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2013年11月16日土曜日

プルーストのトランスセクシュアリスム、あるいは同性愛をめぐる

ある人たち、おそらくはもっとも内気な少年期を送ったと思われる人たちにとっては、彼らが相手から受ける快楽の肉体的種類はあまり問題ではない。その快楽を任意の男性の顔にむすびつけることさえできれば。一方、またべつの人たち、おそらくもっとはげしい官能を抱く人たちは、彼らの肉体的快楽が、厳とした配置決定、つまり強い定着化をもつことを求める。この種の人たちは、その告白によって、世間一般の人々にショックをあたえるだろう。彼らはもっぱらサトゥルヌスの星座のもとでだけ生きるとはかぎらないだろう、なぜなら彼らは、まえにあげた第一種の男たちの場合のように女性を全然受けつけないというわけではないからだ。第一の男たちにとっては、女性は、会話や、あで姿や、頭脳の恋以外には存在しないのである。しかし第二の男たちは、女性を愛する女たちを求める。そういう女たちは、誰か若い男をつかむ機会をあたえてくれるし、その若い男とともにする快楽を増大させてくれる。そればかりでなく、彼らは、男を相手にしている場合とおなじ快楽を、同様に、彼女らを相手にして味わうことができる。以上のことから、つぎのようなことが生じる、すなわち、嫉妬は、第一の男たちを愛する男にとっては、自分の愛する相手が他の一人の男にたいして味わっていると思われる快楽によってしか刺激されない、そしてそのような相手の快楽のみがうらぎりであると思われる。それというのも、第一の男たちを愛する男は、女たちとの愛に興味を感じないし、女たちとの愛を実行したとしても、それは単に習慣として、結婚の可能性を残す手がかりとしてであるにすぎなかったのであって、そういう男としては、女たちとの愛があたえる快楽を想像することができない結果、愛する相手の男たちが他の快楽を味わうことに堪えられないからである。それにくらべて、第二の男たちは、女たちとの愛によって嫉妬心をそそる場合が多い。なぜなら、第二の男たちは、彼らが女たちとむすぶ関係のなかで、一種の女性の役割を演じるからだ、つまり、女たちを愛する女を相手にして、もう一人の女性の役割を演じるからである。そのとき同時に、相手の女は、当の男たちが男性のなかに見出すのとほぼおなじものを彼らにあたえるのである。その結果、第二の男たちに嫉妬する人間は、自分にとってほとんど一人の男性にひとしい女のために、自分の愛する相手がーー第二の男たちがーー釘づけにされているのを感じると同時に、愛する相手がほとんど自分からのがれさってゆこうとしているのを感じて苦しむ、なぜなら、そんなとき、自分の愛する相手は、女たちとの関係のなかにひきこまれて、自分になじみのない何物か、つまり一種の女性になってしまっているからである。(「ソドムとゴモラ 一」井上究一郎訳)


ドゥルーズはこの文を『プルーストとシーニュ』で引用しているが、その前段にこう書かれる。

プルーストのトランスセクシュアリスムの根柢(……)。それは、二つのセリーが分離されたままで、男性が男性に、女性が女性に関係する、全面的で特殊な同性愛ではなく、局部的で非特殊的な同性愛である。この同性愛においては、男性は、女性の中にある男性的なものを求め、女性は、男性の中にある女性的なものを求めるのであって、そしてそれは、部分的事物としての、二つの性の区別された隣接性においてである。

そこから、プルーストが、全面的で特殊な同性愛に、この局部的で非特殊的な同性愛と対立させている、外見上はあいまいなテクストが由来する。( P152)

たしかに冒頭の文はいささか曖昧なテクストだが、プルーストの言わんとすること、とくに第二の男たちの嫉妬の例から、男女関係の複雑なありようが示唆される。

たとえば、一組の夫婦があるとする。だが場合によっては、夫の女性的な部分と妻の男性的な部分によって愛し合っている関係さえあり得るということになる。

ドゥルーズは、後に増補された『プルーストとシーニュ』の最終章「狂気の現存と機能ーークモーー」でも、次のように書いている(この書は二度の増補・改訂がある、Proust et les signes, Paris, PUF, 1éd., 1964 ; 2éd. , 1970 ; 3éd ., 1976 . )

それぞれの個人には二つの性があるが、しかしこの二つの性は《ひとつの仕切りによって分離されて》いる。そこでわれわれは八つの要素から成るあいまいな集合体を介入させなくてはならない。この集合体においては、ひとりの男または女の男性的な部分または女性的な部分が、別の男または女の女性的な部分または男性的な部分と関係を持つことができる(八つの要素に対する十の組み合わせ)。p211

