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2013年10月9日水曜日

もうタマランですが!

なんだい
また懲りずに相手をしてほしいのかい?
やめとけよ
病気がひどくなるだけだぜ
まさかもう
ダンナに飽きられたか
飽きたのかでもあるまいに


手加減しなくちゃな
お前さんには

中味はみてないがね
外から上の二三行はみたぜ
昼食後の腹ごなしにな
なんたら言っているようだな

それだけみると
お前さんひどく「常識人」だぜ
ネカマとか学者を騙したとか削除とかな

別に隠すつもりじゃないんだがな
このブログにも痕跡残してるぜ

たぶんそうかも。伯父さんと称する人の写真はバーネット・ニューマンだったし、彼女の元恋人も面白かった。というか、もしかしたらあの三人は、「ひとりの男」だった可能性もあると思っているのですよ…。たぶん私の妄想は間違っているだけじゃなく、本心じゃないですが。(なりそこねた気障

誰が語ったかは、この文を検索すれば”twilog”でわかるぜ
それなりに人を楽しませたつもりだがね
フィクションの三人組を自演してな
ひとに被害はあたえてないはずだがね
被害を与えるのはネットストーカーのたぐいの
メンヘラくんたちじゃないかねえ

そもそもすべての発話はフィクションであるはずだがね
フィクションと思っていない連中が多いだけでね

われわれが「確固たる現実」と「夢の世界」という素朴なイデオロギー的対立に固執している( ……)。われわれはまさに夢の中でのみ自分の欲望の<現実界>と出会うのだということを考慮に入れたとたん、がらりと重心が変わる。われわれの共通の日常的現実、つまりわれわれが親切で真面目な人間という役割を演じている社会的世界の現実が、じつは、ある種の「抑圧 」、すなわちわれわれの欲望の〈現実界 〉から眼を逸らすことの上に成立した一つの幻想にすぎないということが明らかになる。(ジジェク)

お前さんもメンヘラキャラを演じてるんだろ
それとどこが違うのかい?

あるいは日記には日記人格がある
ブログやらツイッターも同様

日記も、読まれることを予想して書かれることがしばしばある。永井荷風の『断腸亭日乗』やジッドの『日記』は明らかにそうであろう。精神医学史家エランベルジェは、日記を熱心に書きつづける人には独立した「日記人格」が生まれてくると言っている。日記をつける人も読む人も、このことは念頭に置くほうがよいだろう。(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』所収)

こんなことはラカン派を持ち出さないまでも
あたりまえだろうに

ネカマ演技は、「誠実さ」(自分を語る、自分をさらけ出す、自分を裁く)
の欺瞞を暴く効用くらいはすこしはあったんじゃないかね

自分語りは、《精神分析、サルトルの底意批判、マルクス主義のイデオロギー批判が空しいものとしてしまった。誠実さは第二度の想像物〔イマジネール〕でしかない。》(ロラン・バルト)

イマジネールな妄想に耽溺するお前さんでもこれくらいは知ってるだろ?
なあ、おい!
ネカマの仮装して
「身悶えしちゃうわ」
「伯父さんやめて! あたしのストッキング脱ぐとこ覗くの」
って書いて何が悪いのかい?

《朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう。》(太宰治『女生徒』)


ゴタゴタいっている暇があるなら
ナルシシストのディスクールとか
メンヘラのディスクール研究
ってのをやってみたらどうだい?
あぶら虫のディスクールとかな

デカダンスとは、通常の共示〔コノタシオン〕とは逆ですが、凝りに凝った、過剰文化的な状態を意味しているのではなく、逆に、価値の平準化を意味しているのです。たとえば、悲劇の大量復活(マルクス)、ブルジョワ社会におけるお祭り的消費の隠密性(バタイユ)、ドイツ批判、ヨーロッパの病い、疲弊、最後の人、《あらゆるものを矮小化する》あぶらむしのテーマ(ニーチェ)。これに、ミシュレの一九世紀 ――彼の世紀―― に対する、「退屈」の世紀に対する毒舌をつけ加えてもいいでしょう。皆、ブルジョワ的平準化がもたらす同じ嘔吐感を感じています。ブルジョワは価値を破壊しません。平準化するのです。小さくし、卑小なものの体制を確立します。(ロラン・バルト『テクストの出口』)

