もちろん、バッハ最初期のカンタータBWV106の編曲
1707年前後の作曲ということだから、二十歳すこし過ぎのころの作曲となるわけだ
《若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。》(踊れ、もっと踊れ 高橋悠治)
《若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。》(踊れ、もっと踊れ 高橋悠治)
ここではひどく魅了させられたクルターグ夫妻のデュオ
ステージを気取らないサロンの空間に変える老夫妻の力
現代曲とバッハが織り交ぜられ
バッハがスカンシオン(句読点)の役割を果たす
いや聴き手によってその逆かもしれない
どちらの音楽にも同期する身体
「自由にただよう注意」(フロイト)を生み出す
(最後のアンコールで楽譜が見つからず
聴衆を一分間ほどを待たせてから
BWV106を弾くことになる)
現代曲とバッハが織り交ぜられ
バッハがスカンシオン(句読点)の役割を果たす
いや聴き手によってその逆かもしれない
どちらの音楽にも同期する身体
「自由にただよう注意」(フロイト)を生み出す
(最後のアンコールで楽譜が見つからず
聴衆を一分間ほどを待たせてから
BWV106を弾くことになる)
どれほど長くいっしょにいても
人は人を理解しない
ひとりひとりの道が出会うことはない
それなのに密やかな音楽がそこに行き交う
人間であることのくるしみをくるしみとしながらも
くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽
その音楽はこの身体に覆われ密やかに息づいている
なにものかがこの身体を透して音楽している
ーーー音の静寂静寂の音(2000)高橋悠治 1 いまここに立つ
…………
《幸福に必要なものはなんとわずかであることか! 一つの風笛の音色。――音楽がなければ人生は一つの誤謬となるにちがいない(ニーチェ「偶像の黄昏」)》
わたしたちは友人だった。それから疎遠になった。しかし、それは当然のことなのだ。わたしたちはそのことを、はずかしがって隠したり、ごまかしたりしないだろう。わたしたち二人は、それぞれに別の航路と目的地をもった二艘の船なのだ。いつの日かわたしたちの航路がまじわり、昔そうしたように、二人して祝祭を催すこともあるだろう。―――あのころ、二艘のけなげな船は、同じ港で同じ陽をあびて、肩を並べて静かに横たわっていた。まるでもう目的地に着いたかのように、目的地がひとつであったかのように見えた。しかし、やがて効しがたい使命のよびかけにうながされて、わたしたちは再び異なる海へ、異なる海域へ、異なる太陽のもとへと、遠く離れることになったのだ。―――あるいはもう二度とまみえることがないかもしれぬ、もう一度まみえることがあっても、お互いがわからないかもしれない、異なる海と太陽が、わたしたちをすっかり変えてしまっていることだろう。(ニーチェ『悦ばしき知識』「星の友情」)
「神の時は いとも ただしGottes Zeit ist die allerbeste Zeit」
という名をもつ