――というのは次の文の意訳だ。

The idea, sometimes promoted in slogans, of one's own desire, quite separate from another person is an absurdity. A sixteen-year-old pupil, whose marks at school suddenly plummeted, was asked to go and talk to the educational psychologist. The boy said that it was all related to his parents' painful divorce proceedings, which pulled him in often conflicting directions, and he could not cope anymore. The well-meaning psychologist tried to convince him that he was studying not for his parents, but for himself. The next day the boy decided to stop working altogether. After all, he was not doing all this studying just for himself.( 『Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 』Paul Verhaeghe)

もちろんラカン派のPaul Verhaegheであり、次のラカンの言葉がベースになっている。

人間の欲望は<他者>の欲望である。そこではde(英of)が、文法学者が「主観的決定」と呼ぶものを提供している。すなわり人間は<他者>として(qua 英as)欲望する。それゆえに<他者>の質問―――それは主体が託宣を期待する場所から主体へと戻ってくるのだが―――は、「汝何を欲するか?」というような形をとる。「汝何を欲するか?」は、主体を自分自身の欲望に導く最良の道なのである。(ラカン『エクリⅢ』)

すでにあまりにも多く語られたきたラカンの<他者>の欲望だが、ジジェクの巧みな説明を付け加えておこう。

・「人間は<他者>として欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範に背くものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。

・主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉える限りにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように、他者は謎にみちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているのかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p78~)

もっともラカンにも「自分の欲望を諦めてはいけない」という公式がある。だがそれは次のように解釈すべきだろう。

欲動と欲望の関係について、われわれは精神分析の倫理に関するラカンの有名な格言ーーー「自分の欲望を諦めてはいけない」---を少々修正してもよいだろう。欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。「欲望する」ということは、欲動に道を譲ることを意味する。アンティゴネーに従い、「自分の欲望を諦めない」かぎり、われわれは欲望の領域から外へと足を踏み出し、欲望の様相から欲動の様相へと移行するのではないか。(ジジェク『斜めから見る』)


さて冒頭の善意の「心理学者」は、そこらじゅうにいる。藤田博史氏がそのセミネールで見事に語っている箇所を抜き出そう(セミネール断章 2012 84日講義より)。

……apprivoiser には、目に見えない力で心的に飼い主に従属させられた、といったニュアンスがあります。メンタルに飼い馴らす、手なづける、という意味です。重要なのは「飼い馴らす」ということと治療とを混同してはならないということです。『星の王子さま』という物語の凄いところは、この飼い慣らすという表現が狐の口を借りて出てくるところにあります。狐は「僕は飼い馴らされてなんかいない」といいます。人間に飼い馴らされるとろくなことがないわけです。ですから「飼い馴らされないこと」というのが、実は治療する側にも治療される側にも、心得ておかなければならない重要なことになります。

にもかかわらず、現実には、飼い馴らすことイコール治療だと思っている人が少なくありません。政治家もそうです。狡猾な政治家であればあるほど国民を飼い馴らそうとしているようなところがあります。われわれは飼い馴らされないように絶えず注意を払っていなければなりません。助成金などという飴を差し出して、原発を抱える自治体の人たちや、沖縄の人たちを、うまく手なづけて飼い馴らそうとしています。あたかも子どもを手なづけて支配下に置く母親のように、ご褒美を与えて国民を飼い馴らそうとしているのが日本の官僚だと思ってよいでしょう。官僚というエリートの集団の発想は、まさにそれが母の欲望にちゃんと答えてきた模範生としてのエリートであるゆえに、母親拘束から抜け出ていない人の集団だという風に考えるべきでしょう。母親拘束のなかで育ってきた優秀なエリートたちは、今度は自らが母親と同一化してその位置に立ち、迷える子羊たる国民を飼い馴らそうとするようになるのです。

そうだな
きみもときには
母の欲望にちゃんと答えてきた
模範生としてのエリートにすぎないと
疑ってみる必要はないかい?

サドは人間の天体が、まともな実生活から遠く離れた、歌う無為の太陽たちの回帰線に傾くことを祝う。彼は人間の非社会化を祝い、母熊に舐められた〔躾けられた〕部分を徐々に捨てることを教える。(『詩におけるルネ・シャール』ポール ヴェーヌ, Paul Veyne, 西永 良成訳)