《人間は、自身で経験した事件についてさえ、数日後には噂話に影響された話し方しかしないものだ。》 (小林秀雄「ペスト」)
ツイッターbotからだが、こういう思いがけない出会いがあるから、眺めるのをやめられないってのはあるな。すぐさま別の文章が浮んでくる。
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寺田寅彦氏はジャアナリズムの魔術についてうまい事を言っていた、「三原山投身者が大都市の新聞で奨励されると諸国の投身志望者が三原山に雲集するようなものである。ゆっくりオリジナルな投身地を考えている余裕はないのみならず、三原山時代に浅間へ行ったのでは『新聞に出ない』のである。このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撒き拡げ、あたかも世界中がその類型で充ち満ちているかの如き錯覚を起させ、そうすることによって、更にその類型の伝播を益々助長するのである」。類型化と抽象化とがない処に歴史家の表現はない、ジャアナリストは歴史家の方法を迅速に粗笨に遂行しているに過ぎない。歴史家の表現にはオリジナルなものの這入り込む余地はない、とまあ言う様な事は一般常識の域を出ない。僕は進んで問いたいのだ。一体、人はオリジナルな投身地を発見する余裕がないのか、それともオリジナルな投身地なぞというものが人間の実生活にはじめから存在しないのか。君はどう思う。僕はこの単純な問いから直ちに一見異様な結論が飛び出して来るのにわれながら驚いているのだ。現実の生活にもオリジナルなものの這入り込む余地はないのだ。(小林秀雄「林房雄の「青年」」)
◆『闘争のエチカ』(蓮實重彦・柄谷行人対談集)より。
柄谷)……たとえば、小説というのはアイロニーだと思います。リアリズムは結局アイロニーとしてしか存在したことがないわけですよね。いわゆるリアリズムというのは、それ自体約束の地であって、現実とは別なのです。しかし、現実とよばれるものも、逆に小説を前提としているのではないか。
たとえば、“事実は小説より奇なり”とかいう言い方があるけれども、その場合、「事実」は、小説を前提しているんですね。そして、小説の約束からずれたものが、「事実」とよばれているわけです。リアリズムの小説であれば、たとえば偶然性ということがまず排除されている。たまたま道で遇って、事態が一瞬のうちに解決したとか、そういうことは小説では許されないわけですが、現実ではしょっちゅう起こっている。そういうのが出てくると大衆文学とか物語とかいわれるんですね。かりに実際にあったことでも、それを書くと、リアリズムの小説の世界では、これはつくりものだといわれる。いちばん現実的な部分が小説においてはフィクションにされてしまうわけですね。
しかし、一方で、僕らがやっていることが、すでに小説に書かれた通りでしかないということがありますね。たとえば大岡昇平の『野火』なんかそうですね。主人公は、小説の通りにやっていることを許しがたいと思う。そこでは、つまり、小説をこえた体験が書かれているというよりも、どんな体験も小説の枠内にあるにすぎないということが書かれている。あれは、パロディです。(……)
リアルというやつはほんとにアンリアルであって、あまりにもリアルにすると、アンリアルになっちゃうということはカフカがやったことですけどね。
蓮實)……「人生」という言葉でわれわれがすぐ納得しちゃうのは、なんか真っさらなものだという話なんですね。ところが「人生」というのは文化であるわけでしょう。どういう形で文化かといえば、滑稽なまでにほかの言葉に犯されて、誰が見たって真剣に自分を考えてみたら滑稽ですよ。それほどまでに、いわば引用とか物語を知っちゃっているとか、物語の逆さえ知っちゃっているという惨めな存在である。そのことを、これまでのいわゆる人生論というのは拒否しちゃうわけですよね。
僕が人生という言葉をいっているのは、ほかの人の言葉に犯された人間であるからだめだとか、そこから自由になって自分の言葉を発見しなければいけないとか、そういうことではなくて、人生というのは初めから滑稽なわけでしょう。その始めから滑稽なことを、たとえばほんとうらしい小説というのは滑稽らしく書いていないですよね。
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ツイッターのつぶやきとは、こうではなく、
