他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見る事は淋しかつた。(志賀直哉「城の埼にて」)
とありますが、初心の者にはなかなかこうは引き締められない。
日が暮れると、他の蜂は皆巣に入って仕舞って、その死骸だけが冷たい瓦の上に一つ残って居たが、それを見ると淋しかった。
と云う風になりたがる。それを、もうこれ以上圧縮出来ないと云う所まで引き締めて、ようやく前のようなセンテンスになるのであります。(谷崎潤一郎『文章読本』)
上に引かれた段落の前には、《それを刷ってある活字面が実に鮮やかに見える》として志賀直哉の見事なお手本を繰り返し玩味すべきとされ、その圧縮した文章、すこしの無駄もないものを作り出す工夫が絶賛されている。そして、かくの如き文を生み出すには、《センテンスの構造や言葉の順序を取り変えたり、全然用語を改めたりする必要》も起る云々、と書かれた直後にあらわれる。しばしば名文を褒めるときに、字面が立ち上がっているなどと云われることがあるが、それを言い表わす代表的な文章のひとつとしてよい。
もっとも、流麗な文(和文調)と簡潔な文(漢文調)――源氏物語派と非源氏物語派――に分けて文章の美を説く箇所でもあり、谷崎潤一郎自身は流麗な調子を好み、《この調子の文章を書く人は、一語一語の印象が際立つことを嫌います》とされる。他方、志賀直哉の文が一語一語が際立つ簡潔な名文の代表とされて上のように書かれているわけだ。
ところで文章の作法の教えのひとつとして「五石六鷁〔ゴセキロッゲキ〕の作法」というものがある。『春秋』の注釈書『公羊伝』による教えであって、中井久夫は日本語の作法として格別に肝要だとしている。さて、志賀直哉の上の文には「五石六鷁」の形跡はあるのだろうか、と思いを馳せてみる。
◆中井久夫「一つの日本語観ーー連歌論の序章としてーー」より(『記憶の肖像』所収)。
日本語が論理的に曖昧であるという声が内外にある。どんな言語でも曖昧な文は作ろうとすればできる。英語でも、受身にすれば、主語を回避できるし、実際、日常なされていることである。しかし、日本語が曖昧であるという印象の根拠で、われわれの問題と関連して注目する価値のあることが二つあると私は思う。自然な、よい日本語とそうでない日本語の区別は、主にこの二つをどうするかにある。
一つは、未知を既知に繰り込んでゆく順序の自然さの如何である。この点に関してのよい教えを、私は、日本語作法の本ではなく、中国古典『春秋』について周末から漢初にかけて書かれた注釈『公羊伝』に見出す(竹内照夫『四書五経』より引用)。
僖公十有六年。春、王正月戊申、朔、隕石于宋、五。是月、六鷁退飛過宋都。
(春、王の正月戊申、朔、宋に隕石あり、五つ。是月、六鷁退飛して宋の都を過ぐ)
公羊伝は「なぜ、まず隕といい、次に石というか。隕石とは記聞(聞こえたことの記録)である。まず何かが隕〔お〕ちた音が聞こえる。次に調べてみると石と知る。次に数えてみると五つである。だから隕石……五という文になるわけだ。……なぜまず六といい、次に鷁〔ゲキ〕というか。六鷁退飛とは記見(見えたことの記録)である。まず何かが飛んでいるのが見える、六つである。よく見ると鷁という鳥である。なおもよく見ると後方へ飛びしさってゆく(「退飛」とは強風のため鳥が頭の向きとは反対の方向へ吹き戻されながら飛んで行くこと)。だから六鷁退飛……という文になるわけだ」と説き、春秋の文は、……論理や文法の上でも記事文一般にとって模範とすべき表現法を有するもの、と見ている。……穀梁伝も同じで、次のように説いている、「隕を先に石を後に書くのは、隕ちた物があって、次に石と知るからである。……君子は隕石や鷁飛などの事件にすら、その書法をおろそかにしない。ましてや人事に関して謹厳なるべきこと、論をまたない。すなわち、五石六鷁の記事文を厳正にすることも、また、王道を盛んにする一法なのである」。
私は日本語の作文には「五石六鷁の作法」が重要であると思っている。日本語発話の状況依存性と既知メッセージ省略の大きさを考慮すれば、この作法は特別の考慮に値する。この作法は、物事を認知する順序であるから、当然、イメージが聞き手に自然に浮かぶような順序となる。おそらく、日本語の発話においては、未知を順々に既知へと繰り込む際、「五石六鷁の作法」によって次第に眼の前が開けてくるような快い感覚を与えるものが、よい質の発話と感じられるのであろう。日本語の発話においてイメージは無視できない要素である。必ずしも視覚イメージばかりでなくーー。
