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2013年11月18日月曜日

「人形」と「中原中也の思い出」(小林秀雄)

人形  小林秀雄

或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。

細君の方は、小脇に何かを抱えて這入って来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。

着附の方は未だ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も槌せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。

細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私の目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。

もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。

夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でピールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。

そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。

細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終ったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。

異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢えて言えぱ、和やかに終ったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。(朝日新聞 昭和三十七年十月六日)

ーーこの文も、前投稿「「美しい」と「おもしろい」」の文脈からいえば、たんに「名品」とか「ウツクシイ」やら、あるいはまるで志賀直哉の掌編のようだ、さらには今の作家たちにこういった文が書けるか、などと言っておらずに、どこに秘密があるのか、「要素に分解して対象をくまなく記述する」、あるいは「具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか」という態度がすくなくとも書き手には(シロウトの書き手でさえ巧く書きたいと願うなら)求められるのだろう。ーーと書いておいて、わたくしは今ここでそんなことをするつもりもなくその能力もないのだが。

この「人形」は『考えるヒント』に収められており、教科書にも載せられたことがあるそうで、比較的多くのひとに親しまれているらしい。『考えるヒント』には、同じように朝日新聞に掲載されたいくつかの短文があり、そのなかの「樅の木」というエッセイも「人形」と優劣つけがたく、とてもすばらしい(末尾に引用)。

この二つの短文の特徴で気づくのは、まずは「パラグラフ」の塊りが簡潔明快で、多くの読者をもつ新聞に載せるエッセイであるために、読み易さの工夫がなされているのか、その塊りごとに進行していくのが心地よい。

文章を書くとは次のようなことである。すなわち、頭の中の宇宙に乱舞する、言葉になりそうでならない、(……)「思想(イデア)」をつかみだし、明確な個別言語の衣を着せ、文脈に相応しつつ、文章という一次元上に建築して、それが何かの命題か物語を順当に喚起して、読み手の視野がひらけてゆき、自分以外の人にも通じるようになるかどうかをたえず吟味しつつ進むことである。いや、「思想」の前にも「もわーっ」とした何かがある。「粗描」というべきか。工作や建築で最初に鉛筆でなぐり描きされる「こういうふうなもの」に近い何かがある。

感じ方、考え方を規制するのではなく、自力で発想や感覚や事態を整理し、言葉に直して、それをしだいに高度に構成してゆくことは、スリリングな知的作業である。

この作業を阻む一因に、センテンスによって構成されるパラグラフという重要な単位を日本語が伝統的に重視しないことがある。

文法的単位はセンテンスだろうが、思考の単位はパラグラフである。この意識が乏しいために、日本語の文章の建築性は、パラグラフの手前で止まってしまう。小泉首相の発言はセンテンスが際立っている。だからスローガンのようなのだ。もっとも、それまでの政治家の発言の多くは、明確なセンテンスの態をなさなかった。武田泰淳が岩波新書の『政治家の文章』でいうとおりである。(中井久夫「日本語の対話性」 『時のしずく』所収


…………


小林秀雄「中原中也の思い出」抜粋

鎌倉比企ヶ谷妙法寺境内に、海棠の名木があった。こちらに来て、その花盛りを見て以来、私は毎日のお花見を欠かしたことがなかったが、去年枯死した。枯れたと聞いても、無残な切り株を見に行くまで、何だか信じられなかった。それほど前の年の満開は例年になくみごとなものであった。名木の名に恥じぬ堂々とした複雑な枝ぶりの、網の目のように細かく別れて行く梢の末々まで、極度の注意力をもって、とでも言いたげに、繊細な花をつけられるだけつけていた。私はF君と家内と三人で弁当を開き、酒を飲み、今年は花が小ぶりの様だが、実によく附いたものだと話し合った。傍で、見知らぬ職人風の男が、やはり感嘆して見入っていたが、後の若木の海棠の方を振り返り、若いのは、やっぱり花を急ぐから駄目だ、と独り言のように言った。蝕まれた切り株を見て、成る程、あれが俗に言う死花というものであったかと思った。中原と一緒に、花を眺めたときの情景が、鮮やかに思い出された。今年も切株を見に行った。若木の海棠は満開であった。思い出は同じであった。途轍もない花籠が空中にゆらめき、消え、中原の憔悴した黄ばんだ顔を見た。(……)

