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2013年11月12日火曜日

自ずと浮んだ「嘘」(志賀直哉)

『鵠沼行き』失敗した長い小説の一部分を切り離した日記のようなものである。すべて事実を忠実に書いたものだが、ただ、一か所最も自然に事実ではなかったことを書いた所がある。そういうふうにはっきり浮んできたので知りつつそう書いた。後にその時いっしょだった私の二番目の妹が、いろいろなことを私がよく覚えていると言い、しかし自分もこのことはよく覚えていると言ったが、それがその一か所だけ入れた事実ではない場所だった。私は、そこは作り事だとは言いにくくなって黙っていたが、妹がでたらめを言うはずはないので、私に最も自然に浮んできた事柄は自然なるがゆえにかえって事実として妹の記憶に蘇ったのだろうと考え、おもしろく思った。(志賀直哉「創作余談」)

おもしろい話だ。志賀直哉の妹にとって、ほかの事実は殆ど忘れてしまっても、自ずと浮んだ「嘘」(志賀直哉の心に最も自然に浮んだ虚構)だけが「事実」として強く印象に残っている、ということが書かれている。

柄谷行人が次のように語る内容のコインの表裏の関係にある。

たとえば、“事実は小説より奇なり”とかいう言い方があるけれども、その場合、「事実」は、小説を前提しているんですね。そして、小説の約束からずれたものが、「事実」とよばれているわけです。リアリズムの小説であれば、たとえば偶然性ということがまず排除されている。たまたま道で遇って、事態が一瞬のうちに解決したとか、そういうことは小説では許されないわけですが、現実ではしょっちゅう起こっている。そういうのが出てくると大衆文学とか物語とかいわれるんですね。かりに実際にあったことでも、それを書くと、リアリズムの小説の世界では、これはつくりものだといわれる。いちばん現実的な部分が小説においてはフィクションにされてしまうわけですね。(『闘争のエチカ』)

ここでは、《小説の約束からずれたものが、「事実」とよばれている》とされるが、志賀直哉の妹は、自ずとした記憶の約束からずれていない「虚構」がもっとも印象に残る事実として記憶されているということだ。

吾々が「事実」として語ることは、このような「虚構」であることが、思いのほか多いのではないか。


プルーストの『失われた時を求めて』の最終巻「見出された時」の手頃なメモがEvernoteの引き出しにある。

話者の友人ジルベルトの第一次世界大戦中の手紙、その「美徳」の物語、自ずと浮んだ「虚構」の箇所から。

……ジルベルトの手紙によると(なんでも一九一四年の九月だった)、彼女は、ロベールの消息がききやすいからパリに残っていたいのは山々だったが、パリの上空をたえずおびやかすタウペの空襲がおそろしく、とりわけ小さな娘のために心配でたまらないので、まだコンブレーに行けるという最後の汽車に乗ってパリから逃げだしたのだが、汽車はコンブレーまでさえ行かず、ある農夫の荷車に乗せてもらったおかげで、十時間の難コースをおかして、やっとタンソンヴィルまでたどりつけたのだった。(……)ジルベルトは、そのおわりに書いていた。「ドイツの飛行機をのがれるためにパリを発った私は、タンソンヴィルなら何もかも安心して避難できると考えていたのです。まだ着いて二日も経たないうちに、何が起きることになったか、想像もおつきにならないでしょう、ドイツ軍はラ・フェールの近くでわが部隊をうちやぶったそのいきおいでこの地方に侵入してまいりますし、一個連隊をしたがえたドイツの一司令部がタンソンヴィルの門前にあらわれるというわけで、私はその宿舎を提供しないわけにはまいりませんでした、のがれる方法はございませんし、もう汽車も、何もないのです。」(「見出された時」井上究一郎訳 文庫p111-112)
ところでこんど、私が二度目にパリに帰って、着いたその翌日にジルベルトからあらたに受けとった手紙によると、彼女は先刻私がここでお知らせした手紙のことを、すくなくともその内容のことを、どうやら忘れてしまっているらしかった、というのは、一九一四年のおわりに彼女がパリを発ったときをふりかえりながら、だいぶちがった模様を述べているからだった。「ごぞんじではないかもしれませんけれど、親しい友よ」と彼女は書いてきているのだ、「私がタンソンヴィルにまいりましてから、まもなく二年になろうとしています。私はドイツ軍と同時にこちらに着いたのです、みんなは私が出発するのをひきとめようとしたのでした。私は気違いあつかいにされました。《どうしたのです》といわれました、《パリにいればあなたは安全なのに、敵の侵入を受けた地方に向けて出発するなんて、誰もがみんなそこから逃げだそうとしているちょうどそんなときに。》そうした考えかたが正しいのを認めなかったわけではありませんでした。でも仕方がありません、私のただ一つの美点といえば、卑怯なのがいやで、というよりも、義務に忠実なと申しましょうか、私の親しいタンソンヴィルが危険にされされているのを知ったとき、私たちの老管理人だけを一人残してそこをまもらせる気にはどうしてもなれませんでした。私の立場は、彼のそばにいてやることだと思われました。それにまた、そうした決心のおかげで、私はどうにか館を救うことができたのですーー近辺のほかの館はすべてその所有者がとり乱して投げだしたために、ほとんど全部、根こそぎに破壊されてしまいましたーー館ばかりではございません、私のなつかしいパパがあんなにたいせつにしていた貴重なコレクションも救うことができたのでした。」つづめていえば、いまジルベルトが思いこんでいるのは、彼女がタンソンヴィルにやってきたのは、一九一四年に私に書いてきたように、ドイツ軍をのがれて避難するために、ではなくて、逆に、ドイツ軍に遭遇し、彼らの手から館をまもるために、なのであった。P118-119

