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2013年10月5日土曜日

何かないもんでしょうかね、新しい空間は

高橋:(音楽を聴きながら)今福さんあれでしょ、コンサート行ったりあまりしないでしょ。

今福:しないです。わかりますか?

高橋:やっぱりコンサートっていうのはいやですかね。

今福:ええ。20数年前の自分のことを考えると、コンサートという場の意味に関して非常にナイーブに考えてたなあ、と思うんです。別に悠治さんの演奏会だ けじゃなくて、それこそ上野の東京文化会館であろうがなんであろうが、平気で入っていってクラシックのコンサートという場に昔は行けたということ自体が、 不思議ですね。
(……)

今福:いつからそんなふうになったかは一概には言えないんですが、悠治さんのコンサートは最初から音楽をするという行為をどこかで客体化する視線があった ような気がしますね。たしかにかたちの上ではコンサートというひとつの社会的な形式がとりあえずあって、それしかあまり選択肢がないというなかで、ピアノ を弾いたり……。でも水牛楽団になると、形態としてはコンサートとはだいぶ違うものになったわけですね。

高橋:水牛楽団の場合はね、コンサートっていうのはしたけど、主には集会に行って。

今福:ああ、そうですね。

高橋:そこで一曲か二曲かやりますよって形でしたからね、それはいる人も違うし、場もぜんぜん違うわけですよ。だから、今、そういう場がなくなってしまうと、やっぱり音楽をやるためには、CDを作るか、コンサートをやるか。で、コンサートをやる場所っていうのは他のことをあまりできない場所だから、しょうがないなあと思いながらやってるわけですけどね。これをまったく否定してしまったらば……、というか、まあ、この場所でもやれることは何かあるかもしれな いということがひとつあるし、それから、それもひとつの条件だし、そこから違う条件のつけ方もありうるんじゃないか、というようなことも考えますよね。だ から、水牛楽団をやめてから、コンサートの世界、あるいはライヴハウスっていうのをしばらくやりましたね。即興で、あれこれの人とセッションをやる。5、 6年はやったかな、それはすぐ飽きてしまったけど。みんな、この人はこれやるだろうと思うとそれをやるんですよね(笑)。なんだまたこれかっていうことに なると、いつも違う人とやらなければならないっていう、これ一種の「消費」でしょうね、それと……ライヴハウスは暗い場所なのよ。地下だから、なんか息苦しいなあっていう感じで、一生懸命に……何というかな、そういう所に来るお客さんていうのは、盛り上がらないと許さないみたいな感じがひしひしとあって ね。こちらは盛り上がるって事がいやなもんだから(笑)、ということになると、コンサートだけが残った。もういいやって感じになってきますね、段々ね。何 かないもんでしょうかね、新しい空間は(笑)。(「音楽の時間」―高橋悠治・今福龍太 音楽を句読点とした対話―

ライヴハウスってのはあるな、盛り上がらないと許さないって感じ。あれをうっとうしく感じる場合もあるわけだ。その「場の力」。コンサートだったら、白けていても許されるが。

客サイドだって、「享楽を命令された主体」というおもむきがある、ラカンの「知を想定された主体」を捩れば、ということだが。

満員電車のなかの男が「痴を想定された主体」であるように。

痴漢たちは、発見され処罰されることをきわめて深く懼れているものの、同時に、その危険の感覚なしには、かれの快楽は薄められあいまいになり衰弱し、結局なにものでもなくなる。禁忌が綱渡り師にその冒険の快楽を保証する。そして痴漢たちが安全にかれの試みをなしとげると、その瞬間、安全な終末が、サスペンスのなかの全過程の革命的な意味を帳消しにしてしまうのである。結局、いかなる危険もなかったのだから、いままで自分の快楽のかくれた動機だった危険の感覚はにせに過ぎなかったのであり、すなわち、いまあじわい終わったばかりの快楽そのものがにせの快楽だと、痴漢たちは気がつく。そして再びかれはこの不毛な綱渡りをはじめないではいられない。やがて、かれらが捕えられ、かれの生涯が危機におちいり、それまでのにせの試みがすべて、真実の快楽の果実をみのらせるまで……(大江健三郎『性的人間』新潮文庫 P78~)

