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2013年11月15日金曜日

11月15日

……君の文章に対する駁論を書く様に二三の雑誌に頼まれたが、気が進まぬのでみな断わって了った。言葉の上の弁明や揚足取りになる事を恐れたからである。君の文章はこんどのもかなり苛立たしいもので、その苛立たしさにつけ込んで、抜け眼なく噛みつくことはやさしい。しかしそんな事をしたって何になろう。いずれは君という人間と僕という人間の間に、無用な障害物を重ね上げるに過ぎまい。(小林秀雄「中野重治君へ」)

そうだな
たまたま小林秀雄を読んでいるのでね
きみの抗議に「抜け眼なく噛みつくことはやさしい」とでも言っておこう


オレはドゥルーズの「友情」の扱いってのを
たいして知っているわけじゃあないよ
『プルーストとシーニュ』を読んだだけでね
迷訳の誉れ高い和訳でさ
作家の「孤独」ってのは耳半分で聞かなくちゃいけない
ってのも分ってるさ

創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて」)

ここに「無私な友情」ってあるけどね
「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人とも
だけれどもこれは本当に「友情」なのかってことだ
「愛」のことじゃないか

人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。愛と性とを結び付けすぎているからではないか。愛は必ずしも性を前提としない。性行為が必ずしも(いちおう)前提とせずに成り立つのと同じである。私はサリヴァンの思春期直前の愛の定義を思い出す。それは「その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない」というものである。平時にはいささかロマンチックに響く定義である。私も「いざという時、その用意があるかもしれない」ぐらいにゆるめたい。しかし、いずれにせよ、死別の時にはこれは切実な実態である。死別のつらさは、たとえ一しずくでもこの定義の愛であってのことである(ここには性の出番がないことはいうまでもあるまい)。

私は最近、若い弟子(この言葉自体は好きではないが他の言い方がない)を非業の死によって失い、私の中に生まれる哀切感の強さに自ら驚いた。逆縁という語が自然に浮んだ。この定義によれば、友人にも、師弟にも、患者と医師との間にも愛はありうる。おのれの死は、その人たちすべてに、すなわち愛のすべてに別れるからつらいのである。あの人間嫌いとされるスウィフトが『ガリヴァー旅行記 第三部』において、ほんとうに不死の人間が時々生まれる国を描いて、友人知人の全てから生き残る不死人間の悲惨を叙述している時、彼は同じことを言っているのだといえば驚く人があるであろうか。(中井久夫「「祈り」を込めない処方は効かない(?) ――アンケートへの答え」)

《……ドゥルーズの文を抜き出せば、下にあるように、観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈、ことば/名などの二項対立があって、「動きすぎてはいけない」や「蜘蛛」は、二項対立の後者を顕揚するものであるはずだ。そして、「しっかり握った杖/ゆるく持った杖」もこの流れのなかにある。》

――としたけどね

『プルーストとシーニュ』におけるドゥルーズは、友情/愛なんだよ
 あるいは「会話/沈黙した解釈」の後者が大事だっていうわけだな

『失われた時を求めて』は、一連の対立の上に築かれている。プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。知性が先にたち、《全体的な魂》というフィクションの中に集中させるような、われわれのすべての能力全体の、論理的な、あるいは、連帯的な使用に対して、われわれがすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断されたわれわれの能力がある。また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシア的な同性愛には、ユダヤ的なもの、呪われたものが、ことばには名が、明白な意味作用には、中に包まれたシーニュと、巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチ・ロゴスと文学機械」の章)

もっともこういう話もある

……したがってわれわれは懸命に同性愛者になろうとすべきであって、自分は同性愛の人間であると執拗に見極めようとすることはないのです。同性愛という問題の数々の展開が向かうのは、友情という問題なのです。(フーコー『同性愛と生存の美学』

柄谷行人もNHKの漱石特集で次のように語ったらしい(『心』の先生とKをめぐって)。
人格を愛することは、プラトンじゃないけれど、同性愛的なんですよ。男女の愛にさえ、相手を人格として見るとき相手の中に同性を見ている。