《Chaque individu ayant les deux sexes, mais " séparés par une cloison», nous devons faire intervenir un en-semble nébuleux de huit éléments, où la partie mâle ou la partie femelle d'un homme ou d'une femme peu-vent entrer en rapport avec la partie femelle ou la partie mâle d'une autre femme ou d'un autre homme (dix combinaisolls pour les huit élémellts) 》


ここで八つの要素となっているが、実際は四つの要素の対関係によって八つとしているはずだ。そしてその組合せはたしかに十になる。

基本的な組み合わせは、

《ひとつの個体の男性的な部分または女性的な部分ーーもうひとつの個体の男性的な部分または女性的な部分》ということになる。

もちろんそこに男の男性的な部分と、もうひとりの男の男性的な部分(あるいは女性的な部分)等々の組み合わせも生れる。

Une combinaison élémentaire sera définie par la rencontre d'une partie mâle ou femelle d'un individu avee la partie mâle ou femelle d'un autre. On aura donc : p.m. d'un homme et p.f. d'une femme, mais aussi bien p.m. d'une femme et p.f. d'un homme, p.m. d'un homme et p.f. d'un autre homme, p.m. d'un homme et p.m. d'un autre homme ... , etc.

『アンチ・オイディプス』(1972)でも、次のように書かれた後、同じ冒頭の文が引用される。

《私たちは、統計学的あるいはモル的には異性愛者であるが、しかし、個々の人物としては、それと知らずに、あるいはそれと知りつつ同性愛者であり、根源的あるいは分子的には、結局<横断性愛者>である。だから、プルーストは、彼自身の解釈をオイディプス的に解釈することをすべて否認した最初のひとであり、みずから二つの型の同性愛を対立させている。あるいは、むしろ二つの領域というべきか。一方には、端的にオイディプス的、排他的、抑鬱的な領域、他方には、非オイディプス的な分裂気質の、包含され包含する領域がある。》(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』文庫 上p136)


…………

ところでラカンは「異性愛とは、女性を愛することである」としている(「ファルスの意味作用」まとめ)。

つまり女性が女性を愛するのは、同性愛ではない、ということだ。
そして男性が男性を愛することのみが同性愛ということになる。

たとえば、ミレールは次のように言う。
女性の同性愛 は、倒錯的満足の領野より、むしろ愛の領野に構成されています。("On Perversion", in Reading Seminar I and II, p.317)

だがプルースト=ドゥルーズのいうところを考慮するならば、外見上はごく平凡な男女の場合でも、「倒錯的な」組合せがありうるだろう。


ところで、ラカン派では、なぜ女性が女性を愛するのは倒錯ではないのかといえば、女性も最初の愛の対象は「母」だから、という説明がなされる。

The basic model of love should be sought not in the relationship between a man and a woman, but in the relationship between mother and child(Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe

以下、Paul Verhaegheの同じ書から、そのより詳しい説明箇所を附記しておこう。

Thus, this norm-al man is both phallocentrically and authority-oriented. He also assumes that this applies to women. However, the development of the girl takes a different direction. The first difference is that the boy, as a future man, can retain his first love object in terms of gender; he merely has to exchange it for another woman. This explains the curious fact that, after a while, many men adopt the same attitude to their wife as they originally had to their mother. In contrast, the girl has to change the gender of her love object. More specifically, she has to exchange her first love object, the mother, for her father. As a result of the first loving relationship, she still identifies with the mother and therefore hopes that she will be given the same love by the father as he gives to the mother. This explains the equally curious fact that many women become like their own mother once they have become a wife, and above all a mother, themselves. The most important effect of this change with regard to the object is that the girl will pay much more attention to the relationship itself, in contrast with the male preoccupation with the phallic aspect. The girl's lack of interest in the object and in the phallic aspect, and her emphasis on the relationship, may have the result that in later life her relationships do not have to be with a man. After all, her original object was also of the same gender, and during puberty the first love is almost always for another girl.
This difference is connected to the fact that within her Oedipal background, the woman must change the object of her love, in contrast to the man/son, who can retain his original choice. After all, for a daughter, her mother is also the first and exclusive love object, and she moves towards the father only during a second stage. This move is often only a displacement. The father may be in the foreground, but the figure of the mother (who retains her original importance) is there in the background. This is why lesbian relationships are not directly comparable to male homosexuality. As a result of her early experiences, a woman finds it much easier to adopt a bisexual position. She has already had both sexes as the object of her love, as well as a change of object from one to the other. In contrast, the choice of homosexuality for a man is a much greater step and it is therefore less easily reversible. The fact that, for a girl, the mother was also originally the first object of her love, and this object was exchanged for the father, means that the father was a 'second choice' for her any-way Consequently, any subsequent partner is at least a 'third choice'. The father as a representative of the law can therefore never have the same weight for a woman as for a man—certainly not when the daughter has in some way got wind of the way in which this representative of the law is sexually dependent on the mother.