この後、「第二は」、と続き「時枝の風呂敷」をめぐって書かれるがここでは割愛する。
さて、《他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見る事は淋しかつた》である。
《他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた日暮》において、日暮が先の印象ではあるまい。同時、もしくは《他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた》のにまず心眼が向かい、そこで「ああ、もう夕暮れだな」という感慨が生れたとするのなら、「五石六鷁の作法」に適う。《日が暮れると、他の蜂は皆巣に入って仕舞って……》とされては、未知を既知に繰り込んでゆく順序の自然さは劣る。
夕暮れとなり、日中、陽に照らされていた瓦は冷え冷えとして見える。これも印象の順序に書かれている。そこでの《冷たい瓦の上に一つ残つた死骸》なのであって、あらためて冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見遣る事で、《淋しかつた》のであれば、これも「五石六鷁の作法」に適う。《その死骸だけが冷たい瓦の上に一つ残って居た》の文のように「冷たい瓦」がうしろに来てしまえば、感覚の印象の順序が守られていない(ここはいささか強引かもしれない。「……とも解釈できる」としておこう。「一つ残つた死骸」が先にきても違和はすくないが、「日暮れ」→「冷たい」と続くほうが物事を認知する順序としては好ましく感じる)。
一般には、電車に跳ねられた事故の療養のために温泉宿にひとり淋しく過ごす志賀氏の心境が二重写しになっている、と解釈される箇所であり、上の「五石六鷁の作法」の解釈はいささか牽強附会気味かもしれないが、谷崎潤一郎が初心者がやり勝ちな、として冗長に書き換える二番目の文よりは、志賀直哉原文のほうが、明らかに「五石六鷁の作法」に適っているという風に言えるには相違ない。
志賀の文が常に「五石六鷁の作法」に従っているわけではないだろう。だが彼の一読なんの変哲のないような文章までがときおり思いがけず後々まで印象に残っていることがあるのは、その簡潔な美以外に、未知を既知に繰り込んでゆく順序の自然さに負うところが大きいのではないか、--そういった観点で読み直してみる価値はありそうだ。
以下はしばしば引用される有名な箇所である。
踏切りの所まで来ると白い鳩が一羽線路の中を首を動かしながら歩いていた。私は立ち留ってぼんやりそれを見ていた。「汽車が来るとあぶない」というような事を考えていた。それが鳩があぶないのか自分があぶないのかはっきりしなかった。然し鳩があぶない事はないと気がついた。自分も線路の外にいるのだから、あぶない事はないと思った。そして私は踏切りを越えて町の方へ歩いて行った。
「自殺はしないぞ」私はこんな事を考えていた。(『児を盗む話』)
Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水に遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面に結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った。Kさんが後に残ったおき火を櫂で上手に水を撥ねかえして消してしまった。
舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかかっていた。舟は小鳥島を回って、神社の森の方へ静かに滑って行った。梟の声がだんだん遠くなった。(志賀直哉『焚火』)
すくなくともこの『焚火』のふたつの段落に於て「五石六鷁の作法」の実践、つまり、感覚の印象の順、物事を認知する順序に書かれていることは瞭然としている。
ところで中井久夫には、上に引用された『焚火』の箇所を想起せざるをえない圧縮された・無駄のない文がある。
岐阜の長良川の鵜飼の火。夏の湿った夜気。暗闇ににじむ焔の船が近づいてくる。小さく、あくまで小さく。時に燃え上がる。火の粉が散る。焔の反映は左右に流れて、水面にこぼした光のインクの一滴だ。(中井久夫「焔とこころ、炎と人類」『日時計の影』所収)
