ところで、和歌の韻律は「文字」の問題とどう関係しているのだろうか。国学者は、荷田在満の「国歌八論」以来、音声によって唱われた歌と、書かれた歌の差異を問題にしてきたといえる。本居宣長において、『古事記』の歌謡は唱われたものであり、歌謡の祖形だとみなされた。吉本隆明は、賀茂真淵が指摘したように、それらは祖形であるどころか、すでに“高度”なレベルにあるという。
《いま『祝詞』には、「言ひ排く」、「神直び」、「大直び」という耳なれない語が、おおくみつけられる。はじめに<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>という言葉があった。成文化するとき漢音文字をかりて、「言排」、「神直備」、「大直備」と記した。これが、<言ひ排く>、<神直び>、<大直び>と読みくだされる。この過程は、なんでもないようにみえて、表意、あるいは表音につかわれた漢字の形象によって、最初の律文化がおおきな影響をこうむった一端を象徴している。<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>といえば、すくなくとも『祝詞』の成立した時期までは、あるあらたまった言葉として流布されていた。「なほび」という言葉は、神事、あるいはその場所などにかかわりのある言葉としてあった。<かむ>とか<おほ>とかは尊称をあらわしていた。そのころの和語は、適宜に言葉を重ねてゆけば、かなり自在な意味をもたせることができたとみられる。しかし、これを漢字をかりて「言排」、「神直備」、「大直備」のように表記して、公式な祭式の言葉としたとき、なにか別の意味が、漢字の象形的なイメージ自体からつけ加えられた。これは和語の<聖化>のはじまりであり、<聖化>も律文、韻文化へのひとつの契機と解すれば、ここにすでに歌の発生の萌芽のようなものは、あった。
成句や成文となれば、さらに律化、韻化の契機はふかめられた。語句の配列はそのもので、ひとつの律化だからである。》(「初期歌謡論」)
この注目すべき吉本隆明の考えにしたがえば、歌の発生、あるいは韻律化はそもそも漢字を契機としている。宣長が祖形とみなすような「記」、「紀」の歌謡は、文字を媒介しなければありえないような高度な段階にある。それは音声で唱われたとしても、すでに文字によってのみ可能な構成をもっている。《たぶん、宣長は、<書かれた言葉>と<音声で発せられた言葉>との質的なちがいの認識を欠いていた。すでに書き言葉が存在するところでの音声の言葉と、書き言葉が存在する以前の音声の言葉とは、まったくちがうことを知らなかった》(「初期歌謡論」)(柄谷行人『日本文学史序説』講談社文芸文庫 P73-74)
(万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾
(訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ
ひらがなやカタカナは9世紀前後の発明だから、それ以前のひとは、上のように書かれていたものを訓読みしていたということになる。吉本隆明のいうように、漢字の字面から《なにか別の意味が、漢字の象形的なイメージ自体からつけ加えられた》のは、指摘されてみれば当然なのだろうが、そんなことにはなかなか気づかない。
『古事記』の最も美しい箇所のひとつ(とういうかこの前後しか殆ど知らないのだが)、「沼河比売求婚」の箇所の原文(万葉仮名)はこんな具合らしい。
『古事記』の最も美しい箇所のひとつ(とういうかこの前後しか殆ど知らないのだが)、「沼河比売求婚」の箇所の原文(万葉仮名)はこんな具合らしい。
夜知富許能(やちほこの) 迦微能美許登波(かみのみことは)
夜斯麻久爾(やしまくに) 都麻麻岐迦泥弖(つままきかねて)
登富登富斯(とほとほし) 故志能久邇邇(こしのくにに)