幻想を支えるものとしての対象は、それが実際に手に入った瞬間失われる。女が男に自分自身を与えたその瞬間、彼女自身というこの贈物は《どういうわけか、どうしようもなく下らない贈物に変わってしまう》(ラカン)。

ある夕暮れ、Jは国電中央線の下り快速電車に乗っていた。かれのすぐまえに、かれと同年輩の娘が、かれと直覚に、そしてかれの胸、腹、腿のあわせめに、その体をおしつけて立っていた。Jは娘を愛撫していた。右手は娘の尻のあいだの窪みからその奥にむかって、左手は娘の下腹部の高みから窪みにむかって。そしてJのむなしく勃起した男根は女の腿の外側にふれていた。Jと娘との身長はほぼおなじだった。Jの吐く息は薔薇色に上気している娘の耳朶の生毛をそよがせつづけた。はじめのうちJは恐怖におののき息づかいを荒かった。娘は叫ばないだろうか? その自由な二本の腕でJの腕をつかみ周囲の人々に救いをもとめないだろうか? 最も激しく恐怖しているときJの性器は最も硬くなって娘の腿にむかってきつくおしつけられている。Jは娘の端正な横顔をいかにもまぢかに見つめながら深甚な恐怖のうちにたゆたう。皺はないが短い額、短く上向きに反っている鼻梁、コオフィ色の生毛のはえた皮膚のしたの大きい唇、しっかりした顎、それに色素の濃すぎるせいで全体が黒っぽく曇って見える立派な眼、それはほとんどまばたくことがない。Jは粗い手ざわりのウールのスカートごしに愛撫しつづけながら、不意に失神しそうになる。もしいま娘が嫌悪か恐怖の叫び声をあげれば自分はオルガスムにいたるであろうと感じる。かれは懼れのように、あるいは、熱望のように、その空想に固執する。しかし娘は叫ばない。唇はかたくひきしめられたままだ。そして舞台に切られた垂れ幕がおりるように、瞼が不意にきつく閉じられる。その瞬間、Jの両手は尻と腿の拒否から自由になる。柔らかくなった尻の間をなぞって右手はその奥にとどく。ひろがった腿のあいだを左手は正確に窪みにいたる。

そしてJは恐怖感から自由になる、同時にかれ自身の欲望も稀薄になる。すでにかれの性器は萎みはじめている。かれはいま義務感あるいは好奇心のみにみちびかれて執拗な愛撫をつづけているだけだ。そのときJは、ああ、いつものとおりだ、こういう風にすべて容認され、この状態をこえたひとつの核心にいたることが不可能となるのだ、というようなことを冷たくなってくる頭で考えていたのだった。そこまでは、かれが痴漢になることを決意した日から幾度となくくりかえされた、おなじ様式の一過程にすぎなかった。やがてJは自分のふたつの指先に、その見知らぬ他人の孤独なオルガスムを感じとった。(大江健三郎『性的人間』P91)

さてなんの話だったか、「場の力」の話だが、日本の満員電車のなかには「場の力」があるのかね、「痴を想定された主体」と「享楽を想定された主体」を誘う力。


男は自分の幻想のフレームに見合った愛の対象を欲望するがa man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy、女は男の対象となることを欲望するher desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy。――これがラカン派の説明だ。

簡略にいえば、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


たとえば美術館における場の力。便器だって美術品にみえる。

超越論的態度は暗黙のうちに「括弧に入れよ」という命令を含んでいる。例えば、私は先にデュシャンが便器を美術展に展示したことについてふれた。その場合、彼はそれを芸術としてみること、つまり、日常的関心を括弧に入れる事を命じてはいない。

しかし、それが美術展におかれているということが、人にそれを美術としてみる事を命令しているのであり、そのことに人は気づかないのだ。同様に、超越論的な視点がそのような「命令」をはらんでいることが忘れられている。のみならず、超越論的視点そのものが一つの命令に促されていることが。

そのことは、超越論的視点そのものはどこから来るかと問うときに、明らかになる。それは根本的に「他者」にかかわっている。超越論的視点そのものが倫理的なのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』(岩波書店版)p180)

ジジェクが『LESS THAN NOTHING』で次のように書くとき、ほとんど柄谷行人のパクリだ。だが美術館に訪れるものの振舞いも、アート・パフォーマンスとなるというひと捻りを加えている。

