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2013年11月14日木曜日

無邪気な「無神論者」

すべて趣味判断だよ
きみのもオレのも

たとえば、『純粋理性批判』や『実践理性批判』において、彼は経験的なものにもとづく「一般的な」規則に対して、普遍的な法則を求めている。では、科学認識や道徳にそれがあるが、芸術にはないということになるだろうか。否、美的判断において普遍性が疑わしいのであれば、他の領域においてもそうなのだ。少なくとも、カントはそこから出発した。彼の「批判」がラディカルなのは、とりあえずすべてを趣味判断において出会うような問題から考え直したということにあったのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』「カント的転回」P67)


ただし何度も引用するが
その趣味判断が通用するかどうかは
・その証人のあり方そのものが容認されていること
・あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるか
だけだね

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

もし何かを、あるいは誰かを批評(吟味)したいのなら
やるべきことは次のわかりやすい文につきる

現代の批評とは、少数の「本当に美しいもの、かっこいいもの、おしゃれなもの」を見抜くことではありません。現代の批評とは、或る対象の構造を分析し、対象がどのように価値づけられるかの可能性を多面的に考察することです。

現代の批評では、「本当にかっこいい、美しい、おしゃれなもの」を「真に」選択可能であるとは考えません。対象にプラスの価値を賦与するのは、特定の「文脈」(言い換えれば、評価者集団の慣習)です。なので、特定のものをこれこそ傑作と断言するのは、特定の価値観へのコミットでしかない。

特定の価値観をベストであると信じるのは「イデオロギー」です。私たちは特定のイデオロギーを必ず有するし、それをベースにして表現活動をしますが、しかし「批評」とは、特定のイデオロギーの主張ではない。批評は諸イデオロギーの「比較」を基本とします。イデオロギーの主張は「政治」です。(千葉雅也ツイート

《 批評の第一の役割は、作品の意味が生成される可能性を思い切り拡げることであり、それを閉ざすことではない。ところが、みんな、無意識に意味生成の場を狭めればそれが主体的だと思ってるんです。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』より)


あるいは形式的であること。

《だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。》(岡崎乾二郎)


これは決して「得体の知れないもの」を軽視しているのではなく、逆に得体の知れないものの「得体の知れなさ」を熟知しているからこその態度なのだ。「得体の知れないもの」の「得体の知れなさ」を固定化してそれにに溺れてしまうことは、その「得体の知れないもの」に触れている時の「経験」の本質を取り逃がしてしまうことでしかないのだ。《だからイメージに取り憑かれて、つまりそう見えてから分析をはじめていてはすでに手後れであると僕は思います。いわば、そう見えなかったものが、そう見えるようになったこの転換こそを、記憶術たらしめるいわば想起の問題として捉まえなければならないと思うのです。》(偽日記

いずれにせよ、
ただ「偉大」なんていってたら、
児戯に類するぜ
無邪気な「無神論者」かな
お互いさまだけどさ

「《思想》とか《内的構想》が書物に先立って、書物は単にそれを書き表すだけだ、と考える単純な先行論」の一般化された形式を、「イデアリズムと呼ばれる伝統批評」にほかならぬと彼(デリダ)は断じている(……)。だが、「神学」的たることをまぬがれぬこの「伝統批評」の観念論――そこには、私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」も含まれようーーは、彼にとって文学の批評の名に値するものとはいいがたい。なぜなら、それは「神学」的な解釈手段を無自覚に文学に適用したものでしかなく、そこには批評など成立しようもないからである。(蓮實重彦「「本質」、「宿命」、「起源」」)

《岡崎) どういうわけかわからないけれど、この私にだけ見えちゃったっていう人がいるわけね。あるいはそれによって事後的に私という主体性を支えている、そういう話になっちゃう。本人は、私が、とは主張していない。受動的であるかのように装ってしまう。》

ーーってとこまではいかないようにな

(共同討論)「モダニズム再考」 磯崎新、柄谷行人、浅田彰、岡崎乾二郎 『モダニズムのハード・コア』



……もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

「問い」にはいろいろな言葉が代入できるだろう

…………

・特定の価値観をベストであると信じるのは「イデオロギー」です

ーー趣味判断、すなわち価値観のひとつだよな

・イデオロギーの主張は「政治」です

ーー「政治」は、バルトの言い方なら「横柄」ってわけさ

「支配的なイデオロギー」というのは、きわめて有効な言いかたではない。それは剰語法だからだ。すなわちイデオロギーとは、ある観念が他を支配しようとしている場合の呼び名以外の何ものでもない。しかし私としては、自己流に表現を積み上げ、《横柄なイデオロギー》、と言ってもいいと思う。(『彼自身によるロラン・バルト』)

イデオロギーはドクサでもいい

反作用〔反応〕による形成。あるひとつの《ドクサ》(世間の通念)を提示してみて、さて、それが耐えがたいものだとする。私はそれからそのれるために、ひとつのパラドクサ〔逆説〕を要請する。次には、その逆説にべたべたした汚れがついて、それ自体が新しい凝結物、新しい《ドクサ》となる。そこで私はもっと遠くまで新しい逆説を探しに行かざるをえなくなる。(同『彼自身』)

反復的な病気(症候)であることさえわかってたらいいさ

いまのきみの、あるいはオレの趣味判断が
普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ていたら