私的な生活や感想をツイートやブログで公開していれば、見えない他人から監視されている囚人の安心感にひたりながら、格差社会から排除されて いる現実を意識しないで済むのだろうか。インターネットのなかの仮想友人だけでなく、現実の人間も仮想化しているから、じっさいに困ったとき は、だれも助けてくれないどころか、ゴシップの種にしかならないのに。(壁の向うのざわめき 高橋悠治)
こうであるならどんなにいいだろう。
tweet は「さえずる」、小鳥のか細い高い鳴き声だったが、ツイートは「つぶやく」と訳されている。いまは時々コンサートの予定や「水牛」に書いた文章にリンクす る「お知らせ」のツイートをしているだけで、情報が多すぎて情報にならないのに、だれが読むかわからない空間で「さえずる」のではすぐ忘れら れるだけだろうが、それがちがう場所を指す標識ならば、そこに行ってみる手間をかけるために、かえって読まれる場合もありえなくはないとも考 えられる。それにしても確率は低く、しかも確率のように数で偶然を制御する考えとは縁を切ろうとしているのだったら、そんなことを問題にする のもおかしいはずだが。
ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないかと思ってはいるが、なかなか とりかかれないまま。
(……)
見知らぬ他人の声で「つぶやく」。「水牛のように」に毎月こんなことを書いているのも、自分のために書きとめておくだけだ、とは口実で、じつ は公開の場で考えてみせるパフォーマンスではないのか、と時々疑いながら。
ほとんどのツイートは夜郎自大のナルシシズムの発現にしかみえないのが残念だ。
掠れ書き。飛白書。空白を含んだ過ぎ去る瞬間の記憶を書きとどめておく。誰のでもない 声の時々きこえなくなるつぶやきは考えるときのように現実か ら離れて論理を追うのと はちがうが、それでも気がつくと考えにふけっている意識を身体にひきもどしながら、し かも逸れていくプロセスもそこに現れ る徴を道標のように残しておく。迷路の脇道にいずれもどることもあるだろう。だれのために書いているのか。だれもいない内部空間を外 から観察する のはだれだろう。ちがう風景が見えている。書いてしまえばそこから離れ ているのだから、こんどは外から見える曲がり角に移動してそこからきこえてくる声を待つ。 (掠れ書き)
ーーという具合になるのは、オレがアホであるせいではないのか、と時々疑いながら。
どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。
しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。
だからこそ、彼はエクリチュールに自分を託す。エクリチュールとは、《最終的な返答》をしてみせることをあきらめた言語活動のことではないか。そして、他人にあなたのことばを聴き取ってもらいたいという願いをこめて、自分を他人に任せることによって生き、息をする、そういう言語活動ではないか。(『彼自身によるロラン・バルト』)
人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」は偏執病を発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』)
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次はリヒテルbot
《(シュナーベルの演奏するベートーヴェンのピアノソナタ第五番ハ短調の録音*を聴いて)文字通りこの注目すべき解釈に唖然となった。
曲が突如としてほとんど触れられるほどに生き生きと躍動したからだ。見事だ!》
ピアノを弾く人間は誰でもグールドを襲った誘惑に遭遇することがある。ナボコフの小説〔『ルージン・ディフェンス』〕でルージンがチェスの勝負をするようにピアノを弾くという誘惑であり、非物質的で摑みがたく存在しない要素しか相手にしないという誘惑だ。ルージンはチェスボードなしのチェスの試合を夢みるのだし、グールドはピアノなしのピアノ演奏を夢みる。
彼の文章でもこのような禁じられた情念が思わず述べられる瞬間がある。
彼がシュナーベルのうちに愛したのは、「ピアノに本来そなわる諸要素を無意識のうちにほぼ完全に否定しようとする意志」なのだという。ピアノはグールドの無意識だったのだろうか。やがてすっかり放棄してしまうときがやってくる。「ほとんどピアノは弾かない。一時間か二時間か、それも月に一度、接触をもつためだ。だがときにピアノに触る必要が出てくる。そうしないとちゃんと眠れなくなるのだ。」(ミシェル・シュナデール『グールド 孤独のアリア』)