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2013年11月30日土曜日

妙に気を使い合う「実名者」たち

週刊誌ブームが、現代日本文化の一種の病気であると考えるのは勝手であろうが、それが、ただ医者の見立てでは詰まらない。自ら患者になって、はっきりした病識を得てみなくては詰まらない。批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。医者が患者に質問する、一体、何処が、どんな具合に痛いのか。大概の患者は、どう返事しても、直ぐ何と拙い返事をしたものだと思うだろう。(……)私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用する事にしている。(小林秀雄「読者」)

少し前にも何気なく引用したのだが、この小林秀雄の言葉をもう少し考えてみよう。

《批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きている》、とある。これを患者ではない批評など信用するに当らぬ、というふうに読みたい誘惑にかられる。たとえば蓮實重彦は柄谷行人との対談集『闘争のエチカ』で、次のように語っている。

自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない

あるいは柄谷行人の『トランスクリティーク』冒頭の「序文」にはこうある。
私がなそうとしたのは、カントとマルクスに共通する「批判(批評)」の意味を取り戻すことである。いうまでもなく、「批判」とは相手を非難することではなく、吟味であり、むしろ自己吟味である。(柄谷行人『トランスクリティーク』「序文」)

そもそもカント的なアンチノミーの指摘を持ち出すまでもなく、批判している対象と異質な地平に立つことなどできはしない。

われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている。(柄谷行人『トランスクリティーク』--「人間的主観性のパラドックス」覚書より)

だが、ここでは馴れぬ哲学的な話は脇にやり、冒頭の小林秀雄にもどれば、「批評精神とは患者の側に生きる」とは、柄谷行人のいうカントとマルクスに共通する考え方、「批評とは自己吟味である」こととしてよいだろう。

他方、逆に、相手を非難する「批判」とか、批判している対象と異質な地平に立ったような批評でも、そのすべてではないにしろ、実は己れを語っているというふうに見ることができる。少なくともそういったふうに他者非難の言葉を読んでみることもときには必要であろう。

プルーストにはこのあたりのことを指摘する文章がいくらでもある。
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト『囚われの女』井上究一郎訳)

つまるところ、自分がもっているものと、あるいはもっていたものと、とてもよく似た欠点が他人にあるので、それによく気づき非難のことばが生まれる、あるいはそういった場合が多いということだ。そうでなかった場合、そんな欠点に気がつくことは少なく、嫌悪感も生まれにくいのではないか。

……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。近視の男は他人の近視のことをこういう、「だってあれはほとんど目があけられないくらいですよ。」胸部疾患の人間は、この上もなく頑丈な人間の健康な肺臓にも種々の疑念をもつし、不潔な男は、他人がお湯や水を浴びないことばかりを口にするし、悪臭を放つ人間は、誰でもいやな匂がすると言いはる、だまされた亭主は、いたるところにだまされた亭主たちを、浮気な女房はいたるところに浮気な女房たちを、スノッブはいたるところにスノッブたちを見出す。それからまた、各自の悪徳は、それぞれの職業とおなじように、専門の知識を要求し、それをひろくきわめさせる、各自はそんな知識を得々と人まえで弁じたてずにはいられない。倒錯者は倒錯者たちを嗅ぎだし、社交界に招かれたデザイナーは、まだこちらと話をまじえないのに、もうこちらの服地に目をつけ、その指は生地のよしあしをさわってみたくていらいらしているし、歯科医を訪ねて、しばらく話をまじえたのちに、こちらについて忌憚のない意見をきいてみると、彼はこちらの虫歯の数をいうだろう。彼にはこれよりも重大に見えることはないのだが、そういう彼自身の虫歯に気がついたこちらにとっては、これほどこっけいなことはない。そして、われわれが他人を盲目だと思うのは、われわれが自分のことを話しているときばかりではない。われわれはいつも他人が盲目であるかのようにふるまっている。われわれには、一人一人に、特別の神がついていて、その神が、われわれの欠点にかくれ蓑をかけてわれわれからかくし、他人には見えないという保証をしてくれているのであって、同様に、その神は、からだを洗わない人々にたいして、耳にためた垢の筋や、腋の下から発する汗の匂に、目をとじ鼻腔をふさがせ、誰もそれと気づかないであろう社交界へ、それぞれその垢の筋や汗の匂をもちこんでも平気だという確信をあたえるのだ。そしてイミテーションの真珠を身につけたり、贈物にしたりする人は、それがほんものに見られるだろうと想像するのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」 第二部井上究一郎訳)

