そうしようとは思っていなかったのにとりあえず鈴を鳴らし、社に手を合わせたあと、振り向いて川を見下ろした千種は、
「今日も割れ目やねえ。」
川が女の割れ目だと言ったのは父だった。生理の時に鳥居をよけるというのと違って、父が一人で勝手に言っているだけだった。上流の方は住宅地を貫く道の下になり、下流では国道に蓋をされて海に注いでいる川が外に顔を出しているのは、川辺の地域の、わずか二百メートルほどの部分に過ぎず、丘にある社からだと、流れの周りに柳が並んで枝葉を垂らしているので、川は、見ようによっては父の言う通りに思えなくもない。(田中慎弥『共喰い』)
読んでいない小説をの一部分を引用するのは気が引けないでもないがここは許してもらおう。60年代、近郊には海あり山あり川ありの三河の地方都市で生まれ育ったわたくしにとっては、昭和の、――柄谷行人が1965~70年あたりに「昭和」が終ったと書いたがーー、「本来の」昭和の記憶を呼び起こす叙述のひとつだなのだから。
たとえば「昭和初年代」とか「昭和十年代」という言い方はポピュラーだが、そのような言い方が可能なのは「昭和三十年代」までである。「昭和四十年代」という表現はめったに聞いたことがない。というのは「昭和三十年代」には「一九六〇年代」という表現がすでにオーバーラップしていて、以後「七〇年代」や「八〇年代」というのが普通だからである。「昭和三〇年代」と「一九六〇年代」とでは、時期が五年ずれるだけでなく、大分ニュアンスが違ってくる。後者が国際的な視点において見られているのに対して、前者は、いわば、明治以来の日本の文脈を引きずっている。それらが同時に共存しえたのが、およそ昭和三十年代である。その意味では、(……)「昭和」は四十年(一九六五年)あたりで終っているといってもよい。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」『終焉をめぐって』所収)
もっとも作者の田中慎弥は1972年下関生れ、いわゆる「昭和」以降の生まれなのだから、田中氏の小説の文から「昭和」を感じるというのは、いささか語弊がある。生まれ育った地域や当人の負わされた環境などによっては、1970年以降にも「昭和」が色濃くあったとも言える。逆に大都会の郊外の団地やらニュータウンで生まれ育っていれば、1970年以前にも「昭和」はとっくに終っていたともいえる。
さてそれはさておき、「今日も割れ目やねえ」という表現から、もうひとつ「昭和」の記憶を喚起する四国の山奥の「割れ目=鞘」の叙述を大江健三郎の小説から抜き出す。田中慎弥の小説で、「今日も割れ目やねえ」と呟くのは「千種」であるが、大江健三郎の妻がモデルである下記の文の「妻」の名は「千樫」である。
妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』p37)
ところで田中慎弥氏の小説には次のような叙述もある。
父は鰻を食べている時が一番幸せそうだ。そうめんにも箸をつけはするが、食べ応えが足りないとでも言いたげに、次の切身をまた一口でねじ込み、残りの身も続けて食べ尽くしてしまうと、最後に、仁子さんがいつも切り落とさずにおく頭の部分にしゃぶりつき、一度口から出してまだ肉がついているところを確かめ、また吸いつく、ということをくり返す。鰻の細長い頭は、一口毎に肉を剥ぎ取られてゆき、唾液でとろとろに光った。釣り上げる時に作った傷に、父は気がついていない。(田中慎弥『共喰い』)
この文も代表的な「昭和」の小説のひとつ、安岡章太郎の『海辺の光景』(1959)の叙述をたちまち想起させる。
信太郎は、タバコをのんでいる父親の顔がきらいだった。太い指先につまみあげたシガレットを、とがった唇の先にくわえると、まるで窒息しそうな魚のように、エラ骨から喉仏までぐびぐびとうごかしながら、最初の一ぷくをひどく忙しげに吸いこむのだ。いったん煙をのみこむと、そいつが体内のすみずみまで行きわたるのを待つように、じっと半眼を中空にはなっている……。吸いなれた者にとっては、誰だってタバコは吸いたいものにきまっている。けれでも父の吸い方は、まったく身も世もないという感じで、吸っている間は話しかけられても返辞もできないほどなのだ。(安岡章太郎『海辺の光景』)
安岡章太郎は父母との葛藤や母の死などをめぐって書かれたこの小説について後に次のように書いている。
そのとき入院して、一年後にその病院で死んだ母のことを、僕は書かなければならないと思った。それは母の死んだ直後から考えていた、というよりも極く自然に、自分はそれを書く以外に何もすることはない、と思っていた。しかし、いざ書くとなると、僕の頭には、母のことも、その背後にあることも、何も浮んでこなかった。僕はただ、母が息を引きとったあと、その病棟の直ぐそばの海岸で、潮が引いて底から何やら黒いものの絡まった棒杭が列になって突き出していたことだけを憶えており、そのときうけた衝撃が何であるかが、これから自分の書くものの主題になるということ、それだけしか僕の頭の中にはなかった。ーー母は何のために狂ったのか、何のために死んだのか? それを書くことに一体どういう意味があるのか? 頭の中だけで考えていても、どうどうめぐりをするばかりでよくわからなかった。(……)
干上がった海の底から何が出てくるのか、それが書けたか書けなかったか、僕には何とも言いようがない。僕に書けるのは、要するにこれまでの生涯で自分が見てきたものだけだ。心の中にあるものも、外側にあるものも、自分が何を経験してきたか、こなかったかということは、作品のなかに総てハッキリあらわれるだろう。書けなかったものは、言葉が不足しているためではなくて、そのものに対する経験が欠けているということだ。欠けているものがあったら、あったで仕方がない。差し当ってこの作品のために、あとから経験をつぎ足すことは出来っこない。その代り、自分に欠けているものがもしわかれば、それだけでもこれを書いた甲斐があるというものだろう。(『僕の昭和史』)