中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶苦茶にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。ただ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」という数枚の断片を見付けただけであった。夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根っこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味の事を言い、そう固く信じていてにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変った、と書いている。が、先はない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かったに相違ない。

それから八年経っていた。二人とも、二人の過去と何んの係わりもない女と結婚していた。忘れたい過去を具合よく忘れる為、めいめい勝手な努力を払って来た結果である。二人は、お互いの心を探り合う様な馬鹿な真似はしなかったが、共通の過去の悪夢は、二人が会った時から、又別の生を享けた様子であった。彼の顔は言っていた、彼が歌った様にーー「私は随分苦労して来た。それがどうした苦労であったか、語ろうとなぞとはつゆさえ思わぬ。またその苦労が、果して価値のあったものかなかったものか、そんな事なぞ考えてもみぬ。とにかく私は苦労して来た。苦労して来たことであった!」。しかし彼の顔は仮面に似て、平安の影さえなかった。


晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹陰の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひたらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果てしなく、見入っていると切りがなく、私は急に嫌な気持ちになって来た。我慢が出来なくなってきた。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上がり、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。………(昭和二十四年八月『文芸』)




こういった文章にひとはほれ込んだのであって、それは小林・中原と親しい関係にあった吉田秀和が上の「中原中也の思い出」の最後の段落を引用して次のように書くのに代表される。

この歌舞伎の情景みたいな文章をよんで、私は私なりに、ハッとした。そうして考えた。中原は、こうやって、とうとう死んだのだ。すると、彼は、ともかく人間とは和解したのだろうな。そうして、ひさかたの春の光の中で、静心なく、散ってゆく花みたいに、彼は死んだのだ。実際、彼は死ぬずっと前から、自分の死を見ていたんだ。

私は、たしかには中原に会ったことがあるにはちがいないが、本当に彼をみ、彼の言葉をきいていたのだろうか? こういう魂と肉体については、小林秀雄のような天才だけが正確に思い出せ、大岡昇平のような無類の散文家だけが記録できるのである。私には、死んだ中原の歌う声しかきこえやしない。(吉田秀和「中原中也のこと」)

もっとも江藤淳はこう書いている、《この一節は美しい。が、おそらくあまりに美しい》、と。

中原中也自身は「日記」に、《岡田来訪。小林を誘って日本一の海棠を見にゆく。大したこともなし。しかしきれいなものなり》とだけしているのだ。


…………

私は、小林さんをお宅におたずねしたのは、ほんの数度しかない。そのうちある時、小林さんは、『私はもう演奏家で満足です。独創的な思想家などというものは……』――と言い出した。そのあとは何といったのか。はがゆいことに、どうしてもはっきり思い出せない。もう出つくしたというのだったか、自分がそうでないことがわかったというのだったか。もし後者だとすると、いつごとからか知らないが、小林さんの『自分が何々でないことがわかってきた』という文章にしばしばお目にかかるようになったのと、無関係ではないかも知れない。もちろん、それはかつて《批評家失格》という威勢のよい文章を書いた人にとって、全く予想外のことではないかも知れないが、近年のは、少し様子がちがうように感じられる。

