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2013年11月19日火曜日

備忘:軍部の周旋による北京の旅館風の女郎屋(荷風)

昭和十三年戊寅  荷風散人年六十

八月八日。立秋。午後土州橋に行き薬価を払ふ。水天宮裏の待合叶家を訪ふ。主婦語りていふ。今春軍部の人の勧めにより北京に料理屋兼旅館を開くつもりにて一個月あまり彼地に往き、帰り来りて売春婦三、四十名を募集せしが、妙齢の女来らず。かつまた北京にて陸軍将校の遊び所をつくるには、女の前借金を算入せず、家屋その他の費用のみにて少くとも二万円を要す。軍部にては一万円位は融通してやるから是非とも若き士官を相手にする女を募集せよといはれたれど、北支の気候余りに悪しき故辞退したり。北京にて旅館風の女郎屋を開くため、軍部の役人の周旋にて家屋を見に行きしところは、旧二十九軍将校の宿泊せし家なりし由。主婦はなほ売春婦を送る事につき、軍部と内地警察署との聯絡その他の事をかたりぬ。(以下三行抹消)世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏地を閉鎖すべしと言ひながら戦地には盛に娼婦を送り出さんとす。軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし(以上行間補)。

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慰安婦は公娼制度の延長線上で誕生した。平時に娼婦や抱え主を監督し、指導していたのは警察だったが、戦地ではその役割を軍が担当したのである。(秦郁彦「歪められた私の論旨」『文芸春秋』1996.