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2013年11月30日土曜日

お元気でいらっしゃいましたか? いちばん心配なのは長生きでございます!

ひょっとすると、多くの社会は、あるいは政府は、医療のこれ以上の向上をそれほど望んでいないのではないか。平均年齢のこれ以上の延長とそれに伴う医療費の増大とを。各国最近の医療制度改革の本音は経費節約である。数年前わが国のある大蔵大臣が「国民が年金年齢に達した途端に死んでくれたら大蔵省は助かる」と放言し私は眼を丸くしたが誰も問題にしなかった。(中井久夫「医学部というところ」書き下ろし『家族の深淵』1995)

 以前、「二十一世紀は灰色の世界…働かない老人がいっぱいいつまでも生きておって」渡辺美智雄1986の記事を書いたとき、中井久夫はどこか別のところでも同じことを言っていたな、とは頭の片隅を掠めたのだが、昨晩漫然と『家族の深淵』を読んでいて偶然行き当たった。

政府の本音は、「平均年齢のこれ以上の延長とそれに伴う医療費の増大とを」望んでいないのだろう。だが今では、教育だってあやしい、とくに大学教育は。エリート養成校がいくつかあったらそれでいいと思っているのではないか。あとは企業で役立つ人材を養成するだけの学校でいいと。もちろん他にもあるだろう、「生活保護」、――「税金を払わない連中がいつまでも生きておって」などと言う政治家はまさかいまいが。

しかし現在は、「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」と副総理が語ってお咎めのない時代である。

すべてを少子化、老齢化などによる財政的行き詰まりのせいにするつもりはないが、やはり「過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない」(ジャック・アタリ)。すなわち、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトなのだ。

ところで家族も小さな社会である。子供たちの「本音」は、老齢の父母がいつまでも長く生き続けているのを望むのだろうか、もちろん植物状態や高度痴呆症の親をもつ子供はそうでありえない場合が多いだろうが、では核家族に馴れて別々に暮している老齢の父母に対してはどうなのだろう。大江健三郎の小説の「お祖母ちゃん」のように、いつまでも長生きを望まれているのだろうか。

……なにはともあれヒカリが挨拶の口を開くのを待ったのだ。

ーーお元気でいらっしゃいましたか? いちばん心配なのは長生きでございます!

ーーありがとうございます、ヒカリさん。この間はおなごりおしいことでしたが、またお眼にかかれましたな! これに味をしめて、もっと長生きしましょうな!(『懐かしい年への手紙』)

『燃え上がる緑の木』第一部の冒頭には、死期を間近に控えた「お祖母ちゃん」の様子を叙す大江健三郎の醒めた目によるエクリチュールがある。

・お祖母ちゃんは、初め、待ち望んでいた相手を迎えた様子ではあるのだが、薄茶色に曇りのつけてある銀縁の眼鏡の向こうの、翳った水たまりのような眼を、肘掛椅子のあの人に向けたままだった。

・お祖母ちゃんの皺としみですっかり覆われているーーそのこと自体に徹底したものの美しさもあるーー横顔に、不機嫌さの気配が滲むのを見るように思った。

・ところがお祖母ちゃんは、便所への暗い廊下の、母屋から段差のある曲り角で、嵩のない蠟色の紙のかたまりのように倒れていた。

・――それは、なあ……というほどの、しかも乾いた皺の覆っている皮膚に透明なカゲロウが羽化しようとしているような微笑みを展げて。

・お風呂の介護をする際、つい眼に入るお祖母ちゃんの腿は、使い棄てられた子供の椅子の腕木のような細さ。

…………

私にとって、生きているとは意識があるということである。植物状態を長く続けるのは全くゾッとしないようである。高度の痴呆で永らえることも望んでいないようである。これは自分の考えを推量していっているので、自分ながら「ようである」というのである。私がわずかしか残さなかった家計を、家族がそのような私のために失うのを私は望まない。「尊厳死」という発想とは少し違うかもしれない。死の過程をーーそれもあまり長くない間――体験したいというのは、私の一種の好奇心ともいえよう。ただ、私はマゾヒストではないから、苦痛の軽減は望み、余裕のある意識で死の過程を味わいたい。また、長い痴呆あるいは植物状態を望まない主な理由は、経済的に家族を破綻させるからで、私はこれらの生命の価値を否定しているわけではない。(中井久夫「私の死生観――“私の消滅”を様々にイメージ」)