このあたりはオレはよくわからない
ひとによるんだよ
オレは比較的熱心なプルーストの読者だから
たぶんこういうことだろうと思い込んでいるだけさ

……つまり、友情はきわめてとるに足らぬものであるというのが私の考えかたなので、なんらかの天才と称せられる人たち、たとえばニーチェなどが、これにある種の知的価値を賦与するといった、したがって知的尊敬にむすびつかなかったような友情はこれを認めないといった、そのような素朴な考をもったのは、私の理解に苦しむところなのだ。そうだ、自己への誠実さに徹するあまり、良心にとがめて、ワグナーの音楽と手を切るまでになった人間が、本来つかみどころがなく妥当性を欠く表現形式であり、一般的には行為であるが個別的には友情であるこの表現形式のなかに、真実があらわされうると想像した、またルーヴルが焼けたというデマをきいて、自分の仕事をすてて友人に会いに行き、その友人といっしょに泣く、といったことをやりながら、そこに何ほどかの意味がありうると想像した、そんな例を見ると、私はいつもあるおどろきを感じてきたのである。私がバルベックで若い娘たちとあそぶことに快楽を見出すにいたったのも、そういう考えかたからなので、つまりそんな快楽は、精神生活にとって友情よりも有害ではない、すくなくとも精神生活とはかかわりがないと思われたのであって、そもそも友情なるものは、われわれ自身のなかの、伝達不可能な(芸術の手段による以外は)、唯一の真実な部分を、表面だけの自我のために犠牲にするという努力ばかりを要求するのであり、この表面だけの自我のほうは、もう一つの真実の自我のようには自己のなかによろこびを見出さないで、自分が外的な支柱にささえられ、他人から個人的に厚遇されていると感じて、つかみどころのない感動をおぼえる、そしてそういう感動にひたりながら、この表面的な自我は、そとからあたえられる保護に満悦し、その幸福感をにこにこ顔でほめたたえ、自己のなかでなら欠点と呼んでそれを矯正しようとつとめるであろうような相手の性癖のたぐいにも、目を見張って関心するのである。(『ゲルトマントのほう 二』 井上究一郎訳)


ところで小林秀雄に「富永太郎の思ひ出」という短文がある

記憶とは、過去を刻々に変へて行く策略めいた或る能力である。富永が死んだ年、僕は彼を悼む文章を書いたが、今それを読んでみて、当時は確かに僕の裡に生きてゐた様々な観念が、既に今は死んで了つてゐる事を確めた。そして、自分は当時、本当に富永の死を悼んでゐたのだらうか、といふ答へのない疑問に苦しむ。

これはまずは次のようなことを言っているはずだ

一般に)過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)
 
しかし続いてある次の文の、

・《発熱で上気した頬の上部に黒い大きな隈が出来てゐて、それが僕をハッとさせた。強い不吉な印象であつた。》

・《死は殆ど足音を立てて彼に近付いてゐた。その確かな形を前にしながら、僕は何故、それを瞥見するに止めたのだらうか。其他これに類する強い印象を、彼の姿態から折に触れ、間違ひなく感受し乍ら、何故、それが当時も僕の心のなかで、然るべき場所を占めなかつたのであらうか。》

――これを読むと、《然るべき場所を占めなかつた》のは友情のせいじゃないか
と読む(誤読)ことができないかね

彼の死んだ年の或る暑い真昼、僕は彼の家を訪ねた。彼は床の上に長々と腹這ひになつて鰻の弁当を食べてゐた。縁側から這入つて行く僕の方を向き、彼は笑つたが、発熱で上気した頬の上部に黒い大きな隈が出来てゐて、それが僕をハッとさせた。強い不吉な印象であつた。彼は最近書いたと言つて、小さな紙切れに鉛筆で走り書きしたものを見せた。"au Rimbaud"といふ詩だつた。彼は、目をつぶつたまゝ"Parmi les flots : les martyrs!"と呟いた。僕は紙切れを手にして、どんな空想を喋つたか、もう少しも覚えてゐない。だが、たつた今僕を驚かせた彼の顔を、もう少しも見てはゐなかつた事は確かである。死は殆ど足音を立てて彼に近付いてゐた。その確かな形を前にしながら、僕は何故、それを瞥見するに止めたのだらうか。其他これに類する強い印象を、彼の姿態から折に触れ、間違ひなく感受し乍ら、何故、それが当時も僕の心のなかで、然るべき場所を占めなかつたのであらうか。それはどんな空想のした業だつたのだらうか。彼が死んだ時に、僕は京橋の病院にゐて手術の苦痛以外に何も考へてはゐなかつた。間もなく僕はいろいろな事を思ひ知らねばならなかつた、とりわけ自分が人生の入り口に立つてゐた事に就いて。