ここでプルーストは格別皮肉っているわけではない。そもそもひとの発話などそんなものであり信頼しすぎるほうがどうかしていると言いたいはずだ。

ことによるとジルベルトはパリを逃げだす際にもどちらのほうが安全であろうかという逡巡があったのかもしれず、しかしながら、いったんタンソンヴィルに向かうという決断をしたあとは自らの決意を正当化するために「タンソンヴィルなら何もかも安心して避難できると考えていた」と1914年の手紙に書き綴ったとも考えられる。だがその当てが外れてコンブレー=タンソンヴィルで思いがけずにもドイツ軍の客を迎えなくてはならなくなったというのは当時のおそらく正直な感想であろう。さて二年後には《彼女はまったく掛値なしに、前線の生活を送》ることになって、《新聞などでは、彼女のあっぱれな行為が、最大の讃辞をこめて語られ、勲章をさずける問題まで起きていた》(p119)。その勇敢なる英雄の物語の主人公であるジルベルトが自らの二年前の逃避行を「美徳」の物語として虚構化するのは当然といえば当然なのであり、ひとは多かれ少なかれそんなことをやっている。「自分語り」などというものはその程度のものなのであり、「私」だけは真実を正直に曝けだしているなどという手合いにはことさら用心しなければならない。告白やら自分語りは、《精神分析、サルトルの底意批判、マルクス主義のイデオロギー批判が空しいものとしてしまった。誠実さは第二度の想像物〔イマジネール〕でしかない》(ロラン・バルト)のであり、ラカンが「同一化」セミネールで《見解上の「私は思う」は、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合にーーつまり厄介なことが起こるというわけだがーー言う「私は思う」以外の何でもない》と語るのも似たようなことを指摘している。「過去の私(ジルベルト)はそのような美徳の行動をしたと今の私は思う」のだ。《人間は、自身で経験した事件についてさえ、数日後には噂話に影響された話し方しかしないものだ》(小林秀雄「ペスト」)なのであり、ましてやジルベルトの場合は二年後である。

あわせて次の文を読めばそのあいだの消息がわかるのではないか。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)
(一般に)過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(同上)


…………


ジルベルト、すなわちプルーストの初恋の女性、ジャンヌ・プーケあるいはマリー・ド・ベナルダキがモデルと言われる。ベナルダキについて、プルーストは世を去る数年前にも「自分の生涯の二つの大恋愛の一つ」と語っている。

もっとも、「モデル」などと安易に書くとプルーストは顔を顰めるだろう。

文学者はひとたび書けば、その作中の諸人物の、身ぶり、独特のくせ、語調の、どれ一つとして、彼の記憶から彼の霊感をもたらさなかったものはないのである。つくりだされた人物の名のどれ一つとして、実地に見てきた人物の六十の名がその下敷きにされていないものはなく、実物の一人は顔をしかめるくせのモデルになり、他の一人は片めがねのモデルになり、某は発作的な憤り、某はいばった腕の動かしかた、等々のモデルになった。 (「見出された時」)

