このブログを検索

2013年10月8日火曜日

どれほど長くいっしょにいても 人は人を理解しない

音の静寂静寂の音(2000) 高橋悠治


2  慈悲の音か音の慈悲か


雨期のダラムサラで
ダライラマ法王と音楽の話をした
音楽は文化に属する
だがブッダの教えは心の訓練で
それはつまり瞑想だ
ブッダの頃は
修行に音楽はなかった
長く引き延ばした声で経文を歌うのは
よいこととは言えない
教えより声の美しさに心が向いてしまうから

教えが他の土地に伝えられ
その土地の文化によって表現されたとき
音楽も礼拝や儀式につかわれるようになった
チベットや中国で
また日本でも

音楽によって
慈悲や平和と非暴力のメッセージを伝えるのはひとつのやりかただ
と法王は言われた
他方では
音楽はひとを戦いに 駆り立て
民族主義に引き込むこともある
音楽は人びとの感じ方に影響をあたえることができる
だから
あなたには責任があります

と法王は言われた
とりわけ若い人たちに対しては

慈悲の音とは
音の慈悲とおなじだろうか
音楽を心の寺とすることができるか
智慧によって静まった心に
音楽は顕れるだろうか
どこからともなく音は顕れ
どこともしれず消えてゆく
消えてゆく音を追う耳はめざめ
よく気をつけて音をよびさます手は繊細になる

それもつかのま
つくりだされた音楽そのもののリズムにより
メロディーにより
技術の洗練により
心は眠りこみ
あるいは逸らされる


音楽はやはり文化を越えない
音楽とは世間にとどまり
人びとの場のなかでだけ意味をもつもの
だが一方で音楽自体が
消えてゆく一つの音に気づくための装置
とも言える

音楽は音の影にすぎない


…………


ひとが音楽について語っているのをみると
あたまにくることがあるんだよ
オレだって書いているのだけれど
やっぱりこの野郎って読んでるヤツいるんだろう
それがなかったらこの場は音楽日記にしてもいいぐらいなんだけどさ
<きみ>のためにな


ほかの連中はいやだったら読むなよな
ツイッターなんかとわけが違うんだから
裃着たような音楽紹介を続けてるヤツらってのは
マヌケとしか言いようがないな
それをそう思わない連中が多いってのも驚くぜ

言葉が尽きずに、改行もなしにとめどなく流れつづけてゆくことの恐怖というのが、いまの時代の姿なのかも知れません。しかしそれを崩れと観るという感受性それ自体が、こんなに萎えてしまっているのではねえ。(松浦寿輝発言 古井由吉・松浦寿輝『往復書簡集 色と空のあわいに』)

オレかい?
だからいま改行してんだよ

なあ悠治


東京に暮していて 音楽を語ることはない
こんなにたくさんの音楽家がいて 
音楽することに何の意味があるのか
だれも知らない それとも言いたくないのか


かつてはみんなが貧しかった時代があった
そのとき音楽することにはたしかに意味があった
それは何だったのか
かつての仲間たちが功績をたたえられ
賞をやりとりしむなしい誉めことばに囲まれて
慣れた手つきで次々に手繰り出す音楽の
なにものも究めず学ぼうともしない姿勢
没落する経済と老化する社会の現実をよそに
国家支配の小道具である近代オーケストラと
資本主義の繁栄のしるしであるグランドオペラに魅入られて

……

ーーーいまここに立つ





なんだろうな
このバルバラの強烈な魅惑
くらくらするぜ
68年直前のかおりってのかな
ノスタルジーじゃだけじゃないはずだぜ
シューベルトの歌曲と同じくらい
雨がふっている
のに
晴れている






どれほど長くいっしょにいても
人は人を理解しない
ひとりひとりの道が出会うことはない
それなのに密やかな音楽がそこに行き交う
人間であることのくるしみをくるしみとしながらも
くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽
その音楽はこの身体に覆われ密やかに息づいている
なにものかがこの身体を透して音楽している



《あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。》

声の《きめ》は響きではない――あるいは、響きだけではない――。それが開いてみせる意味形成性は、音楽と他のもの、すなわち、音楽と言語(メッセージでは全然ない)との摩擦そのものによって定義するのが一番いい。歌は語る必要がある。もっと適切にいえば、〈書く〉必要がある。なぜなら、発生としての歌のレベルで生み出されるのは、結局、エクリチュールだからである。(ロラン・バルト「声のきめ」)