このブログを検索

2013年11月13日水曜日

11月13日

まあそうイライラすんなよ
オレのような偏屈もののドシロウトが言うことなんて
軽く受け流したらいいのでね

読んでる証拠として返事するけどね
NHKのプログラムじゃなくて
今度のサントリーホールのヤツだったら文句はいわないし
オレにはハイドンが一番好みだったな、前にチラッと言ったと思うけど
そしてもちろんオレの好みなんてどうだっていいし


でも《リスト派/ショパン派などは外から見て言えることで、音楽家としてそう言う「派」に今意味があるという気はあまりしない》ってのはちょっと違う気がする。この「外から」ってのはアマチュア愛好家の意味で、「内から」ってのが専門家の意味だったら。

専門家だって四つのタイプがある。

①リスト>ショパン
②ショパン>リスト
③どっちも演奏しない
④どっちも(なんでも)万遍なく演奏する

指揮者には④のタイプが多いさ、そのなかでも格別なのはカラヤンだ(オレは実は隠れカラヤンなんだけど)。まあ交響曲は最近あまり聴かないけれど、シューベルトとモーツアルト(これはベームだったな、古い話だが)以外は、昔はだいたいカラヤンで満足してたから。


たとえば、《音楽家としてそう言う「派」に今意味があるという気はしない》の文の「音楽家」に「文学者」とか「哲学者」とかを代入したら、やっぱり意味があるんじゃないか。それとも作曲家ではなく演奏家はそんなことはいえないのだろうか?

たとえばナボコフがこう言うとき、それに全面的には賛成しないでも、新しい光が当てられてとても「意味」深い。すくなくともこう宣言するひとはカッコイイと思う

ナボコフはチェーホフを高く評価し、彼が他のロシア作家に与えた評価としてはトルストイのAプラスに次ぐAをプーシキンとチェーホフに与えている。他の作家の評価は、ツルゲーネフがAマイナス、ゴーゴリがB、ドストエフスキイはCマイナス(かDプラス)で、「チェーホフよりもドストエフスキイが好きな者にはロシアの生活の本質は決して理解できないだろう」とウェレズリー大学の女子学生たちに話していた(Hannah Green, "Mister Nabokov," 37)。

内田光子が音楽界のナボコフかどうかは別にして、「内から」、つまり専門家として「私はリストじゃなくてショパンのタイプ」といっているわけだ

まあカッコイイのはこういうタイプもあるがね
スヴャトスラフ・リヒテルBOT
(ホロヴィッツについて①)
……驚くべき人物、
それでいて不快極まりない、
それでいて卓越したうまさ(「音楽院」的な意味で)、
それでいて夢幻的な音色、という具合に何もかもが矛盾している。
何という才能!それでいて何という下卑た精神……。
(ホロヴィッツについて②)
これほどに気さくで、これほどに芸術家気質で、これほどに限界のある人物とは(いたずらっぽい笑い方を聞いてみよ、彼の姿を見よ)。
それでいて何という巨大な影響を若いピアニストたち(音楽家ではない)の感性に及ぼしたことか。
すべてがあまりにも不可思議だ……。
(ホロヴィッツについて③)
加えてあの「陰険な」ワンダ[ホロヴィッツ夫人]が、例のいわゆる「寛容」にして助力を惜しまぬ女性がいつも傍らに待機して、何事にも目を光らせている。
ほかに何と言ったらよいかわからない。

ワンダ夫人ってトスカニーニの娘だったよな

どんな顔してたかな

こんなのもあるな




話を戻せば
たとえば翻訳者(つまり演奏家)のなかには何でも訳す人がいるけれど、好きな作品しか訳さない須賀敦子はカッコイイ


内田光子の話をもうすこし正確に引用しよう。

ピアニストにはわたしのようにショパンを弾くタイプとリストを弾くタイプがあります。ショパンの美しさは例えようもないものです。詩的な感性のみならず明確な方向性を持っていて、緻密さも兼ね備えています。ショパンの明確さと緻密さは、モーツァルトの作品と通じるところがありますね。見過ごしがちなことですが、各音符は然るべき場所に存在し重要な意味があります。単に美しい旋律が浮かんでくるのではありません。彼はバッハの音楽を細部まで暗記していました。ショパンはまことの音楽の源はバッハだと信じていたのです。ベートーヴェンは支持しませんでしたが、モーツァルトについては高く評価し尊敬していました。

 この先古い音楽と現代音楽の距離は縮まるでしょうか・・・半ば冗談で言わせてください。〝もし70歳まで生きたらバッハの前奏曲とフーガを全48曲を観客の前で演奏したい〟とね。

 私は一人で弾いたり室内楽団と一緒に演奏することが好きです。また声楽家との共演を好み、シューベルトやシューマンの歌曲を愛しています。何よりリートの伴奏者としての演奏は私に向いているでしょう。(内田光子インタヴュー


――というふうに語っているってことは、つまりショパンは「明確な方向性を持っていて、緻密さも兼ね備えています」としているってことは、リストはそうじゃないと言っているはずだ。

リストに縁が深いはずのハンガリー出身のシフは、こう言っている。

composers such as Liszt and Berlioz fail completely: because, first of all, they have nothing to do with Bach; and second, they lack the modesty, as well as the economy and discipline. I could remove half of a gloss by Liszt and the piece wouldn't suffer.