ーー倒置法が使われている箇所(「小さく、あくまで小さく」)を除いては、未知を既知に繰り込んでゆく順序の自然さがあるとしてよいだろう。
…………
小林秀雄は昭和四年に次のように書いている(谷崎潤一郎の『文章読本』は昭和九年)。
なるほど志賀氏の文体は直裁精確であるが、それはある種の最上の表現がそうであるように直裁精確であるにすぎないので、ここに氏の細骨鏤骨の跡を辿ろうとし、鑿々たる鏨の音を聞こうとするのはおそらく誤まりだ。(小林秀雄『志賀直哉』)
小林秀雄は志賀直哉の文章に《細骨鏤骨の跡を辿ろうとし、鑿々たる鏨の音を聞こうとするのはおそらく誤まりだ》--つまり、彫琢の跡などを探し辛い、としているわけだ。
もっとも今では草稿と定稿の比較研究もあってそれなりの推敲がなされているのが知られている。たとえばインターネット上にある「志賀直哉における「自分」の一人称代名詞用法について]」(金,晶)という論文をみればそのことは自ずと知れる。この論文は志賀直哉の文章の特徴のひとつである、再帰代名詞としての「自分」ではなく、主格としての「自分」の用法を分析する目的で書かれているのだがーーたしかに「私」が使われる場合と「自分」が使われる場合とどう違うのか、は翻訳者の方であれば苦労されるのだろうーー、それを検討するなか、草稿と決定稿との比較がなされている。
上の「彫琢の跡などを探し辛い」と読める文は、小林秀雄一流のレトリックとして取り扱うべきであり、小林の言いたい肝腎な事は次に続いて書かれる志賀直哉の《物を見るのに、どんな角度から眺めるかということを必要としない眼》であろう。
私はいわゆる慧眼というものを恐れない。ある眼があるものをただ一つの側からしか眺められない処を、さまざまな角度から眺められる眼がある、そういう眼を世人は慧眼と言っている。つまり恐ろしくわかりのいい眼を言うのであるが、わかりがいいなどという容易な人間能力なら、私だって持っている。私は慧眼に眺められてまごついたことはない。慧眼のできることはせいぜい私の虚言を見抜くくらいが関の山である。私に恐ろしいのは決して見ようとはしないで見ている眼である。物を見るのに、どんな角度から眺めるかということを必要としない眼、吾々がその眼の視点の自由度を定めることができない態の眼である。志賀氏の全作の底に光る眼はそういう眼なのである。(小林秀雄『志賀直哉』)
…………
最後に、中井久夫が「五石六鷁の作法」を説く小論「一つの日本語観」は、「連歌論の序章として」という副題をもっており、連歌の「五石六鷁」に触れた箇所を抜き出しておこう。
連歌について私の言わんとすることはすでに明らかであろう。これは全体の意味が存在しない詩という点で特異でもあり、複数で作るという意味でも稀な詩形式である。
雪ながら山もとかすむ水無瀬かな
ゆく水とほく梅にほふ里
川風に一むら柳春みえて
舟さす音もしるき明け方
月やなお霧渡る夜に残るらむ
霜おく野原秋は暮れけり
…………
連歌にうとい私もこの「詩」とその接触の美学を味わいうる。外国語に訳せないなどとくだらぬことは言うまい。連歌を高く評価しているのは、とりわけドナルド・キーンの日本文学史である。この六番の間にも季節は第四番を介して、春から秋へ転換している。この六番が非常に鮮明に視覚的であるのは、まず、さきの五石六鷁の作法にかなっているからである。そして、焦点がソフトになったりシャープになり、距離が遠ざかり近づく(第四番だけ聴覚が前景に出ており、これが舞台まわしをつとめている)。地表の人工衛星写真がフィルムの感光特性によってさまざまな影像を与えるように、ここでフィルム特性をかえれば、まだまだいろいろな映像が得られる。たとえば音の分析である。背景に共有されている文化である。具体的には王朝の名歌のかずかずである。われわれには、作者が知らなかった味わい方もできる。これらに触発された俳諧である。蕪村と芭蕉がすでに顔をのぞかせているのではないか。
※引用されている連歌はもちろん「水無瀬三吟百韻」から。
…………
上の文を読み返してみれば、谷崎、志賀、小林、中井各氏の文の、なんという優れて簡潔なひきしまり具合よ、それに引きかえ、オレの書いた文の冗長さ、その憐れなさま。
これでもすこしは書き直したんだがね、やりだしたら全部変えたくなるんだよな、そしていじくっているうちに文章がかたくなってきたり、枯れてきたりで……マイッタネ