理知が摘みとってくる真実――この上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる真実――透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほどその価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実な、より干からびた輪郭をもち、平板で、深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじようなビロードの肌ざわりはない。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)
安岡章太郎には、後年にも傑作はあるが、しかしやはりこの『海辺の光景』が代表作だと言われるのは、そこにあるビロードの肌ざわりのせいだろう。
ここでは犬の遠吠えからはじまる箇所を貼付しよう。
犬の遠吠え、扉の開く音、足音、ささやき声、女のよび声、……そして成熟した女の声によるナレーション、――それはすでに大人になった女、すなわちエストレーリアがその成熟した女としての視点から語る声なのだがーー、少女時代の根源的な体験を、もはや触れえない何ものかとして語る声。
ふと少女の顔を風のように撫でるものがある、耳のそばを通りぬけてゆく。彼女は部屋の闇のなか大きく目をみひらく……すると成熟したのちの少女自身の声、それはあの未来のノスタルジーだろうか(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)
さて、実は、こんなことを書きはじめたのは、青山真治監督の『共食い』一般公開間近でのインタヴューにめぐり合ったからだ。
――(……)遠馬が昭和63年を現在としてまさにいま生きている物語にも見える一方で、実は語っているのは遠馬といった特定の人物ではない誰かであるような物語にも見えます。言ってしまえば、日本人というものが忘れていた、あるいは忘れようとしていた「記憶」そのものが、この映画であるかのような感覚があります。それは、昭和天皇の死と、光石研さん演じる円(まどか)という父親の死が二重に語られているからなのかもしれませんが、青山さんご自身は、この物語は誰が見た物語だとお考えですか?
青山 さっきの距離感の話からすると、遠馬でさえない、誰でもないようなフラットな日本人――フラットな日本人なんているのかどうかわからないけど――そのものの視点。そういうものの語りというのが、欲求の根っこにあったかもしれない。普通の日本人が普段忘れているようなことをこの映画が語っているように見えれば一番良いんだけど。
繰返せば、「普通の日本人が普段忘れているようなこと」の「昭和」は、若い世代には通用しないのかもしれない。たとえば次のようなスチル写真から自らの幼少時の記憶を痛みをもって呼び起こされない若いひとたちが今では多いのだろうとも思う。
ところでほかにもナレーションをめぐってこんな会話がある。
――ナレーションに関して言えば、青山監督の映画でここまで明確に冒頭と終わりにナレーションによる語りが挿入されている作品はあまりなかったように思えます。そのナレーションの「声」は光石研さんのものですが、「語り手」は昭和の時代が終わってから十何年かが経ち、大人になった遠馬が語っているという設定にされています。(……)
青山つまり、このナレーションは「回想」ではなく、語りの距離感についての問題に関わっているんだと思う。たとえばタバコの吸殻が入っている灰皿がここにあるとして、近くで見ると、いろんな細かいものが見えるんだけど、少し距離を置いてそれを見ると、灰皿だけがあるように見えるという、その距離感。
この映画でのナレーションがどんな効果を生んでいるのかは知るところではないが、さる映画での至高のナレーションの場面をここでも想起せざるをえない。
以下、蓮實重彦『光をめぐって』所収「心もとなく闇の中を歩みはじめるように」(1985----ビクトル・エリセへのインタヴューから)
――『エル・スール』の場合は、オフのナレーションが素晴らしいのですが、この構成はシナリオ段階から決まっていたわけですね。
エリセ) ええ、あのナレーションの声は、すでに大人になった女、つまりエストレーリアがその成熟した女としての視点から語っているのです。彼女が、少女時代の根源的な体験を、もはや触れえない何ものかとして語っているわけです。それは、内面の日記かもしれない。文学的な作品の一断片かもしれない、しかしそれが文学的なものとして語られることを私は望んだのです。
――その少女時代の根源的な体験の中で、父親が重要な役目を果たしています。ところが、この父親と娘という関係をめぐって「この発想はあからさまにフロイト的だ」という批評を「カイエ・デュ・シネマ」誌で読みました。好意的な文章なのですが、こういう言葉で単純な図式化が行われると、作品の豊かさが一度に失われて残念な気がしました。
エリセ) おっしゃる通り、私は仕事をしているときに、その種のことはまったく考えていない。もちろん、これまでの生涯で目にしたある種のイメージとか、体験したある種の感情とかを映画の中に生かそうとはするでしょう。でも、フロイト的な発想などというものが最初のアイディアとしてあるわけではもちろんありません。私は心もとなく闇の中に歩きはじめる。私が何かを理解するのは撮影が終わった瞬間なのです。映画とは、そうした理解の一形態なのであり、あらかじめわかっていることを映画にするのではありません。
ふと少女の顔を風のように撫でるものがある、耳のそばを通りぬけてゆく。彼女は部屋の闇のなか大きく目をみひらく……すると成熟したのちの少女自身の声、それはあの未来のノスタルジーだろうか(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)