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2014年3月5日水曜日

民主主義の始まり

近代医療のなりたちですが、これは一般の科学の歴史、特に通俗史にあるような、直線的に徐々に発展してきたというような、なまやさしい道程ではありません。

ヨーロッパの医療の歴史は約二千五百年前のギリシャから始めるのが慣例です。この頃のギリシャは、国の底辺に奴隷がいて、その上に普通の職人と外国人がいて、一番上に市民がいました。当時のギリシャでは神殿にお参りしてくる人のために神殿付きドクターと、一方では奴隷に道具一式をかつがせて御用聞きに回るドクターとがありました。

ドクターの治療を受けられたのは中間層であって、奴隷は人間として扱われていなかったのでしばしば病気になってもほっておかれました。市民は働かないで、市の真中の広場に集まって一日中話し合っているんです。これが民主主義の始まりみたいな奇麗ごとにされていますが、働かない人というのはものすごく退屈していますから、面白い話をしてくれる人が歓迎されます。そこでは妄想は皆が面白がって、病気とはみなされなかったようです。いちばん上の階級である市民が悩むと「哲学者」をやとってきて話をさせます。つまり当時の哲学者はカウンセラーとして生計を立てているのです。この辺はローマでも同じです。ローマ帝国は他国を侵略して、だんだん大きくなってきます。他国人を捕えて奴隷として働かせ、消耗品として悲惨な扱いをしていました。暴力の発散の対象に奴隷がなって、慰みに殺されたりしています。……(中井久夫「近代精神医療のなりたち」  『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕 P159 広栄社)


中井久夫の『西欧精神医学背景史』は、その「魔女狩り」の記述で有名であり、たしか英国などに文献調査に行かれ長年の調査のもとに書かれたはず。その論は古代ギリシアの叙述から始まっている。歴史には疎いものであるが、中井久夫の上の文の真偽を疑わないままで、《市民は働かない人》であり、おそらく働かない人たちのみに選挙権があって「民主主義」なるものがあった、ということにしておく。

だが、「ひきこもり」を巡っての斉藤環の発言、《「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている》を想起し、古代ギリシア的だなどと冗談をいうつもりはない。

実は上のようなメモをしているのは、これもフリードマンの著作に直接当たっているわけではないが、次のような書き物を垣間見たせいだ。

ミルトン・フリードマンは選択の自由という本で、
生活保護費の削減には、受給者の選挙権をなくす事だと言っていました。
生活保護自給者→選挙権なし。納税者→選挙権あり。
生活保護受給者が増えると、納税者が生活保護費削減に投票するので、生活保護受給額が減る。
受給額が減ると何とか働いて収入を得ようとするので、受給者が減る。
選挙権を使って市場原理にリンクさせようという考えらしいです。(橘玲 「ベーシックインカムはどうですか?」のコメント欄より) 

――どなたかのコメントとして書かれており真偽はさだかではないが、フリードマンならいいそうなことだ。

…………

◆「再分配方法としての負の所得税」ネット上PDFより

【負の所得税】

負の所得税とは所得に関係なく一定の税率を一律にかけ、 基礎控除額を定めることでそれを上回った者から所得税を徴収し、下回った者は逆に所得に応じた負の所得税を払うものである。負の所得税とはすなわち政府からの給付金である。

基本税率 40 パーセント、基礎控除額が年収 200 万円だとすると 年収 1000 万円の者は基礎控除額を超過している 800 万円が課税対象となり 40 パーセントの 320 万円を所得税として支払う。

年収 200 万円の者は基礎控除額を上回りも下回りもしないため所得税を支払わない。

年収 100 万円の者は基礎控除額 200 万円を 100 万円下回るためマイナス 100 万円が課税対象となり、40 パーセントのマイナス 40 万円を支払う。つまり政府から 40 万円を受け取る。この 40 万円が負の所得税である。

つまりまったく収入が無い者はマイナス 200 万円の 40 パーセントである 80 万円を受け取ることになり、これが最低レベルの所得の者に支払われる生活保護額となる。

ーー参考資料としてミルトン・フリードマン著 村井章子訳『資本主義と自由』(2008 )が掲げられているが、負の所得税概念はかなり前から主張されている。


◆以下も同様にネット上PDFファイルからだが、この『ベーシック・インカム実現への道 』は、群馬大学 社会情報学部 情報社会科学科 上田利佳 さんという方の「卒業論文」(2010 1 15 日提出)だそうだ。敬意を表してそこから引用する。
                                                            
・負の所得税とは、1962 年にフリードマンの著書『資本主義と自由』において提案された最低限所得保障の政策アイデアであり、一定の収入のない人々からは税金を徴収せず、逆に政府から給付金を受け取るというものである。この負の所得税とベーシック・インカムには大きな違いがあり、負の所得税の場合は世帯に対して資力調査に基づいて事後的に支給されるが、ベーシック・インカムの場合は個人に対し、資力調査なしで、事前にかつ自動的に支給される 。

