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2013年10月4日金曜日

日本術語「統合失調症」の”区切り”

歴史学と精神医学の”区切り”」に引き続く

schizophrénie を最近の精神医学はなぜ「統合失調症」と訳すのか。精神は一つの統合だって? 病気になったらそれが失調するのか? これには強い異議がある。scizo は分裂のことであって、分裂には積極的な意味がある。精神が有機的統合であるなどとは日本医学の思い上りである。(鈴木創士)
異言という意味のグロッソラリーをどうして精神医学は舌語と訳すのだろうか。気違いは舌がもつれるからか。彼がらりっているなら気違いではないことになる。それにしても何か感じの悪い訳だ。人を見下しているような訳語が精神医学には多い。統合失調症だってそう。正常人!は失調したりしないからね!(同上)

 ラカンは日本的なものの本質が「サンブラン=見せかけ」であることを見事に見抜いています。意味を生成するシニフィアンとは異なり、見せかけゆえに連鎖せず、論理を構成することもできない。例えば先ほど述べた「統合失調症」という名称は「見せかけ」です。その名称のなかに病の本質を表わすものは何もありません。そもそも統合が失調する病気ではありません。むしろ統合しすぎるといった方が適切かもしれません。しかもこの用語は schizophrenia の翻訳にすらなっていません。

このように、この国では「見せかけ」が巧みな形でわたしたちの日常生活のなかに侵入してきているので、日頃から注意深くシニフィアンとサンブラン(見せかけ)を峻別していないと簡単に騙されてしまいます。(藤田博史

かくの如く、「統合失調症」の語彙は一部ではいまだ評判が悪い(冒頭にあえて非専門家のツイートを引用したが、これがいままで「精神分裂病schizophrénie 」の語彙に思想書などで馴染んできたひとの典型的な感想だろう)。


「ああ!ご主人が入れ替わっただけ!安ぴか物をごまかすのはお手のもの!たいして暇はかからなかった!新参の女衒どもがまたしても演壇に上がったのだ!…新しい使徒たちを見てみろよ!…太鼓腹で密告者ぞろいだ!…地球は厄介払いされるだろう…いやはや連中は何の役にも立たなかったのだ」(セリーヌ)


だが「統合失調症」は、「統合」が「失調」する病なのではなく、精神を無理に「統合」しようとして「失調」する、という読み方もある。


ラカンの“desire of the Other“がdesire for the Otherなどでもありうるように。

《It is only with Hegel that the fundamental and constitutive “reflexivity” of desire is taken into account (a desire which is always already desire of/for a desire, that is a “desire of the Other” in all variations of this term: I desire what my Other desires; I want to be desired by my Other; my desire is structured by the big Other, the symbolic field in which I am embedded; my desire is sustained by the abyss of the real Other‐Thing》(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)


――ということは仄聞するかぎりでも、専門家内で既に多く語られてきたはずだが、それにもかかわらずの批判ということなのだろう(ここでは専門家による批判のことを指している)。

統合失調症」については,異論はいろいろありうるだろう。躁病もうつ病も統合の失調ではないか。神経症や人格障害はどうなんだ,というふうに。また,認知行動障害として精神障害をとらえる見方に偏りすぎていないかという考え方もあるだろう。

しかし,私はいま,全体として進歩であると評価する立場に立つ。

いかにも,統合失調はこれまで「分裂病」と呼んできたものに限らない。しかし,では「不安」は「不安神経症」に限られたものであるか。「糖尿病」など,尿に糖が出るかどうかは第二義的なことではないか。しょせん病名とはそういうものと割り切るしかなく,あまりな見当はずれや社会的に差別偏見を助長するものを避ければよいのである。「精神分裂病」はSchizophreniaの「直訳」とはいえ,日本語にすると,多重人格と受けとられかねない。見当はずれと偏見助長の2つの罪は,やはりまぬがれなかったであろう。精神科医の神田橋條治氏は,精神を無理にでも統一しようとして失調するのだから「精神統一病」と名づけるべきだと主張していたが,これは単なる逆説ではなく,「統合失調症」の思想を先取りしていた。