しかし、そのことは、今はふれまい。小林さんが「演奏」という言葉で表わしたものは、創造と伝統という問題についてのある中核的な思想を指すように思われる。思想というより、ある内的な手ごたえというべきかも知れない。自分で考え、自分で感じとり、自分で動いている。その考え方、感じ方、動き方の中に、自分だけというのでなくて、ある遠くから、古くから伝えられてきた何かがあって、自分が自分になればなるほど、その何かの存在がはっきり自覚されるようになる。あるいは逆に、その何かの在り方について自覚すればするほど、自分はますます自分になる。そういう関係は、楽曲とその演奏との関係と相似的なものを含んでいる。そうして、そこには個人の解釈というものを超えた何かがある。人が全く自由に歌を歌おうとすれば、それは口からの出まかせでなく、誰かの歌を歌うことになる。それはいわば肉体的でかつ精神的なもののメカニズムに全く合致した事実なのである。しかも、その誰かの歌は、歌う人それぞれによって、ちがう音色とニュアンスと、形とを持って響いてくる。そういう事情については、この人は、もちろん、ずいぶん早くから知っており、書いたものにも出ていた、《モオツァルト》も、その一例である。だが、今、そこに何か、それまでになかったものが加わった。かりにもし、小林さんの晩年の思想というものが語られるとしたら、それは、この小林さんが「演奏」という言葉で指したものと無関係ではないだろうと、私は想像したりもする。(吉田秀和「三人――小林秀雄、伊藤整、大岡昇平」)

あまり詳しくはないのだが、ドゥルーズの「自由間接話法」や、「理解すること
ではなく使用すること」というのは、この「演奏」にかかわるはずだ。

またこういう言い方もある、《……自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。》(古井由吉「文藝」2012年夏号)



…………

私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない。私の女を私から奪略した男の所へ、女が行くといふ日、実は私もその日家を変へたのだが、自分の荷物だけ運送屋に渡してしまふと、女の荷物の片附けを手助けしてやり、おまけに車に載せがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、私の敵の男が借りて待つてゐる家まで届けてやつたりした。尤も、その男が私の親しい友であつたことゝ、私がその夕行かなければならなかつた停車場までの途中に、女の行く新しき男の家があつたことゝは、何かのために附けたして言つて置かう。(我が生活 中原中也




こうして中原は「口惜しき人」になり、小林は既にわかっていた恋愛の結果を、口一杯頬ばらされる。以来彼は小説を書きもしないし、他人の小説も信じない。彼は批評家になる。(……)

「保証」は彼女の一番ほしいもので、半ば狂った頭は不貞を犯しても棄てない保証まで、小林に求めるようになる。しかも小林がそこにいるということが、彼女の憎悪をそそるらしく、走って来る自動車の前へ、不意に突き飛ばされるに到って、同棲は障害事件の危険をはらんで来る。

五月上旬の或る夜、泰子が「出て行け」といったら、小林は出て行った。軒を廻って行くのは、いつものように間もなく謝って帰って来る後姿だったということである。しかし小林はそれっきり帰らなかった。
小林は家を出る時、ああ、自分はこの家へはこれっきり帰って来ないなと思ったそうである。……(大岡昇平『中原中也』より)


…………

小林秀雄(1902年 - 1983年)は、若い頃から次のように書いている。

一体論文といふものが、論理的に正しいか正しくないかといふ事は、それほどの大事ではない、その議論が人を動かすか動かさないかが、常に遥に困難な重要な問題なのだ。(「アシルと亀の子 」昭和 5 年28歳)

大岡昇平が書く、中原中也と長谷川泰子と小林の間の奇妙な三角関係の結果、《以来彼は小説を書きもしないし、他人の小説も信じない。彼は批評家になる》という文を信用するなら、本来、小説家になるべきひとが批評家になったとすることもできるかもしれない。

ーーなどと書けば、多くの批評家とは小説家になりたかったがどこかで諦めた種族であり、それゆえ小林秀雄の文章に小説に未練たたっぷりの臭いを嗅ぎつけ、強い反感を覚えるのではないかと勘繰ることさえできるだろう。

われわれはすでにフロイトやプルーストなどから他者非難のメカニズムを学んでいる。

…他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))

自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人の中に向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」井上究一郎訳)
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」井上訳)