 そしてこれらのことは優れた人間でも凡庸な人間でも変わりがない、とプルーストは書く。

性格の法則を研究する場合でさえ、われわれはまじめな人間を選んでも、浮薄な人間を選んでも、べつに変わりなく性格の法則を研究できるのだ、あたかも解剖学教室の助手が、ばかな人間の屍体についても、才能ある人間の屍体についても、おなじように解剖学の法則を研究できるように。つまり精神を支配する大法則は、血液の循環または腎臓の排泄の法則とおなじく、個人の知的価値によって異なることはほとんどないのである。(プルースト「見出された時」)

もちろん、これは広い意味での「心理学」の領域の話なので、たとえばフロイトにもふんだんにこの類の指摘はある。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))

ようするにラカン派的な言葉づかいをすれば、《自分の欲望についての真理を隠すために》他者非難をするのだ。

他方、フロイトは、「自己非難」についても、次のような逆転を書く。

メランコリー患者のさまざまな自責の訴えを根気よくきいていると、しまいには、この訴えのうちでいちばん強いものは、自分自身にあてはまるものは少なく、患者が愛しているか、かつて愛したか、あるいは愛さねばならぬ他の人に、わずかの修正を加えれば、あてはまるものであるという印象をうけないではいられない。事態をしらべればしらべるほど、この推測は確かなものになる。このように、自己非難とは愛する対象に向けられた非難が方向を変えて自分自身の自我に反転したものだと見れば、病像を理解する鍵を手にいれたことになる。

夫に同情して、自分のような働きのない女と一緒になったのは気の毒であると口に出して言う妻は、どのような意味で言っているにせよ、実は夫の働きのないことを訴えているのである。(……)言葉の古い意味にしたがえば、彼らの訴えは告訴なのである。彼らが自分について言っている軽蔑の言葉は、根本的には他人について言っているのだから、彼らはそれを恥じたり、かくしたりしないわけである。また、実際に品性下劣な者だけにふさわしいはずの卑下や屈従を、周囲の人に見せることをしないで、きわめてはげしく苦しみ、たえず悩み、ひどく不当な目にあっているかのようにふるまうわけである。これらすべてのことは、彼らの態度に見られる反応が反逆という精神的姿勢から発しているからこそ可能なのであって、この反逆がある過程によってメランコリーの後悔というものに移行するのである。(フロイト『悲哀とメランコリー』 フロイト著作集6)

この二つの機制は、ドゥルーズがニーチェのルサンチマン(怨恨)を語るときの二つの「投射」でもあるだろう。

怨恨。おまえが悪い、おまえのせいだ……。投射的な非難と不平。私が弱く、不幸なのはおまえのせいだ。反動的な生は能動的な諸力を避けようとする。反動的な作用は、「動かされる」ことをやめ、感じ取られたなにものかとなる。すなわち能動的なものに敵対して働く「反感=怨恨」となる。それでひとは能動に「恥」をかかせようとする。生それ自身が非難され、その<力>から分離され、それが可能なことから切り離される。小羊はこう呟くのである。「私だって鷲がするようなことはなんでも、やろうと思えばできるはずだ。それなのに私は感心にも自分でそんなことはしないようにしている、だから鷲も私と同じようにしてもらいたい……」。(ドゥルーズ『ニーチェ』)
疚しい心。私が悪い、私のせいだ……。内向投射のモメント。反動的な諸力は、ちょうど魚を釣り針に掛けるようにうまく生を罠に掛けたあとで、それ自身へと戻ることができる。それら諸力は過ちを内面化し、自分が罪深いのだと言い、自分自身に敵対する。だがそうすることで、反動的な諸力は模範を与えるのであり、生が全体として反動的な諸力と結びつき、一体化するよう促すのである。そうやって反動的な諸力は最大限の伝染力を獲得する。そしてさまざまな反動的な共同体を形成するのである。(同上)

ただし現在、後者の「自己非難」や「内向投射」は少なくなってきている、という指摘が中井久夫にある。

1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離(斉藤/中井/浅田)

これは、一般には「大文字の他者」の凋落、父なき時代にかかわるとされるが、今はそれについては触れない。簡単にいえば、フーコー/ドゥルーズの「ディシプリンの社会」から「コントロールの社会」への移行ということでもあろう。

中井久夫の指摘する文から自罰的/他罰的という二項対立だけを捉えれば、後者の他罰的が現代の特徴だということになる。インターネット上には匿名者のルサンチマンによる発話が跳梁跋扈しているには相違ない。だがプルーストやフロイトの指摘で面白いのは、その匿名者を厳しく非難する実名者の言葉そのものさえ、自己を語る遠まわしの方法ではないか、と疑ってみる必要があるということだ。

