◆池田亮司
◆EP-4
※池田 亮司 / Ryoji Ikeda , OPENING GUEST:EP-4 unit3 (佐藤薫・BANANA-UG) + 伊東篤宏
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感覚の作用は振動である。よく知られているように、卵は器官的表象「以前の」身体の状態、すなわち軸とベクトル、勾配、部位、運動学的動き、力学的傾向等をまさに提示しており、そうした様々な状態に比べれば、形態は偶然的で、付随的である。「口なし。舌なし。歯なし。咽頭なし。食道なし。胃なし。腸なし。肛門なし」。まさしく非器官的生命である。というのも器官系は生命ではなく、生命を幽閉するからである。身体は徹底的に生きているがしかし、器官的組織体にではない。かくて感覚の作用もまた、それが器官系を通過して身体にまで到達すると、極端で痙攣的な様相を呈し、器官的組織体的行動の限界を越える。肉(体)のただ中で、感覚の作用は神経的波動や生命的興奮に直接関わり合う。多くの点でベーコンはアルトーと交差すると考えることができる。すなわち形体、それはまさしく器官なき身体である(身体のために器官系を解体し、頭部のために顔面を解体する)。また器官なき身体とは肉と神経である。波動がその身体を経巡り、その中に様々な水準を描く。感覚はいわば身体に働きかける様々な力と波動との出会い、「情動的運動競技」、「息の叫び」のようなものである。またこのようにして身体に関連づけられる時、感覚は表象的であることをやめ、それ自身実在的となる。(ジル・ドゥルーズ『感覚の論理:画家フランシス・ベーコン論』)
新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る、とちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレットhommelette)、ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。
ラメラ、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただしアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係がある何物かです。それがなぜかは後ですぐお話しましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走り回ります。
ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと想像してみてください。
こんな性質をもったものと、われわれがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。
これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)
現代の音響技術は、「本物の」「自然な」音を忠実に再現できるだけでなく、それを強化し、もしわれわれが映画によって記録された「現実」の中にいたとしたら聞き逃してしまうであろうような細かい音まで再現することができる。この種の音はわれわれの奥にまで入り込み、直接的・現実的次元でわれわれを捕らえる。たとえば、フィリップ・カウフマンがリメイクした『SF/ボディ・スナッチャー』で、人間がエイリアンのクローンに変わるときの、ぞっとするような、どろどろべたべたした、吐き気を催させるような音響は、セックスと分娩の間にある何か正体不明のものを連想させる。
シオンによれば、このようなサウンドトラックの地位の変化は、現代の映画において、ゆっくりした、だが広く深い「静かな革命」が進行していることを示している。音が映像の流れに「付随している」という言い方はもはや適切ではない。いまやサウンドトラックは、われわれが映像空間の中で方向を知るための「座標」の役割を演じている。サウンドトラックは、さまざまな方向から細部を雨のように降らせることによって(……)、ショットの地位を奪ってしまった。サウンドトラックはわれわれに基本的視点、すなわち状況の「地図」をあたえてくれ、その整合性を保証する。一方、映像は、音の水族館を満たしている媒体の中を浮遊するばらばらの断片になってしまった。精神病の隠喩としてこれ以上ふさわしいものは他にはあるまい。
「正常」な状態では<現実界>は欠如、すなわち(ロコスの絵の真ん中にある黒点のように)象徴的秩序の真ん中に開いた穴である。ところがここでは、<現実界>という水族館が<象徴界>の孤立した島々を包み込んでいる。
言い換えれば、意味作用のネットワークが織り上げられる核となる中心の「ブラックホール」の役割を担うことによって、シニフィアンの増殖を「駆り立てる」ものは、もはや享楽ではなく、象徴的秩序そのものなのである。それはシニフィアンの浮遊する島、すなわち享楽のどろどろした海に浮かぶ島に成り下がってしまった。
In other words, it is no longer enjoyment that "drives" the proliferation of the signifiers by functioning as a central "black hole" around which the signifying network is interlaced; it is, on the contrary, the symbolic order itself that is reduced to the status of floating islands of the signifier, white ilesflottantes in a sea of yolky enjoyment.
このように「描出された」<現実界>は、フロイトのいう「心的現実」のことに他ならない。そのことをはっきり示しているのが、デイヴィッド・リンチの『エレファント・マン』における、エレファント・マンの主観的体験をいわば「内側」から表現している、神秘的な美しいシーンである。「外部の」「現実的な」音や騒音の発生源は保留され、少なくとも鎮められ、後景へ押しやられている。われわれの耳に入ってくるのは律動的な鼓動だけである。その鼓動の位置は定かではなく、心臓の鼓動」と機械の規則的な律動の間のどこかである。そこにあるのはもっとも純粋な形での描出されたものrenduである。その鼓動は、何物をも模倣あるいは象徴化しておらず、われわれを直接的に「掴み」、<物自体>を直接的に「描出render」している。だがその<物自体>とは何か。それにいちばん近くまで接近する言い方をしようと思えば、やはり「まるで生まれたばかりの生命のようにゆっくり脈打っている、形のない灰色の霧」と言う他ないだろう。目には見えないが質量をもった光線のようにわれわれを貫くその音響は、「心的現実」の<現実界>である。……(ジジェク『斜めから見る』p83~)