This difference between (fixed) structural places and the (variable) terms that occupy these places is crucial in order to break the fetishistic coagulation of a term with its place, to make us aware of the extent to which the aura emanating from an object hinges not on the object's direct properties, but on the place it occupies. The classic example of this dependency on place is, of course, Marcel Duchamp's well‐known urinal, which became an art object by being exhibited as such. Duchamp's achievement was not just to extend the scope of what counts as a work of art (even a urinal), but—as a formal condition of such universalization—to introduce the distinction between an object and the (structural) place it occupies: what makes a urinal a work of art is not its immanent properties, but the place it occupies (in an art gallery)—or, as Marx put it long ago apropos commodity fetishism, people do not treat a person as a king because he is a king, he is a king because people treat him as such. In everyday life, we are victims of a kind of reification: we misperceive a purely formal or structural determination as a direct property of an object. This is why one can imagine a quite justified provocation at a Duchamp exhibition: a spectator starts to urinate into the urinal; when the shocked bystanders remind him that this is an art gallery, not a toilet, he replies: “No, you don't get it: when I entered the space of the art object, my activity also became an art performance—what I did was not vulgar desublimation, I merely filled the sublime space of art with new content …”

my activity also became an art performance》ってのは、小さなライヴハウスだったらあるなあ。

あるいは、場の力で、たいした演奏でなくても、名演にきこえる、つまり便器でも、すぐれた作品にみえるように。満員電車のなかの「女」のことは忘れた。

電車の中は、そう混雑していたわけではない。井村は窓際に立っていた。傍らに、人妻風の二十七、八歳にみえる女性が立っていた。(……)青春の日々のことが、鼻の奥に淡い揮発性の匂いを残して掠め去って行った。

その瞬間から、傍らの女の存在が、強く意識されはじめた。それも、きわめて部分的な存在として、たとえば腕を動かすときの肩のあたりの肉の具合とか、乳房の描く弧線とか、胴から腰へのにわかに膨れてゆく曲線とか、尻の量感とか……、そういう離れ離れの部分のなまなましい幻影が、一つの集積となって覆いかぶさってきた。

いつの間にか、彼は青春の時期の井村誠一になっていた。肘を曲げて、軽く女の腕に触れてみると、女は軀を避けようとしない。さらに深く曲げた肘で、女の横腹を擦り上げるようにして、乳房を下から持ち上げた。身を堅くした気配が伝わってきたが、相変わらず女は軀を避けようとしない。乳房の重たさが、ゆっくりと彼の肘に滲み込んできた。次の瞬間、彼はその肘を離し、躊躇うことなく、女の腿に掌を押し当てた……。
(……)

女は位置を少しも動かず、井村の掌は女の腿に貼り付いている。女も井村も、戸外を向いて窓際に立っていた。掌の下で、女の腿が強張るのが感じられた。やがて、それが柔らかくほぐれはじめた頃、女は腿を曲げて拳を顔の前に持上げると、人差指の横側で、かるく鼻の先端を擦り上げた。女はその動作を繰返し、彼はそれが昂奮の証拠であることを知っていた。衣服の下で熱くなり、一斉に汗ばんできている皮膚を、彼は掌の下に思い描いた。

窓硝子に映っている女の顔を、彼は眺めた。電車の外に拡がっている夜が、女の映像を半ば吸い取って、黒く濡れて光っている眼球と、すこし開いたままになっている唇の輪郭だけが、硝子の上に残っている。

その眼と唇をみると、彼は押し当てている掌を内側に移動させていった。女は押し殺した溜息を吐き、わずかに軀を彼の方に向け直した。その溜息と軀の捩り方は、あきらかに共犯者のものだった。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)









ジジェクの文は柄谷行人のパクリとしたが、同じ書の別の箇所(冒頭近く)で、次のようには言及しているので問題ない(もともと『トランスクリティーク』にはジジェクのすぐれた書評もある)。

This Kantian limitation of democracy is strictly homologous to the limitation of Kojin Karatani's Kantian “transcendental” solution to the antinomy of money (we need an X which will be money and will not be money). When Karatani reapplies this solution to power (we need some centralized power, but not fetishized into a substance which is “in itself” Power)—and when he explicitly evokes the structural homology with Duchamp (the object becomes a work of art not because of its inherent properties, but simply by occupying a certain place in the structure)—does this not all exactly fit Lefort's theorization of democracy as a political order in which the place of power is originally empty and is only temporarily occupied by the elected representatives? Along these lines, even Karatani's apparently eccentric suggestion of combining elections with selection by lot is more traditional than it may appear (he himself mentions Ancient Greece)—paradoxically, it fulfills the same function as does Hegel's theory of monarchy.