ニーチェなら、すべての意見はひとつの隠れ家であり仮面である、という。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。(……)すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。(ニーチェ『善悪の彼岸』289番)

そもそも「正義」の言説とは、フロイトによれば、次のようなことだ。

社会的公正の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等の要求こそ社会的良心と義務感の根元である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考えている。われわれがもっていない物をもち、それを楽しんでいる人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に楽しんでいる人を抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

ルサンチマンの発話者への非難は、それを楽しんでいる人びとへの羨望でもあり得るのだろう、たとえば抗議や嘲弄が立場上できない人の。

抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)

もっとも、わたくしはネット上の攻撃的な発言を擁護するつもりはさらさらない。

個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている。(内田樹「ネット上の発言の劣化について」)

だがそれなりに地位のあるひとからさえ、次のような発話が生まれるのは、なにか鬱憤が溜まっているのではないかとは疑わざるをえない(関東エリアにある国立大学の准教授のツイッター上の発言5/27

・外野でシニカルに構えて、何かを言ったふりだけする奴ら。本当にどうにかならんもんかなと思う。しかも、ほとんどが匿名。自分をリスクにさらす勇気もない連中が、誰ひとりとして取り組んだことのないことにトライする人たちの試みを、斜に構えて眺めている。

・この国のシニシズムは、本当に病根が深いと思う。


だれでも、「あの野郎、とんでみない奴だ」、と思うことはあるだろう。それは上の発言では「匿名者」に向けられているが、実名であるために(つまり自分をリスクにさらしているがゆえに)言いたいことが言えない状況に陥ってはいないか。

たとえば2011年の春の事故からしばらくたって、大学当局が「早野黙れ」という情報統制の指示を出していたことが明らかになった。現在、戦前の「内務省」設置法案に反対している良識ある研究者たちは、では、当時なぜ大学当局の情報統制に大して憤りもみせず、遣り過してしまったのだろう。自分をリスクにさらして職場で居心地が悪くなったり、究極的には職を失うのを怖れたためではないか。

今まで、あまり喋ったことのない秘密を少し話しますと、やはり私たちは組織に属している人間なので、喋っていいことといけないことがあるかということで、東京大学が次画像のような通知を出しました。要するに「大学本部が仕切るので、個々の教員は勝手なことを言うな」という通知です。私は直接、大学本部から「早野黙れ」と言われました。そこで理学部長などとも少し相談して、黙らないことにしました。(大学本部から「早野黙れ」と言われたが

現在政府の法律に強い反発表明をしている「良識」ある研究者や学者たちは、当時これを社会と文化への脅威として、すくなくとも表立っては憤ることがたいしてなかったのはなぜなのか。ひょっとして、あそこで教職員のデモなりボイコット運動なりの抗議があったら、いまの法案の設立にさえわずかにしろ影響を与えることができたのではないか。

「現実主義でいこう、われわれ左翼学者は、体制が与えてくれる特権をすべて享受しながら、外面的には批判的でありたいのだ。そのために、体制に対して不可能な要求をなげつけよう。そうした要求がみたされないことは、みな分っている。つまり、実際には何も変わらず、われわれがこれまで通り特権化されたままでいられることは確かなのだ」(ジジェク『信じるということ』)

まあしかしながら、過去のことはこの際どうでもよろしい。肝腎なのは今どうするかだ、外面的には批判的でありたいだけではないなら。

…………

カントは理性の「公的使用」と「私的使用」についてこう書いている。

自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、---公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。

(中略)しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員――それどころか世界公民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向かって、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差支えないのである。(カント 『啓蒙とは何か』)

柄谷行人は、その『トランスクリティーク』において上記の文を引用して次のように書く。

通常、パブリックは、私的なものに対し、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。この転回は、たんに公共的なものの優位をいったことにではなく、パブリックの意味を変えてしまったことにあるのだ。パブリックであること=世界公民的であることは、共同体の中ではむしろ、たんに個人的であることとしか見えない。そして、そこでは個人的なものは私的であると見なされる。なぜなら、それは公共的合意に反するからだ。しかし、カントの考えでは、そのように個人的であることがパブリックなのである。(p155~)


公民としてある地位もしくは公職に任ぜられていることに囚われた発話は、カント的には理性の私的使用なのだ。

そして立場上(つまり、公民としてある地位もしくは公職に任ぜられていることにより)、自由に理性の公的使用ができない鬱憤、そのルサンチマンが、「匿名」批判に向けられているということはないだろうか。もっとも、くり返せば、現在ネット上に席巻する匿名者の発言の質の劣化、その非論理性、その攻撃性を擁護するつもりは毛筋ほどもない。