佐加志売遠(さかしめを) 阿理登岐加志弖(ありときかして)
久波志売遠(くはしめを) 阿理登伎許志弖(ありときこして)
佐用婆比爾(さよばひに) 阿理多々斯(ありたたし)
用婆比邇(よばひに) 阿理加用婆勢(ありかよばせ)
多知賀遠母(たちがをも) 伊麻陀登加受弖(いまだとかずて)
淤須比遠母(おすひをも) 伊麻陀登加泥婆(いまだとかねば)
遠登売能那須夜(をとめのなすや)
伊多斗遠於曾夫良比(いたとをおそぶらひ)
和何多多勢礼婆 比許豆良比(わがたたせれば ひこづらひ)
和何多多勢礼婆 阿遠夜麻邇(わがたたせれば あをやまに)
奴延波那伎奴(ぬえがなきぬ) 佐怒都登理(さのつとり)
岐芸斯波登與牟(きぎしはとよむ) 爾波都登理(にはつとり)
迦祁波那久(かけはなく) 宇礼多久母(うれたくも)
那久那留登理加(なくなるとりか) 許能登理母宇知(このとりもうち)
夜米許世泥(やめこせね) 伊斯多布夜(いしたふや)
阿麻波勢豆加比(あまはせずかひ) 許登能加多理(ことのかたり)
其登母許遠婆(こともこをば)
夜斯麻久爾(やしまくに) 都麻麻岐迦泥弖(つままきかねて)
登富登富斯(とほとほし) 故志能久邇邇(こしのくにに)
佐加志売遠(さかしめを) 阿理登岐加志弖(ありときかして)
久波志売遠(くはしめを) 阿理登伎許志弖(ありときこして)
佐用婆比爾(さよばひに) 阿理多々斯(ありたたし)
用婆比邇(よばひに) 阿理加用婆勢(ありかよばせ)
多知賀遠母(たちがをも) 伊麻陀登加受弖(いまだとかずて)
淤須比遠母(おすひをも) 伊麻陀登加泥婆(いまだとかねば)
遠登売能那須夜(をとめのなすや)
伊多斗遠於曾夫良比(いたとをおそぶらひ)
和何多多勢礼婆 比許豆良比(わがたたせれば ひこづらひ)
和何多多勢礼婆 阿遠夜麻邇(わがたたせれば あをやまに)
奴延波那伎奴(ぬえがなきぬ) 佐怒都登理(さのつとり)
岐芸斯波登與牟(きぎしはとよむ) 爾波都登理(にはつとり)
迦祁波那久(かけはなく) 宇礼多久母(うれたくも)
那久那留登理加(なくなるとりか) 許能登理母宇知(このとりもうち)
夜米許世泥(やめこせね) 伊斯多布夜(いしたふや)
阿麻波勢豆加比(あまはせずかひ) 許登能加多理(ことのかたり)
其登母許遠婆(こともこをば)
現在の解釈
此の八千矛(やちほこの)神、高志(こしの)国の沼河比売を婚(よば)はむとして、幸行(い)でますの時、その沼河比売の家に到り、歌よみしたまひしく。
八千矛の 神の命は 八島国 妻枕(つまま)きかねて
遠遠(とほとほ)し 故志の国に 賢(さか)し女を ありと聞(き)かして
麗(くは)し女を ありと聞(き)こして さ婚(よば)ひに あり立たし
婚(よば)ひに あり通(かよ)はせ 太刀が緒も いまだ解かずて
襲(おすひ)をも いまだ解かねば おとめの 寝(な)すや板戸を
押(お)そぶらひ 我が立たせれば 引こづらひ 我が立たせれば
青山に 鵺(ぬえ)は鳴きぬ さ野つ鳥 雉(きざし)はとよむ
庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴く 心痛(うれた)くも 鳴くなる鳥か
この鳥も 打ち止(や)めこせね いしたふや
天馳使(あまはせつかい) 事の語り言も 是(こ)をば
ーー「八千矛の」が「夜知富許能」と書かれていたことを知れば、エロス的解釈が生れるのも頷ける。「登富登富斯(とほとほし)」やら「遠登売能那須夜(をとめのなすや)」なども想像力を刺激する漢字面だ。
「夜知富許能迦微」(八千矛の神)が、女の寝ている家の戸を激しく押し揺すぶり、立っていると(和何多多勢礼婆〔わがたたせれば〕)ーーここで夜知富許が、「空しく勃然としていると」などとしたくなる人がいてもおかしくないーー、沼河比売(ヌナカハヒメ)は、未だ戸を開けずに(未開戸)、内から歌を曰(ひけらく)(詠んだ)、つまり、上の八千矛神の妻問(沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)への求婚)とされる文に引き続く沼河比売返歌の箇所は、詩人高橋睦郎の名訳がある。