リストは無駄な音ばっかりだって訳だ。
これが実際そうなのかどうかは、オレにはわからないけどね
反論するなら、そこじゃないか、ショパン派/リスト派の二項対立の。

Andras Schiff: Of course, the "framing" with Bach was no accident—I wanted to close a circle. And Bach's value? That's not easy to put into words. Bach's music is very important for me; it is the most important for my life. The entire music literature following Bach—all music intrigues and interests me, and everything I treasure in music comes from Bach. If a composer has no relationship to Bach, then, it doesn't really interest me at all. Bach is an entire musical, yet human, worldview. Here, the musical must be spiritual, not physical. It can make me happy, and sustain me, but it is much more. It is the content of Bach's music that intrigues me so.

Above all, Bach's lack of egotism—the incredible devotion and modesty. With Bach, we don't have the "image of genius" that certainly so strongly characterizes Mozart. But, people must be for sure very clear about Bach's enormous gift, his uniqueness. For me, Bach is a very religious man, in the best sense of the word: a man who considers the composing of music as a mission, as a duty. The quality that comes forth in his work is truly astounding; he writes his compositions day-in and day-out, and yet, they don't seem labored. Bach's music radiates this purity: purity in the polyphony, as well as clarity and transparency of the entire composition, whereby, each voice, each note is important. In Bach, nothing is subordinate.

This is otherwise an aesthetical principle in art for me. I'm mainly thinking here about economy—that one not write as many notes as possible. In this respect, composers such as Liszt and Berlioz fail completely: because, first of all, they have nothing to do with Bach; and second, they lack the modesty, as well as the economy and discipline. I could remove half of a gloss by Liszt and the piece wouldn't suffer. You can't remove one note from a Bach fugue!
(SCHILLER INSTITUTEInterview with Pianist Andras Schiff)

ーー御存じの通り、バッハ派なのでね

それと、「ヤクザの親分/堅気」ってのの起源は、次の文さ。


◆ニーチェ『曙光』より「悪人と音楽」

無条件の信頼のうちに生まれる愛の完全な幸福は、疑い深い、悪意を持った、不機嫌な人間よりほかの人間に与えられたことがあるだろうか。おもうにこういう人間たちは、愛の幸福に面して、法外な、信じたこともなければ信ずべくもない、自分の魂の例外を味わうのだ。そのほかいっさいの彼らの表裏の生活とは、はっきり区別された、あの無辺際な夢みるような感覚が、ある日彼らを襲うのである。貴い謎か奇蹟のようだ。金色の光に溢れ、絵にも言葉にも尽くせない、無条件の信頼は、人を沈黙させる、いや懊悩も憂鬱も、この幸福の沈黙に包まれてある。だから、そういう幸福感に圧倒された魂は、他のすべての善良な魂よりも、音楽に感謝を抱くのが常である。彼らは音楽を通じて、さながら色彩ある煙を透かすように、みずからの愛を、言わばひときわ遠く、深く、軽やかに、見、また聞くのだ。音楽は、彼らには、みずからの異常な状態を静観し、一種の疎遠と安堵の感をもって、初めてその眺めに接し得る唯一の方法である。すべて愛するものは音楽を聞いて思う、これは私のことだ、私の代わりに語っているのだ、音楽は何もかも知っている、と。

――すこし分りにくい文かもしれないが、小林秀雄の「ニーチェ雑感」のなかにこの文をそのまま引用して次のように書かれている。

これは、ニイチェにおける音楽の観念の動きを、みずから高速度カメラで写してみたものである。音楽に意識の心地より眠りを求める善良な人々には、これは奇妙な動きであろう。善悪の彼岸が味わいたいなら、まず悪人たるを要する。ニイチェにとって、生とは、決して眠り込んではならぬ意識のことである。音楽は眠ってはならぬ意識が呼吸する、彼の言葉で言えば、「倫理的空気」だ。彼のような、抒情が理論を追い、分析が情熱を追う、高速度な意識には、音楽の速度しか合うものがない。

「善悪の彼岸が味わいたいなら、まず悪人たるを要する/音楽に意識の心地より眠りを求める善良な人々」の二分法ってわけだな、「ヤクザの親分/堅気」ってのとは、いささか違うにしろ。


返事はいらぬ 
演奏会、成功を祈る