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2013年11月9日土曜日

装われた洒脱さ

佐藤氏は芥川氏を窮屈なチョッキがぬげぬ人と評したが、芥川氏は佐藤氏を、あんまり浴衣がけだと評したそうだ。僕としては佐藤氏の浴衣がけにしばしば涼風が訪れたとは信じないのである。(小林秀雄「佐藤春夫論」『作家の顔』所収)

わかるかい、この感じ? 
誤読かもしれないがね、たぶんこうだね
洒脱さを装って「オレ」などという一人称単数を使う奴がいるだろ?
おそらくそういった手合いのことだな
ここにもいるぜ

柄にも似合わず鹿爪らしい文章書いていて
それに照れくさくなり一息いれるために
「オレ」とするのだが
オレという浴衣はたいして涼しくないんだよな
修業が足りないね

いまさら江戸っ子風の粋な石川淳の文体模倣してもラチが明かないからな

久保田さん。久保勘さんのむすこさんの、ぶしつけながら、久保万さん。御當人のちかごろの句に、湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。その豆腐に、これもお好みのトンカツ一丁。酒はけつかうそれでいける。もとより仕事はいける。ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない。元来さういふ気合のひとであつた。この気合すなわちエネルギーの使ひ方はハイカラといふものである。(石川淳「わが万太郎」『夷斎小識』所収)

《日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。》(加藤周一『日本文学史序説』)

ーーところで石川淳の浴衣がけは涼しそうかね?
それだって疑わなくちゃあいけない


セリーヌの文体は、「激しく下品で汚い言葉、破綻した文法、ありえない文体…」などとされるが、下品な言葉でなくても、突如、日常語が混じりこんでくるときのあの驚き、ーー《私ばっかり、歴史家ばっかり、継ぎ接ぎやっちゃいけないってのか?》(セリーヌ『北』)。

ってな具合には石川淳でもなかなかいかないのさ

いずれにせよそのあたりにいる修業の足りない手合いには

「おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい
人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで
洒脱さを気取った浴衣姿で余裕たっぷりのふりして」

って皮肉ってやらないとな

もっと滲まなくちゃ




もっと滲んで  谷川俊太郎

そんなに笑いながら喋らないでほしいなと僕は思う
こいつは若いころはこんなに笑わなかった
たまに笑ってくれると嬉しかったもんだ

おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい
人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで
いい仕立てのスーツで輪郭もくっきり

昔おまえはもっと滲んでいたよ
雨降りの午後なんかぼうっとかすんでいた
分からないことがいっぱいあるってことがよく分かった

今おまえは応えてばかりいる
取り囲む人々への善意に満ちて
少しばかり傲慢に笑いながら

おまえはいつの間にか愛想のいい本になった
みんな我勝ちにおまえを読もうとする
でもそこには精密な言葉しかないんだ

青空にも夜の闇にも愛にも犯されず
いつか無数の管で医療機械につながれて
おまえはこの文明の輝かしい部分品のひとつとなるだろう


          (『世間知ラズ』より)