「統合失調症」とともに,この障害のとらえ方の重心は,はっきり機能的なものに移った。この重心移動は当面は名目的なものであるかもしれないが,やがてじわじわと効いてくるだろう。

「失調」は,「発病」「発症」の代わりにすでに使われていたことばである。患者・家族への説明,あるいは治療関係者同士の会話では日常語であったと言ってよい。「失調」は「精神のバランスが崩れる」という意味である。「回復の可能性」を中に含んでいることばである。「希望」を与えることばは,患者・家族の士気喪失を防ぐ力がある。治療関係者も希望を示唆することばを使うほうが,治療への意欲が強まるだろう。

実を言うと,カルテに,診断書に,文章に「精神分裂病」と書くたびに,これは書く私の心臓にもよくないと思ったものであった。患者・家族に告げる時には「健康なところもいっぱいあるよ」という当たり前のことをわざわざ付け加えなければならなかった。

患者・家族の身になってみると,「精神分裂病」が絶望を与えるのに対して,「統合失調症」は,回復可能性を示唆し,希望を与えるだけでなく,「目標」を示すものということができる。

「統合」とは,ひらたく言えば「まとまり」である。まず「考えのまとまり」であり,「情のまとまり」であり,「意志のまとまり」である。その「バランス」を回復するという目標は,「幻覚や妄想をなくする」という治療目標に比べて,はるかによい。まず「幻覚・妄想をなくする」という目標に対しては,患者・家族はどう努力してよいかわからなくて,困惑し,受身的になってしまう。これが病いをいっそう深くする悪循環を生んでいたのではないか。これに対して,「知情意のまとまりを取り戻してゆこう」という目標設定に対しては,患者ははるかに能動的となりうる。家族・公衆の困惑も少なくなるだろう。患者と医療関係者との話し合いも,患者の自己評価も,家族や公衆からの評価も,みな同じ平面に立って裏表なしにできる。誰しも時には考えのまとまりが悪くなり,バランスを失うことがあるはずであるから,病いへの理解も一歩進むだろう。

また,治療関係者間のコミュニケーションも,この比重移動によって格段によくなるのではないか。看護日誌も幻聴や妄想の変動を中心にすることから,「考えのまとまり」をたずね,「感情のまとまり」「したいこと(意志)のまとまり」をたずねるほうが前面に出てくるだろう。そうなれば,医師や臨床心理士,ケースワーカーとのコミュニケーション,あるいは家族との語り合いも,同じ平面に立ち,実りあるものとなっていくと思う。

せっかく名を変えるのである。これは名を変えることの力がどれだけあるかという,1つの壮大な実験である。実験であるが,同時にキャンペーンでもある。できるだけ稔りあるものにしたいと思う。(「統合失調症」についての個人的コメント 中井久夫

中井久夫はさらにこうも語っているようだ。

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』


ここで「自閉(Autismus)」をいう語が出てくるが、「統合失調症」の命名は、「自閉症」をも含めたもので先進性がある、と語っているのかどうかは、わたくしには窺いしれない。

いずれにせよ、日本術語の「統合失調症」は、「歴史学と精神医学の”区切り”」で触れた新しい「区切り」の試みとして捉えることもできる、ということではないか。

「統合失調症」を「スキゾフレニアschizophrenia」の新訳と捉えてしまうことからくる専門家の批判は、導入後十年ほとたった今されるなら、ほとんど児戯に類するように見えてしまう(もっとも、中井久夫の指摘以降も数多くの吟味があったのだろうが、それを知らない身のものの感慨である)。