八千矛神(やちほこのかみ)よ、この私はなよなよした草のようにか弱い女性ですから、私の心は浦や洲にいる鳥と同じです。いまは自分の思うままにふるまっている鳥ですが、のちにはあなたの思うままになる鳥なのですから、鳥のいのちは取らないでください……
いまは朝日がさしてきた青山ですが、やがて夕日が沈んだら、まっ暗な夜が来ましょう。あなたは朝日のように晴れやかに笑っていらっしゃり、さらした梶の皮の綱のような白い腕、泡雪のような若やかな胸を抱きかかえ、玉のような手と手とをおたがいに枕とし、股を長々と伸ばして寝ましょうに、そうやみくもに恋いこがれなさるものではありません……(『古事記』現代語訳)
<高橋睦郎『読みなおし日本文学史-歌の漂泊-』岩波新書1998>
高橋睦郎訳にて、《玉のような手と手とをおたがいに枕とし、股を長々と伸ばして寝ましょうに》とされている箇所は、岩波文庫翻訳では、《眞玉手(マタマデ) 玉手さし枕(マ)き 百長(モモナガ)に 寝(イ)は寝(ナ)さむを》であり、原文は次の通り。
麻多麻傳(またまで)多麻傳佐斯麻岐(たまでさしまき)毛毛那賀爾(ももながに)伊波那佐牟遠(いはなさむを)
毛毛那賀爾(ももながに)→百長(モモナガ)に→股を長々と伸ばして、と見比べるとなかなか味わい深い。
あるいは岩波文庫(訳者倉野憲司)のみに於いても、原文の「麻多麻傳(またまで)」を「眞玉手(マタマデ)」としているのは、これもなかなか粋な漢字遣いである。
…………
たとえば、平安時代に、各地の人々が京都の宮廷で話されている言葉で書かれた「源氏物語」を読んで、なぜ理解できたのか。それは彼らが京都の言葉を知っていたからではありません。今だって各地の人がもろに方言で話すと通じないことがあるのに、平安時代に通じたはずがない。「源氏物語」のような和文がどこでも通じたのは、それが話されていたからではなくて、漢文の翻訳として形成された和文だったからです。紫式部という女性は司馬遷の『史記』を愛読していたような人で、漢文を熟知している。にもかかわらず、漢語を意図的にカッコに入れて『源氏物語』を書いたわけですね。
あらためていうと、日本人は漢字を受け取り、それを訓読みにして、日本語を作り上げたのです。ただ、その場合、奇妙なことがある。イタリア人はイタリア語がもともとラテン語の翻訳を通して形成されたことを忘れています。しかし、日本人は、日本語のエクリチュールが漢文に由来することを忘れてはいない。現に漢字を使っているからです。漢字だから、外来的である。しかし、外部性が感じられない。だから、日本では、韓国におけるように、漢字を外来語として排除もしないのです。ところが、日本では漢字が残りながら、同時に、その外部性が消去されているのです。そこが奇妙なのです。
『こころ』も『明暗』も要するにただの絵空事であり、その道具立てとして導入された「先生」だの「K」だの「津田」だの「小林」だのは、言語記号の組合せによって表象される想像的な人物イメージの戯れの積分的な総体に与えられた、仮の名前にすぎない。なるほど、一人一人の登場人物に一貫した自己同一性とリアルな存在感を賦与しようという意図を作家が抱いていたことは間違いなかろうが、しかしたとえそうであっても、創造の「今」において漱石は、そのつど確率論的な揺らぎの中で、むしろ“適当に”書いていたはずである。漱石の筆が運動しつつある、その「今」の現場には、過誤も思い違いも混同も意識せざる誇張も自家撞着も裏切りも、何もかもがいちどきに呼びこまれえたのであり、またそうした人間的“いい加減さ”に大胆に身を委ねることで、彼の「作品」における運動はいよいよ豊かな、また生気に満ちたものになっていったはずなのだ。漱石の文体における「当て字」の問題なども、むしろ「作品」を決定論的凝固から解き放ちたいという彼の骨がらみの欲動の表現として読み解かれるべきではないのか。(松浦寿輝「表象と確率」『官能の哲学』所収 文庫P190)
