以下、岩井克人『グローバル経済危機と二つの資本主義論』www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/.../0906_8897.pdfよりの抜粋である(もともと米国のサブプライム・ローン問題を端緒として始まった金融パニックをめぐって書かれたものだが、ここでは純粋に経済学理論の簡略な復習として)。
【二つの資本主義論】
《アダム・スミスを始祖とする新古典派経済学の見方》
市場の「見えざる手」の働きに全幅の信頼をよせ、資本主義をどんどん純粋にしていき、世界全体を市場によって覆い尽くせば、効率性も安定性も実現される「理想状態」に近づくという主張である。したがって、諸悪の根源は、すべて市場の円滑な働きを阻害する「不純物」であるということになる。
労働市場にはヒトの移動を妨げるさまざまな慣習や規範があり、資本市場にはカネの移動を妨げる多くの規制や法律がある。これらの不純物さえ取り除けば、資本主義は効率的にも安定的にもなるというわけである。このような新古典派的な資本主義論の20世紀におけるチャンピオンは、2006年に亡くなったシカゴ大学のミルトン・フリードマンであった。
《ケインズなどによる不均衡動学派》
もう一つの見方は、あえて名前を付けるとすれば不均衡動学派である。その創始者は、19世紀の後半から20世紀の前半にスウェーデンで活躍したクヌート・ヴィクセルであり、その理論は、その後イギリスのジョン・メイナード・ケインズによって大きく修正された形で展開されることになった。
この立場によれば、資本主義には理想状態などない。もちろん、ヴィクセルもケインズも、貨幣や資本主義の廃棄を夢見るユートビア主義者ではなく、資本主義システムがミクロ的にはもっとも効率的な経済システムであるという点においては、新古典派と共通の理解をもっている。だが、資本主義の純粋化によるミクロ的な効率性の上昇は、逆にマクロ的な安定性を揺るがせてしまうと論ずるのである。資本主義が、大恐慌などの幾多の危機を経ながら、まがりなりにもある程度の安定性を保ってきたのは、貨幣賃金の硬直性や金融投機の規制など市場の働きに対する「不純物」があったからである。効率性を増やせば不安定化し、安定性を求めると非効率的になるという具合に、効率性と安定性とは「二律背反」の関係にあるというのである。
【ケインズの「美人投票」の理論】
ケインズの美人投票とは、しゃなりしゃなりと壇上を歩く女性の中から審査員が「ミス何とか」を一定の基準で選んでいくという古典的な美人投票ではない。もっとも多くの投票を集めた「美人」に投票をした人に多額の賞金を与えるという、観衆参加型の投票である。この投票に参加して賞金を稼ごうと思ったら、客観的な美の基準に従って投票しても、自分が美人だと思う人に投票しても無駄である。平均的な投票者が誰を美人だと判断するかを予想しなければならない。いや、他の投票者も、自分と同じように賞金を稼ごうと思い、自分と同じように一生懸命に投票の戦略を練っているのなら、さらに踏み込んで、平均的な投票者が平均的な投票者をどのように予想するかを予想しなければならない。「そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想の予想をおこなっている人までいるにちがいない。」すなわち、この「美人投票」で選ばれる「美人」とは、美の客観的基準からも、主体的な判断からも切り離され、皆が美人として選ぶと皆が予想するから皆が美人として選んでしまうという「自己循環論法」の産物にすぎなくなるのである。
ケインズは、プロの投機家同士がしのぎを削っている市場とは、まさにこのような美人投票の原理によって支配されていると主張した。それは、客観的な需給条件や主体的な需給予測とは独立に、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然価格を乱高下させてしまう本質的な不安定性を持っている。事実、価格が上がると皆が予想すると、大量の買いが入って、実際に価格が高騰しはじめる。それが、バブルである。価格が下がると皆が予想すると、売り浴びせが起こり、実際に価格が急落してしまう。それが、パニックである。
ここで強調すべきなのは、バブルもパニックもマクロ的にはまったく非合理的な動きであるが、価格の上昇が予想されるときに買い、下落が予想されるときに売る投機家の行動は、フリードマンの主張とは逆に、ミクロ的には合理的であるということである。ミクロの非合理性がマクロの非合理性を生み出すのではない。ミクロの合理性の追求がマクロの非合理性をうみだしてしまうという、社会現象に固有の「合理性のパラドックス」がここに主張されている。
【純粋「投機」としての貨幣と資本主義の根源的な不安定性】
人が貨幣を貨幣として持つのは、意識しているかどうかは別にして、他人に渡すためだけに持つという、もっとも純粋な「投機」活動なのである。
ところで、人が貨幣を受け取るのは、他人がそれを貨幣として受け取ると予想しているからであるが、他の人がなぜ貨幣を受け取るかというと、やはりモノとして使うためではなく、誰か他の人が貨幣として受け取ると予想しているからである。皆が貨幣を貨幣として受け取るのは、結局、皆が貨幣として受け取ると予想しているからにすぎない。ここにあるのは、ケインズの美人投票と同じ自己循環論法であり、しかももっとも純粋な自己循環論法なのである。
このように貨幣が投機であるということは、当然、貨幣にかんしても、バブルやパニックがあることを意味することになる。
貨幣のバブルとは、実体経済における恐慌のことである。それは、人々が実際のモノよりも、モノを買う手段でしかない貨幣のほうを欲望するという、皮肉な状態である。人びとがモノを買わないから、モノが売れず、企業は雇用を減らし、投資を控える。その結果、人びとの所得が下がり、さらにモノを買わなくなり、モノが売れなくなるという悪循環に陥る。このような不況状態に伴うデフレが、さらなるデフレの予想を引き起こし始めると、人びとは貨幣を一層ため込み始める。その極限状態が、だれもモノを買おうとしない恐慌に他ならない。
貨幣にかんするパニックとは、逆に、貨幣の価値を人びとが疑い始めることである。はやく貨幣を手離してモノに換えようとすることが、インフレに火を付け、貨幣価値を下げてしまうという悪循環を生み出す。さらなるインフレが予想されると、「貨幣からの遁走」が始まってしまう。その極限状態が、誰も貨幣を貨幣として受け入れず、物々交換に戻ってしまうハイパーインフレなのである。
【「流動性」をめぐる自己循環論法】
……「流動性」とは、本質的に不安定な性質である。私が銀行預金をいつでも換金できると思っているのは、他の大部分の預金者も銀行預金の流動性が高いと思い、安心して預金を預けたままにしていると思っているからにすぎない。多くの預金者が銀行預金には流動性がないと思い始めたら、一斉に換金を始めるはずである。その瞬間、銀行は支払不能におちいり、預金者の大部分は実際に換金できなくなる。銀行預金の流動性は跡形もなく消えてしまうのである。
ここにも、貨幣を貨幣として支えているあの循環論法としてのケインズの美人投票原理が登場した。銀行預金の流動性とは、結局、大多数の預金者が他の大多数の預金者も銀行預金は高い流動性をもつと思っていると思っていることの結果にすぎないのである。
【基軸通貨としのてドル】
現在のグローバル資本主義は、米国の貨幣でしかないドルを世界全体の基軸貨幣としているシステムである。それは、すべての貨幣と同様に、世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るから世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るという、あの究極の美人投票としての自己循環論法によって支えられている。
※参照: 資料:「財政破綻」、 「ハイパーインフレ」関連