 富永の霊よ、安かれ、僕は再び君に就いて書く事はあるまいと思ふ。(1941年1月、筑摩書房『富永太郎詩集』)


富永の顔に現われた「黒い大きな隈」、そのシーニュを読みとる小林秀雄は、
《観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈》
における二分法の後者、「感受性=愛」の小林秀雄だったが
たちまち「おしゃべりな友人同士のコミュニケーション」によって
つまり「動きすぎてしまって」見て見ぬふりをしてしまった、と

《誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまう》(『花咲く乙女たちのかげに 二』)のだよ

話相手にあらわれた己れの「感受性」、「沈黙した解釈」を促すシーニュ(黒い大きな隈)を捨て去り、友情による「会話」、「観察」に移ってしまった、と

《彼の姿態から折に触れ、間違ひなく感受し乍ら、何故、それが当時も僕の心のなかで、然るべき場所を占めなかつた》


いまのところこれがオレの
「動きすぎてはいけない」の浅墓な理解(誤解)さ
ドゥルーズ=プルーストを読んだかぎりのね
もちろんベースは
《つながりすぎ、動きすぎで「接続過剰」になってはいないか。関係をほどよく切断・接続しつつ、「個体」として生きた方がよいのではないか。》なのだろうけど


くり返せば
「動く/動きすぎない」は、
友情/恋愛
観察/感受性
会話/沈黙した解釈
に連なるという「短絡した誤読」の前提で書いている
そしてあの著者の本は読んでいない
読んでない者がいう「友情」の扱いへの齟齬感だ

この二分法には
解釈学/解釈
meaning/sense
などの区分も類似したものとして
思いを馳せることができるんじゃないか

《Meaning is an affair of hermeneutics(解釈学), Sense is an affair of interpretation(解釈)、Meaning belongs to the level of All, while Sense is non‐All……Lacan's notion of interpretation is thus opposed to hermeneutics: it involves the reduction of meaning to the signifier's nonsense, not the unearthing of a secret meaning》(「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より)

あるいは「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」(本居宣長)の
意/姿とかもあるな
(いま「古臭い」小林秀雄ーー「分析・記述がない」(蓮實重彦)ーー、レトリックだらけの批評家の文を読んでるわけでね)

真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチ・ロゴス」の章)
何にも増して私が遠ざけるべきものは、精神をさしおいて唇が選ぶあの言葉、会話で人がよく口にするようなユーモアたっぷりな言葉、他人との長い会話のあとで、人が自分自身に向かってわざとらしく発しつづける言葉、そしてわれわれの精神をうそで満たすあの言葉の数々である。(……)一方、真の書物は、白昼と雑談との子ではなくて、晦冥と沈黙との子でなくてはならない。(プルースト「見いだされた時」井上究一郎訳)


以上だからな
もう返事はしないぜ
充分礼儀正しく振舞ったつもりだ

わたしはまた、どんなに乱暴な言葉、どんなに乱暴な手紙でも、沈黙よりは良質で、礼儀にかなっているように思われるのである。沈黙したままでいる連中は、ほとんど常に、心のこまやかさと礼儀に欠けているのである。沈黙は抗弁の一種なのだ、言いたいことを飲み下してしまうのは、必然的に性格を悪くするーーそれは胃さえ悪くする。沈黙家はみな消化不良にかかっている。--これでおわかりだろうが、わたしは、粗暴ということをあまり見下げてもらいたくないと思っている。粗暴は、きわだって”人間的な”抗議形式であり、現代的な柔弱が支配するなかにあって、われわれの第一級の徳目の一つである。--われわれが豊かさを十分にそなえているなら、不穏当な行動をするのは一つの幸福でさえある。……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)