いずれにせよ批評家としての小林秀雄批判は、前投稿で、多くの資料を挙げたが、その批判の多くは正鵠を射ているとしても、文章家として捉えるなら、その魅力は消えない。

兎も角、批評文がただ批評文であることに、だんだん不満を感じて来た。批評文も創作でなければならぬ。批評文も亦一つのたしかな美の形式として現われるようにならねばならぬ。そういう要求をだんだん強く感じて来たのだね。うまい分析とうまい結論、そんなものだけでは退屈になって来たのだ。 (「座談/コメディリテレーレ 小林秀雄を囲んで 」昭和21年)

小林秀雄の文には、すくなくともわたくしには次のような力がある。

震災後の世界で、詩がそれほど役に立つとは思っていない。詩は無駄なもの、役立たずの言葉。書き始めた頃から言語を疑い、詩を疑ってきた。震災後、みんなが言葉を求めていると聞いて意外。僕の作品を読んだ人が力づけられたと聞くと、うれしいですが。

詩という言語のエネルギーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた。(谷川俊太郎 ーー「芸術」「詩」の役割をめぐって

…………


「樅の木」に魅惑されるひとつの理由は、「中原中也の思い出」と同じように、古木の枯死といなせな職人とがでてくることだ。小林秀雄は、海棠の切株を思い浮かべながら(つまり中原のことを思い浮かべながら)、このエッセイを書いたに違いない。

樅の木 小林秀雄

私が今住んでいる家は、鎌倉八幡宮の裏山の上にあって、こんもりと繁った山々に取巻かれ、山の切れ目に、海に浮かんだ大島が見えるという大変見晴しのよいところにある。終戦直後、知人からこの家を譲り受けた時、私は、家などろくに見もしなかった。山の上に住む不便も、住んでみてから、いろいろ解って来た事で、その時は考えてもみなかった。それほど見晴しが気に入って、直ぐ決めてしまったのである。

狭い庭は、芝を植えたという他に、何の風情もないのだが、樅の木が一本あって、もし周囲の森と海も庭つづきに見立てれば、造園上、庭樹は、ここにこれ一本と決る、そういう姿で育っていた。樹齢何百年という大木である。無論、八幡宮の有名な銀杏のような名木ではないが、当時、ふと、参謀本部の地図で調べたら、独立樹として出ているのが解った。

目の前にあるのだから、毎日いやでもその姿を眺めるのだが、大木というものは、手入れもした事がないのだろうが、どうしてこうも姿のいいものかと思う。老醜という言葉がある。人間のみならず、私の家の犬も、老醜を現わすに至っているが、大木には、これが全く当てはまらず、老いていよいよ美しいとはどうしたわけか。いろんな鳥がやって来るが、夏の夜、梟が来て鳴くのが一番楽しみであった。

ところが、ある時、今年は何となく元気のない様子だ、と気附いた。その頃、毛虫で鎌倉中の松がひどくやられたので、虫であろうと思い、植木屋に相談したら、これは虫ではない、やはり、木の弱りだと言う。弱りと言っても、自分の意見では、原因は病気ではない、風だと思う、仲間と一緒で生えていればいいが、一本立ちでいては、辛い事だと言う。

樅の木のてっぺんは、古く雷にでもやられたらしく枯れていたが、植木屋は、それを見上げて、あの頭を切ってやれば、木も大分楽になるだろうと言うので、上を三間ほど切って、ブリキの蓋をして貰った。寸がつまっても、それなりに、やっぱり立派な姿に見えた。だが、やはり助からず、二年後に枯死した。

私は切り倒す気にはならなかった。そのままにして置いて見ていた。枯木は枯木で、また、なかなか美しかったのであるが、そのうちに、強い風だと枝が折れて飛ぶようになったので、仕方なく切る事にした。植木屋を呼んで、仕様がない、もう切る、と言うと、彼は、仕様がない、切るには切るが、ついては何とかいうお宮さんに行って、お伺いを立てて、水を貰って来ると言う。そんな習慣があるならあるでもっともな事と思えたから、彼にまかすと、二三日して一升瓶に水を持って来て、米と塩と一緒に供えて欲しいと言うので承知した。一昨年の事である。