《マルセル・デュシャンの遺作は、一見そのあまりのバカバカしさで人を唖然とさせる。壁があり、覗き穴がある。それを覗くと、その向こう側には裸の女性が水浴している。こんなものをちょっとでも「気が利いている」と思って展示するなど、人をバカにするにもほどがある、と。しかしこの作品は、実はそれほど単純なものではない。このような装置が、美術館や画廊などに置かれている時、それを覗き込む観者は、女性の裸を覗いている自分の身体が、離れた場所にいる他の観客からは、まるで作品の一部であるかのように「観られている」のだということを(ある「やましさ」の感覚とともに)意識しないわけにはいかない。例えそのフロアーに他の観客が一人もいなくても、その効果が薄れることはないだろう。むしろ他に観客がいない時こそ、その「誰でもない者の眼差しを意識させる」という効果は、完璧に作動する。つまりこの作品は、精神分析の言う、主体における「視線」と「眼差し」(ママ)との分裂を体験させる、きわめてシンプルな装置であると言える。》(偽日記アーカイブ

※通常、ラカン系の翻訳では、視線=眼差しであり、対比されるのは、《L’œil et le regard,眼と視線(まなざし)の二律背反性》というように、「眼」とされる。



享楽を想定された主体ってのは、ジジェクからのパクリだから、ここで白状しておくよ

S1—the subject supposed to believe; S2—the subject supposed to know; a—the subject supposed to enjoy; and … what about $? Is it a “subject supposed to be a subject”? What would this mean? What if we read it as standing for the very structure of supposition: it is not only that the subject is supposed to have a quality, to do or undergo something (to know, to enjoy …)—the subject itself is a supposition, for the subject is never directly “given,” as a positive substantial entity, we never directly encounter it, it is merely a flickering void “supposed” between the two signifiers.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

などと引用すれば、なぜS2 が「知を想定された主体」だなどとごねるヤツがいないとも限らないが(通常は対象aが「知を想定された主体」であったり、大文字の他者の欠如の場にあるのが対象a云々という話にはなる)、自分で考えてくれ

※参照:THE INTERPASSIVE SUBJECT SLAVOJ ZIZEK.

※追記(2013.10.6)→ S2が知を想定された主体とされるのがどうしたなのか、ネット上に手軽に読める文献で、もっとも分りやすいのは、わたくしの知る限り、向井雅明の 「 精神分析における臨床 『I.R.S.――ジャックラカン研究』9/10巻」

あわせて、赤坂 和哉 ラカン的臨床への助走. une course d'élan pour les cliniques lacaniennes. -ジャック-アラン・ミレールの議論を通して-.psychanalyse.jp/archives/K_AKASAKA/論文4(赤坂).doc


ツイッターってのは、「媚びを売ることを命令された主体」とする「場の力」があるんじゃないかね、どうだい、そこの<きみ>?

かりに「いかめしく」振舞ったって次のような具合から逃れるのはむつかしいね

何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませるや否や、何か進歩主義的な常套句で聴衆を安心させるや否や、私はこうした挑発の迎合性を感ずる。私はヒステリー的欲動を遺憾に思う。遅まきながら、人に媚びる言述よりいかめしい言述の方が好ましく思われ、ヒステリー的欲動を元に戻したいと思う(しかし、逆の場合には、ヒステリー的に思えるのは、言述の《厳しさ》の方である)。実際、私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む(私は、今、想像上の過程を描写しているのだ)。反応を求め、つい反応を挑発してしまう私だが、私が警戒心を抱くには、私に反応するだけで十分である。

そして、どのような反応をも冷まし、あるいは、遠ざけるような言述を続けていても、そのために自分が一層正確である(音楽的な意味で)とは感じられない。なぜなら、そのときは、私は自分のパロールの孤独さを自賛し、使命を持った言述(学問、真理、等)というアリバイをそれに与えなければならないからである。(ロラン・バルト「作家・知識人・教師」『テクストの出口』所収)