・フィッツパトリックは、このような「社会配当、参加所得と負の所得税は、BI のイデオロギー的な変種として区別される」(T.フィッツパトリック (武川正吾・菊地英明訳) 『自由と保障 ベーシック・インカム論争』 、 勁草書房、 2005)

…………

※附記:「ベーシック・インカムの魅惑と当惑」 成瀬 龍夫より(同ネット上 PDF)

なぜ社会保障をベーシック・インカムに代替する必要があるのかという点については,人口の少子高齢化と長期大量失業による完全雇用条件の喪失という社会保障の二大ミスマッチが拡大しつつある状況を目にすると,ベーシック・インカムへの転換を視野に入れざるをえない。とりわけ社会保障の制度的中核である社会保険の持続可能性の展望が後退しつつある現在,それに代わる所得保障の構想を模索し,議論を活発にすることが求められている。

ベーシック・インカムのめざす社会ビジョンについてはそのユートピア性を,またそのリスク・マネジメント面については「ベーシック効果」以上について不明であることを指摘した。ユートピア性を超えるためには,家族,教育,福祉,雇用や就労などについてのぞましい方向への誘導的なモデルが必要とされるであろう。また,リスク・マネジメントの機能を維持するために,既存の社会保険制度について活用できるものは活用するという柔軟な姿勢が必要である。生存権保障は,所得保障プランだけでは完結しないので,あわせて現物サービス保障プランを確立することが必要である。

ベーシック・インカムの実現の可能性については,現実的な見通しを重視すると,段階的な展望に立たざるを得ない。社会保障かベーシック・インカムかという性急な二者択一は妥当な議論ではない。ヴェルナーも,無条件ベーシック・インカムを「移行段階の過程を踏むことなく導入するのは不可能」といっているが,短期間に社会保険制度の全面的廃止や税制の大改革をのぞむのは,社会的政治的な合意のプロセスからいっても無理である。また,現在の社会保障制度の中には今後も役立つものが存在し,その活用をはかることや不備の改善を試みることまで否定してしまう理由はない。したがって,なぜベーシック・インカムがのぞましいのかという議論を国民的関心事として精力的に盛り上げながら,20年ぐらいの時間をかけてベーシック・インカムを段階的に拡大し,無条件ベーシック・インカムの姿に近づけていくことが妥当なプロセスであると考える。

…………

◆追記:ジジェク『ポストモダンの共産主義』より

二〇〇七年の秋、チェコ共和国で、米軍レーダー基地建設をめぐって世論が沸騰した。国民の大多数(ほぼ七〇パーセント)が反対しているのに政府はプロジェクトを強行した。政府代表は、この国防問題に関わる微妙な問題については投票だけでは決められない――軍事の専門家に判断をゆだねるべきだとして、国民投票の要求をはねつけたのだ。この論法に従っていくと、最後には、おかしな結果になる。すると投票すべき対象として何が残るというのか?たとえば経済に関する決定は経済の専門家に任せるべき、という具合にどの分野にもあてはまるのではないか?
あやふやな状況で決断を強いられることは現代人にとって当然のことだ。こうした強制選択が前提となっている現状で選択の自由があるのは、正しい選択をするという条件つきだから、もはやできることは、押しつけられた専門家の知識を、自由意志による選択であるかのようなふりをすることぐらいだ。だが、もし逆に選択がほんとうに自由で、まさにそのために、なおさら欲求不満になるとしたら?こうして、われわれは絶えず、生活に多大な影響をもたらす物事についての決断を、適切な知識もないままにさせられている。ここで再度、ジョン・グレイを引用しよう。「あらゆるものが、かりそめである時代に陥ってしまった。新しい技術は、日に日に私たちの暮らしを変えていく。過去の伝統はもう取り戻せない。同時に、未来が何をもたらしてくれるのかは、ほとんど見当もつかない。私たちは自由であるかのように生きることを強いられている」。
不思議なのは、われわれがそうと知りつつ、このゲームをつづけていることだ。あたかも選択の自由があるかのようにふるまいながら、(「言論の自由」を守るふりをして発せられる)隠された命令によって行動や思考を指図されることを黙って受け入れるばかりか、命令されることを要求すらしている。(中略)この意味で民主主義においては一般市民の誰もが、いわば王である。とはいえ、それは立憲民主主義の王、形式だけの意思決定を下す君主であって、行政官から渡された法案に署名するだけの役目しか担っていない。

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……人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー民主主義の中の居心地悪さ

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……popularised in Europe and latin America, of basic income. I like it as an idea but I think it's too much of an ideological utopia. For structural reasons, it can't work. It's the last desperate attempt to make capitalism work for socialist ends. The guy who developed it, Robert Van Parijs, openly says that this is the only way to legitimise capitalism. Apart from these two, I don't see anything else.(Interview with Slavoj Zizek