すべてが漱石起源の当て字かどうかははっきりとは窺い知れないが、漱石の小説には、「美人局」「五月蠅い」「胡魔化す」「何でも蚊んでも」、「焼持」「尻持」「食ひ心棒」「非道い」「草臥れる」「場穴」「三馬(秋刀魚のこと)」「兎に角」 「急勝 せっかち」「酒唖酒唖 しゃあしゃあ」などがあるようだ。
これらのなかにはその後多用されて陳腐化してしまったものもあるが、当時の読者には言葉の意味を《決定論的凝固から解き放つ》驚きとしてあったことだろう。
※追記
……ありふれたバカげた錯覚に反して、漢字はたんに表意的なのではなく、表音性をもっている。そして、漢字文化圏の諸民族において、漢字の表音性を利用して、それを一種の「仮名」として用いるさまざまな試みがあった。しかし、結果的に、漢字をエクリチュールのなかに吸収したのは、日本だけであり、他の周辺諸国はそれを最終的に放棄したか、現在の朝鮮がそうであるように放棄しつつある。たとえば、朝鮮では、漢字はその音声のままで(朝鮮化した発音であろうと)取り入れられた。また、エクリチュールとしては漢文が主であり、十五世紀に表音的なハングルが発明されたにもかかわらず、ほとんど使用されなかった。それに対して、日本では、漢字は、同時に、日本語での意味=音声(訓)で読まれたのである。そうした「漢字仮名混交」というエクリチュールは、すでに八世紀の『古事記』に見いだされる。国学者の意見に反して、『古事記』の文章は、当時の俗語を筆写したものではなく、それ以前に企てられた正史として漢文で書かれた『日本書記』にもとづいて、それを俗語に翻訳しようとしたものなのである。この時点では表音的に用いられた漢字は、まもなく簡略化され「仮名」として用いられるようになる。いうまでもなく、当時もそれ以後も、漢文が「真名」としてあった。そのために、仮名のエクリチュールは「女文字」と呼ばれている。事実、それは十世紀以後に大量の女流文学を生み出している。しかし、基本的に日本のエクリチュールは、漢字と仮名の併用である。
国学者は、仮名のみによって書かれた女流文学に、真の「大和魂」を見いだした。確かに、『源氏物語』では、紫式部は、きわめて意識的に漢語を排除している。シナから導入した律令制のもとにあり、また仏教が浸透した宮廷において、もっと日常的に漢語が使われていたことはまちがいない。そして、漢文が同時代では、京都の宮廷をこえたところで通用する唯一の「共通語」であった。彼女がそれを拒んだことに、宣長は「漢意」への批判を見いだしている。しかし、たとえば、ダンテは俗語を選んだ理由として、ラテン語は「愛にふさわしい言葉」ではないといっている。その意味で、歌や物語が「愛」にもっぱらかかわるがゆえに、漢語をしりぞけた言葉が選ばれたといってもよい。しかし、『源氏物語』が当時から広範囲で読まれたのは、それがたんに俗語で書かれたからではない。漢文を自在に読み書くことができた紫式部が、意図的に漢語を排除しているとしても、その漢語から来る意味を、乏しい大和言葉の語彙でいおうとしているからである。そのことが大和言葉をエクリチュールとして規範化することになったのだ。それは同時代に京都で話されていた俗語とはほとんど関係がないだろう。しかし、愛あるいは男女関係という主題に限定された王朝女流文学のエクリチュールは、その他の領域では通用しない。当時もそれ以後も、日本のエクリチュールの主流は「漢字仮名混交」である。(柄谷行人「エクリチュールとナショナリズム」『ヒューモアとしての唯物論』所収 p68~)