藤田博史氏はそれとなしにやってるようだがね
この図式の真ん中の段だな
あぶらむしはきっとこの図に貢献しているわけでね
なかなかの人材だぜ





すこしまえ藤田氏はこう語っているからな

「不完全拒否」の場合、よく見られる例としては、ネット上に匿名で登場するメンヘラと言われている人たち、リストカットや他者批判を繰り返しながら、不安定な状態でパソコンへ向かっているような人たちが挙げられるでしょう。このような人たちは、女性に多いのですが、ボーダーライン・ケース、日本語では境界例と呼ばれるような状態です。正常にもなれないし、精神病にもなれない、その中間に位置するゆえにボーダーラインと言う訳です。これはΦ から A への接続部分で生じる病態です。広い意味での神経症といってもいいでしょう。(資料:ラカンの幻想の式と四つの言説

なあ、おい!
笑っちゃったよ
貴重な人材だから
語らせたらいいわけで
それにはすこし貢献したようだな

《語りたまえ、そうすればすべてが明らかになる。出来事と諸力に対するきみたちの位置、きみたちの盲目性、きみたちの操作の範囲、きみたちの暗黙の信仰、鏡のなかの自分自身を見るきみたちの仕方が …語りたまえ、そうすればいまにもきみたちは思わず本心を洩らすだろう。叙述したまえ、そうすればきみたちは、自分の思考で考えていることよりずっと多くを言うだろう。悪と関わるきみたちのやり方。ただひとつの悪、実存することの悪だ。全能なる羨望と嫉妬のなかで。一般化された大人の稚拙さのなかで。》(ソレルス『女たち』)

オレの悪とかかわるやり方ぐらい見抜けよ
ネカマなどと幼稚園児のような批判してなくてさ
なあ、おい!

お前さんにとってラカンはきっとオートル・サンブランだからな
ラカンとかクリステヴァをダシにして自分を語るわけだな
永遠に、とめどもなく
お前さんのメタメッセージは
アイツは馬鹿でアタシはお悧巧さんってのが
ほとんどじゃないのかい?
まあオレは鼻糞ほど垣間見ただけだが

偉大な芸人だぜ
小林秀雄っぽいな
新種の批評活動したら売れるかもな


蓮實)たとえば小林秀雄が、批評とは他人をダシにして自分を語ることだと言った。あれは嘘なんですね。かりに何かが起こったとしたらば、べつに小林が自分のことを語るために、誰かをダシにしたわけではなくて、結局、彼はそのつど本居宣長になっちゃったり、ゴッホになっちゃったりしている。

そのなり方というのが非常に難しいんで、完璧に同じものになることはありえないから、ある水準をとってみなければわからない。そういう意味で二つの話がそこに入っているんだけれども、関係が逆転する。批評の対象に自分が似てしまうということと、あるものになるということですね。(……)

柄谷)(……)小林秀雄の言葉に対しては、むしろ、批評とは自分をダシにして他者を語ることだと言いたいところですけれどもね。小林秀雄だって、ほんとうはそうなんじゃないですか。なぜなら、自分そのものが他者であるからね。あるいは、他者においてしか自分が見えてこないから。(蓮實重彦・柄谷行人対談『闘争のエチカ』(1988)より)



あぶら虫のテーマソングでも歌ってやるぜ

「ちゃんとウンコはふけてるかい/弱虫野郎め」(谷川俊太郎)

あ、あ、あ~ あ、あ、あ~

「身悶えしちゃうわ」

《食堂で、ごはんを、ひとりでたべる。ことし、はじめて、キウリをたべる。キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る。ひとりで食堂でごはんをたべていると、やたらむしょうに旅行に出たい。汽車に乗りたい。新聞を読む。近衛さんの写真が出ている。近衛さんて、いい男なのかしら。私は、こんな顔を好かない。額がいけない。新聞では、本の広告文が一ばんたのしい。一字一行で、百円、二百円と広告料とられるのだろうから、皆、一生懸命だ。一字一句、最大の効果を収めようと、うんうん唸って、絞り出したような名文だ。こんなにお金のかかる文章は、世の中に、少いであろう。なんだか、気味がよい。痛快だ。》(太宰治『女生徒』)