少女ジルベルトと少年マルセルが藪で絡まる長い小説のなかでも性的風景として最も印象的な場面のひとつーー主人公がモンジューヴァンのしげみで、ヴァントイユ嬢と女友達のサディスム的遊戯を覗く場面やら、シャルリュス男爵がソドムの館の鞭打ちされて快楽の呻き声をあげる場面、あるいはアルベルチーヌの死後、マルセルはある地区の洗濯屋の二人の小娘を売春宿にこさせて隣室で聴耳をたてる箇所などともにーーその場面ついてプルーストのテクスト生成研究で著名な吉田城はつぎのように書いている。

プルーストのラブシーンは多くの場合何らかの口実によって始まる一一くすぐってもらう,ポケットの中のコインを探させる,取っ組み合いを演じる一一のだが,ジルベルトのキスも別れの挨拶に名を借りた恋愛遊戯なのである。「遺伝的ではあるが新しい,私にとっては未知の力」と作者も明記している。性的風景もまたその欺臓を暴く役目を担っている。だが,ジルベルトの暖昧とも言えるこの態度ではまだ物足りなかったのであろう,ブルーストは決定稿において, さらにはっきりと,無邪気を装って性的行為へと誘う,小さな妖婦のごときジルベルトの姿を創造した。ぐったりとなった主人公に間髪を入れず「もしよかったらもう少し取っ組み合いをしてもいいのよ とささやく小悪魔の姿を。(「プルーストと性的風景」)

本文も井上究一郎訳訳で附そう。

まもなく私は「侯爵夫人」にいとまを告げ、フランソワーズのあとにしたがったが、ジルベルトのそばにもどろうと思ってフランソワーズから離れた。私は月桂樹のしげみのうしろの椅子に腰をかけた彼女をすぐにさがしあてた。彼女は友達から見つけられまいとしてそうしているのであった、彼女らはかくれんぼうをしていたのだ。私は近づいて彼女とならんで腰をかけた。彼女は目のあたりまでずりさがった平べったいトック帽のために、私がはじめてコンブレーで彼女に認めたあの「下目づかい」の、夢みるような、ずるそうなまなざしとおなじ目つきをしているように見えた。( ……)椅子にあおむけに寄りかかって、手紙を受けとるように私に言いながら、わたそうとはしないジルベルトに近づいた私は、彼女の肉体にはげしくひきつけられる自分を感じて、こういった( ……)。

「ねえ、ぼくに手紙をとらせないようにしてごらん、どっちが強いか見ようよ。」

彼女は手紙を背中にかくした、私は彼女のうなじに両手をまわして、彼女のおさげをはねあげた、その髪は、また彼女の年にふさわしいからか、それとも彼女の母が自分自身若やくためにいつまでも娘を子供っぽく見せておこうとしたためか、編んで肩にたらしてあった、私たちはからみあって組みうちをするのだった。私は彼女をひきよせようとし、彼女はしきりに抵抗する。奮闘のために燃えた彼女の頬は、さくらんぼうのように赤くてまるかった。彼女は私がくすぐったかのように笑いつづけ、私は若木をよじのぼろうとするように、彼女を両脚のあいだにしめつけるのであった、そして、自分がやっている体操のさなかに、筋肉の運動と遊戯の熱度とで息ぎれが高まったと思うまもなく、奮闘のために流れおちる汗のしずくのように、私は快楽をもらした、私にはその快楽の味をゆっくり知ろうとするひまもなかった、たちまち私は手紙をうばった。するとジルベルトはきげんよくいった、

「ねえ、よかったら、もうしばらく組みうちをしてもいいのよ。」

おそらく彼女は私の遊戯には私がうちあけた目的以外にべつの目的があるのをおぼろげながら感じたのであろう、しかし私がその目的を達したことには気がつかなかったであろう。そして、その目的を達したのを彼女に気づかれることをおそれた私は(すぐあとで、彼女が侮辱されたはずかしさをこらえて、からだをぐっと縮めるような恰好をしたので、私は自分のおそれがまちがっていなかったのをたしかめることができた)、目的を達したあとの休息を静かに彼女のそばでとりたかったのだが、そんな目的こそほんとうの目的であったととられないために、なおしばらく組うちをつづけることを承諾した。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』井上究一郎訳)