恰好が附かないので、樅の木の後に、裏にあった、かなり大きなモチの木を、大騒ぎして移した。まだ丸太が取れないが、根附いてくれた様子である。モチの木も好きな木で、眺めていると随分いいが、未だ樅の木を忘れ兼ねている。(朝日新聞 昭和三十七年十月十三日)




晩年、奥さんが買い物にいけなくなったので下に移ったそうだ


…………


あゝ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉が言えようか
君に取返しのつかぬ事をして了ったあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった

あゝ、死んだ中原
例えばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば

ーー小林秀雄『死んだ中原』


…………


ここまで書いた(引用した)ままでのみ終えると、小林秀雄の抒情的な(感傷的な)讃美だけに終わってしまうのを怖れるので、ーーそれは、わたくしの悪い癖だがーー、以下に前投稿で敢えて割愛した二つの小林秀雄批判をここに附記しておこう。


・小林秀雄は「所詮、鎖国経済下の骨董屋の議論に過ぎない」(岡崎乾二郎


次は小林秀雄のエッセイ「ランボオ Ⅲ」(昭和二十二年三月『展望』初出)への批評家高橋英夫氏の顕揚文に対する蓮實重彦の徹底的な批判の断片であるが、もちろんその批判の矛先は小林秀雄にいっそう強烈に届く。

……高橋氏が引用するのは、いうまでもなく、「僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてい た、と書いてもよい。向こうからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」で始まる一節である。だがそれにしても、これが「一種の狂暴 な<出会い>として一挙に起こったのだ」という点に注意すべきだとする高橋氏が、すかさず「精神が精神に触れ合う危機」を語り始めるとき、ここで小林氏が 嘘をついているという事実になぜ気づこうとしないのだろう。というより、小林氏は嘘をつくべく強いられているのだ。「神田をぶらぶら歩いていた、と“書い てもよい”」の、動詞「書く」がフランス語の譲歩による語調緩和の「条件法」に置かれている点を見逃してはなるまい。それに続く瞬間的な衝撃性の比喩とし ての「見知らぬ男」の殴打、「偶然見付けたメルキュウル版」に「仕掛けられてて」いた「爆薬」、「敏感」な「発光装置」、「炸裂」などの比喩は、事件とし てあったはずのランボー体験を青春の邂逅の光景としてしか語りえない「貧しさ」に苛立っていた言葉が、「書いてもよい」を恰好な口実として一挙に溢れだし て小林氏を裏切り、ほとんど無償に近い修辞学と戯れさせてしまったが結果なのであり、問題の一節にあって「条件法」的語調緩和の余韻をわずかにまぬがれて いる文章は、最後に記される「僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあった」という一行のみである。つまり、真の小林的ランボー体験は、その装われ た性急さにもかかわらず、徐々に、ゆっくりと引き伸ばされ、時間をかけて進行した事件だったのである。わざわざ「『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」とこ とわっている小林氏は、書物の言葉をかいくぐって一挙に「精神が精神に触れ合う危機」などを演じてしまうほどに、「精神」を信用してはおらぬ、それとも高 橋英夫は、小林氏が言葉にもまして「精神」を尊重していたとする確かな証拠でも握っているのであろうか。(……)

……だが、多少とも具体 的な夢へと立ち戻りうる者になら、人が「未知」の何かと「偶然」に遭遇したりはしないという点が素直に理解できるだろうし、そればかりか、むしろ「出会 い」を準備しうる環境と徐々に馴れ合い、それを通じて出会うべき対象をかりに無意識であるにせよ引き寄せ始めていない限り、遭遇などありえはしないとさえ 察知しうるはずだ。つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではな い環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりし まい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会 い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色 調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批判宣言』所収)

蓮實重彦による「小林秀雄殺し」とでもいうべきものだが、氏は「大江健三郎殺し」をしておいて、その後、別の側面から光を当てて大江健三郎を顕揚しているのだが、小林秀雄にたいしては「殺し」た後の、顕揚の痕跡は見られない。