キウリってのがあるな
「もうタマランですが!」
ってのもアブラムシのテーマ曲の歌詞にいれとくぜ

……復員して暇を持てあましている若者らがギー兄さんの屋敷へ押しかけたというのは、いかにも自然なことだ。しかし夜を徹しての談判の後、それこそ奇態な懲罰の行為が行われたのだ。復員者たちは、屋敷に他の人間が近づくことができぬよう見張りをたて、また駐在所に連絡に走る者がおらぬよう気を配りもした。それから「千里眼」の時とおなじ装いと化粧とを、ギー兄さん及び介添えのセイさんにさせたのである。はじめの意図は、「千里眼」の実際を復員者たちの前で再現させる、という域を出なかっただろう。それからギー兄さんの女装の美しさが導火線をなしたにちがいないが、復員者たちは蔵屋敷から徴発した酒に酔って、女の恰好のギー兄さんに、セイさんと性交させようとした。しかしギー兄さんの性器が役に立たなかったので、 ――これは心のなかまで女になっとるが! と復員者は口ぐちにいって、今度は逆に、紐でキウリを腰に縛りつけたセイさんに、ギー兄さんの尻の穴でやらせたというのだ。ギー兄さんは屈強なもと兵隊どもに押さえつけられ、うつぶせにじゃなくてあおむけにされた、と話し手は両膝をかかげた寝姿まで真似て、さすがにその陋劣な恰好は聞き手たちの軽蔑をさそったものだ。ギー兄さんはただ痛そうな表情をしているだけだったが、いつまでも続けているうちに、本気になったセイさんが、 ――もうタマランですが! と声を放って泣いた …… この最後のくだりのみは、村のひそかな噂話から独立して酒席の笑い話しになることがあった。花見の折など、当の話題に敏感だった僕は、丸く座を組んだ酒盛の脇を、憤怒と口惜しさに躰を凍らせる具合にしてすりぬけたものだった。しかもそういう時、僕の頭の内には大人たちが愚かしく上機嫌で繰りかえす、もうタマランですが! という台詞が小さな渦巻を作って、それは嫌悪のみならず、ある官能的なコダマを呼び起こすようでもあったのである。(大江健三郎『懐かしき年への手紙』 P162-163)

……「青年団」がセイさんの腰にゆわえつけたキウリはーー自分は中野重治の表記法にしたがって、キウリと書く。キューリじゃない。Kちゃんよ、きみもキウリと書くのだろう?  ――角度の顧慮もなにもありはしないものだから、自分の肛門を傷つけた。しばらく排便ごとに痛んでね、のちに鏡で見ると傷はなおっていたが、古強者のミミズにあるように、肉色の輪がひとつ、へりと直角に組みいられている。その跡は、自分に背負いこまされた窓外の汚辱のしるしのように感じられた( ……)。

そこで自分は「在」や谷間の娘たちの誰かれに、自分の肛門を見られたならば、そして傷跡に言及されたらば、それはすぐさまあの出来事を思い出させるだろうと、惧れていた。当時、どういうものか灯をつけたままこちらの股ぐらにもぐりこんできて、フェラチオするのが都会風だとする、村の娘らの流行があったものでね。 ……(P166 )



このブログかい?
お前さんの症状にひどい悪影響があるなら
削除してやってもいいぜ
すこし退屈してきたところでね
今度はネカマコトバのブログにするかもな

お前さん、安心しろよ
↓系統にはオレはけっして出没しないから
すこしまえ、誰かをオレと勘違いしていたようだがな



・「●●が■■で××の件wwwww」とか「これがあれwwワロタwww」とか書いておけば、すべて2ちゃんねる風になるんだな。


・「●●が■■で××の件wwwww」とかいう表現形式によって内容関係なしに伝わる、あの独特の「おれ本当は弱いんだけど、おまえらのことバカにしてるってあえて表明しとくわ、あ、責任は取らないしマジで抗議されたら逃げるけどなw」感をなんと表現したらいいんだろうな。

・というか、そんな卑怯で醜い負け犬の遠吠え的表現がこんなに一般化しちゃった日本って大丈夫なのかと心配になる。(東浩紀)


負け犬の遠吠え
いつまでもやってんなよ
なあ、おい!
東大出じゃなかったかい?
地頭はいいんだからさ

あばよ