批判(吟味)が有効であり得るのは、「統合失調症」では、これこれの理由で、現在の症例や病理として説明価値が低い、というものだろう。


分類から導かれた仮説が、決して真ではありえず、ただより高い説明価値があるかどうかだけが重要。(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』)


たとえば、ラカンの構造論では、同じ排除の構造があるとされて、精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある。

これらが同じ括りに入れられているのは、わたくしのようなシロウトにはいつまで経っても違和がある。これではスキゾフレニーとメランコリーの区別を、中井久夫の『分裂病と人類』を読んで先に感心してしまったわたくしには、呉越同舟な感を覚えるのだ。

ミレール曰くは次のようなことにもなる。

《……しかし最後には、ラカンは精神病的主体はまったく正常であると喜んでいうようになりました。これは、アブノーマルなのは象徴的秩序の方であり、人間の性質は基本的にパラノイア的であるということを意味しています。》(「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」 ジャック=アラン・ミレール 訳 松本卓也

《ひとは皆狂人でありTout le monde est fou言い換えれば妄想的délirantである」。これは一度ラカンが副次的なテクストのなかで書いたものですが、私は昨年これを広めました》(ミレール「セミネール」2008年度)などという話にもなる。

あるいは、

「精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです.ラカンが,狂人は自由な人間だというのはこのためです.同時に,精神病では,大他者は享楽から分離していません.パラノイアのファンタスムは享楽を大他者の場に見定めることを伴います.…

…パラノイアとスキゾフレニーの差異を位置づけることができます.スキゾフレニーは言語以外の大他者を持っていないのです.また同時に,パラノイアと神経症における大他者の差異を位置づけることも可能です.パラノイアにとっての大他者は存在しますし,大他者はまさに対象aの大食家なのです」 Clinique ironique. Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne 23

ーーなどということになれば、パラノイアとスキゾフレニーの差異を峻別する大分類としての概念が欲しくならないでもない(同じ「排除」の構造があるといっても)。


ラカンの「精神病」概念は、現在でも、説明価値が高いのだろうか?
上のミレールの文からも窺われるように、精神病という一括りよりも、パラノイアかスキゾフレニーの区別が肝要にも思えるのだけれどね。そこに「統合失調症」概念がどう絡んでくるのかは分らないけれど。



…………


以下は、ことさら上の論旨に関係はない(ラカンの若い友人であった小説家のテクストを附記するだけだ)。







◆フィリップ・ソレルス『女たち』( 鈴木創士訳 せりか書房 P209-210より)

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…

「彼の真っ赤になった、失語症の爆発」については、次のような指摘もある。

《Lacan suffered severe aphasia. Thus, the twenty-sixth seminar of 1978-1979 remains “silent”, as by then Lacan had practically lost the ability to talk at all.》(ラカンの対象aとしての声



※ソレルス『女たち』訳者あとがきより

…登場人物たちにはなるほど実在の思想家たちのシルエットがダブって見えてくる(…)。傍受したメディアのノイズを要約するなら、本書がパリの文壇に ショックを与えた(!)要因のひとつはこの点にあるらしい。問題の登場人物は次のとおりだ。ラカン(ファルス)、バルト(ヴェルト)、アルチュセール(ル ツ)、クリステヴァ(デボラ)…

もっとも最近のソレルスは次のように語っていることも付け加えておこう。

A.P.: Do you miss Lacan today?

Ph.S.: No, not at all. It would be interesting to have a session of Lacan’s Seminar today. That would waltz over current issues: the financial crisis, Sarkozy, Sade, Japan, Bin Laden, Strauss-Kahn… He would invent something each time out of the situation. It’s not Lacan that I miss, but bodies that would have the same kind of insolence, liberty, in other words the grandeur of Lacan in relation to his physical functioning. There is a sort of separation between the spoken and the written in Lacan. The fact that there should be an awkwardness in this respect is striking. He was a great improviser of speech, but a bit stuck when writing.(The Body Comes Out of the Voice Philippe Sollers