「●●が■■で××の件wwwww」とか「これがあれwwワロタwww」とか書いておけば、すべて2ちゃんねる風になるんだな。

「●●が■■で××の件wwwww」とかいう表現形式によって内容関係なしに伝わる、あの独特の「おれ本当は弱いんだけど、おまえらのことバカにしてるってあえて表明しとくわ、あ、責任は取らないしマジで抗議されたら逃げるけどなw」感をなんと表現したらいいんだろうな。

というか、そんな卑怯で醜い負け犬の遠吠え的表現がこんなに一般化しちゃった日本って大丈夫なのかと心配になる。(東浩紀ツイート)


ただし実名者たちには、次のようなことがあるのだろう。

最近ネットなどを見ていると、妙に気を使い合ったりして、あまり人の名前を出して批判したりはしない。他方、批判が一回出てしまうと、それが非難の応酬に繋がってあっという間に絶縁、といった、狭い所でお友達どうし傷つけ合わないようにという感じになっている。 しかし、コミュニケ-ションは常にディスコミュニケーションを含むし、議論は常に相互批判を含むから、それができにくくなっているとしたら忌々しき事態。人格・個人に対する批判ではないという前提で、相互に攻撃すればいい。ある程度けんかしなければお互い成長はしない。けんかするとお互い傷つくが、傷だらけでなんとかやっていくのが社会。別に仲良くやっていく必要はない。けんかし、けんかした上で共存していくというのが重要だ、ということは知っておくべき。(浅田彰「「知とは何か・学ぶとは何か」

要するに、ある論点を批判しても、それが人格批判としてみられてしまって、理性の公的使用がしにくくなっているのではないか。ツイッターが流行しだした当初には批判の応酬がそれなりにあったのだが、今では互いに妙に気を使い合っている現象があきらかに窺われる。そして実名者の建て前でしかない発言と匿名者の本音ばかりが蔓延る。

建て前、すなわち、次のようなたぐいの発話として勘繰らざるをえない言葉ばかりが少なくともツイッター上では目につく。
学問の世界で、同僚の話がつまらなかったり退屈だったりしたときの、礼儀正しい反応の仕方は「面白かった」と言うことである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

立場上、あるいは友人関係などで、理性の私的使用しかできないのは、やむえない面があるのを否定するものではない。だが、たとえば今年になってドゥルーズの研究者による評判の高い書物が何冊か上梓されているが、われわれの知りたいのは彼らの仲良しぶりではなく、どこに論点の違いがあるのか、「相互に攻撃」する箇所があるに違いないのに、それはほどんどなされない(すくなくとも私のすくない見聞では)。お互いのよい箇所だけを褒め合いましょう、ドゥルーズにはいろいろな面があるのだから、という群れのなかの相似形の疑似対話・批評の如きものしかない。たとえば短い紹介書評だからやむえないのかもしれないが、「「いい加減」な生の姿を記述」などという文はほとんど何も言っていないにひとしいようにわたくしには感じられてしまう。

わずかに次のような発言が遠まわしに年輩のドゥルーズ研究者からあるだけだ(もっともこれもわたくしの寡聞によることだけなのかも知れないが)。

@kumatarouguma: ドゥルーズを読んで政治を語りたがる人間は、あらゆる批判、反省、省察は何もの意味もなさない、すべて新しいものはいいものである、それだけがまともな世界をつくることができるという、そういう言葉にこめられた絶望と凄みを実践的に考えるべきだとおもうけどね。他人を批判する人間のほぼ99%はただのルサンチマンで怨恨、こんなもので政治と正義を語ったと気取っている連中が「権力」なぞににぎったらどういう連中になるか容易に想像ができる。本当に最低の社会になるぜ。

@kumatarouguma: 吉本が天皇制を語るときに記紀から読まない左翼なんか相手にしないように、彼が徹底して良心左翼を批判することでしか左翼について何かをつくることができないといいつづけたように、きちんとものを考える人間ていないのかね。無能な連中ばかりだね。自分の無能は差し置いていますがすみません。

われわれの知りたいのは、1%の人物たちの「相互攻撃」による論点の明確化であろう。

立場上できないのなら、むしろ、かつて中井久夫が楡林達夫という変名を使ったような理性の公的使用による批判だ。むしろ「精神の健康のために」(ニーチェ)匿名や偽名で語るべきなのではないか。
楡林達夫が誰であるかは絶対に知られてはならない。ぼくの大学も。大学がわかったら、ああ、あれは○○大学のことさ、で片づけられてしまうだろう。抵抗的医師とは何か


最後にサドとともに、「提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり学者どもに災いあれ!」としておこう。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう)。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)
現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳)