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2013年12月24日火曜日

ラカンの資本家のディスクールと資本主義の世界のディスクール

以前、ラカンの四つのディスクール(あわせて資本家のディスクール)をめぐってメモしたときに、次の文に行き当たって印象に残っている。


資本家(主義者)のディスクールについて、ラカンがイタリアで講演したときにちょっと触れているのですが、資本家のディスクールについて聞いたことある人、いますか?これを誤って「資本主義のディスクール」と翻訳している人もいるようです。資本主義そのものは喋りません(笑)。ラカンのいう Discours capitaliste もしくは Discours du capitaliste は「資本主義のディスクール」ではない。発話の主体は人でなければなりません。四つのディスクールを見れば分かることですが、主人、大学人、ヒステリー(症者)、分析家はいずれも人です。ですから資本家のディスクールもしくは資本主義者のディスクールといわなければなりません。Discours du capitaliste、capitaliste というのは、資本家です。理論面に重きを置けば資本主義者といい換えても構いませんが「資本主義のディスクール」ではありません。

ところで若きラカン派の俊英である松本卓也氏が資本主義のディスクールについて何らかの論文を書いたそうで、その直後に次のようにツイートしている。

ちなみに「資本主義のディスクール」の訳語に関しては、ラカン自身の記述がdiscours capitaliste/discours du capitaliste/discours du capitalismeの3つで揺れていることと、エージェントとしての「資本家」よりもシステムとしての「資本主義」(つまり、誰か黒幕がいるわけではない)のことを述べているようにしか見えないことからして、「資本主義のディスクール」という訳語を採用しています。


彼は三十歳になったばかりだが、ラカン派ということにだけ限らず、若手の書き手のなかではもっとも期待される人物のひとりだろう。わたくしは以前彼のブログやそこに紹介されている『ファルスの意味作用』(ラカン)の解説やらラカンの娘婿のジャック=アラン・ミレールの翻訳(おそらく多くは彼自身の訳による)をかなり熱心に読んだ。もっとも難解なところは端折る気楽な読者としてではあるが。

その論文を読んでいないものが無闇に賞讃書評を引用するのもどうかと思うが、『現代思想』6月号(特集フェリックス・ガタリ)掲載の松本卓也氏の「人はみな妄想する-ガタリと後期ラカンについてのエチュード」についてこんな評価がある。

《このように論じる論者は少なくとも日本の「ドゥルーズ・ガタリ派(研究者)」にはほとんどいなかった。今さらいっても仕方がないけれども、ラカンとの「精神療法」の捉えかたの親近性(及び差異)を検討することなくガタリを語っても、ガタリの「実践者」、「運動家」としての実像には迫れない。また、この論文でドゥルーズ・ガタリの『アンチ・オイディプス』のあまりに「品の悪い」精神分析批判(それに基く資本制批判)に基いた、これまでの歪んだ理解はだいぶ矯正されるでしょう》と書かれたあと次のようにある。

松本論文は、ラカンの発言の含意-とりわけ70年代ラカン-を的確におさえることで、ガタリの問題意識の優れたところを見事に引き出してくれています。次の指摘などはその白眉でしょう。「60年代のラカン理論では、対象aは自由の機能を担う「分離」と関わっていたが、そこで得られる自由は、「自由か死か」のどちらかを選ばされた際に、自分が自由であることを示すために死を選ぶような強制的な選択(疎外)という不自由性を前提とした括弧つきの自由であった。いわば、対象aは因果性の安全装置の役割を担っていたのである。一方、ガタリの機械-対象aは、因果性のなかの爆弾であり、そのような自由とはまったく異なる自由をもたらす。機械の本質は「因果性の切断としての一つのシニフィアンが離脱すること」であると述べている。つまりガタリは、因果性を切断する機能を機械-対象aの中に読み込んでいるのだ」(P116、著者の傍点省略)、並びに「ガタリは、意味作用を生産するようなプラス方向の解釈とは反対に、数学において用いられるような無意味性を特徴とする記号を重視する(記:まさに『分裂分析的地図作成法』はその典型である)。つまり、患者の語りの意味作用を支えていたシニフィアンを削り取り、「記号を墓から「掘り起こす」ことを目指すのである。すなわち、スキゾ分析は精神分析の解釈とは反対に、意味作用をマイナスの方向に向かわせる。後に、ガタリはこの方向性を非シニフィアン的記号論と名づけ、現実界を取り扱うことが可能な理論として位置づけている」(P120、著者の傍点省略)という論述は全てを言い当てている。対象a をめぐる両者の、理解の同質性(差異)の指摘により、ガタリが特異性の臨床-集団的アジャンスマンを強調する意味合いがそこからよく見えてくる。また、松本論文で、オイディプス的な主体の問題を過度に強調する旧来のラカン認識には抵抗感を覚えていた僕にはその点でもスッキリしたところがあり、両者のつながるところがよくわかった感じです。

さて資本家のディスクールと資本主義のディスクールの話に戻れば、冒頭の藤田博史氏の文にめぐりあって、以前すこし調べてみようとしたことがある。調べるといっても、インターネット上にて日本語による言及が少なければ、仕方なしに英語文献のみを探る程度だが。

ところで、ジジェクには、あれだけ数多く資本の論理、その死の欲動面について語っていながら、不思議に、資本主義、あるいは資本家のディスクールについての言及は見当たらない。ジジェクの朋友ジュパンチッチには四つのディスクールをめぐるすぐれた論文(『Zupancic-When-Surplus-Enjoyment-Meets-Surplus-Value.pdf』)があり、そこで「主人の言説」の凋落以降の時代、「大学人の言説」を資本の論理に結びつけているが、資本主義のディスクールへの直接の言及はない。

そんななか、Levi R. BryantInternational Journal of Žižek Studies, Vol 2, No 4 (2008)にて書く、ジジェクのディスクールの審級(agentへの問いから始る論Žižek’s New Universe of Discourse: Politicsand the Discourse of the Capitalistにめぐり合った。

Bryantはなんと六つのユニヴァース(二十四のディスクールのパターン)に分けている。

Throughout this paper I distinguish between discourses and universes of discourse. A discourse is an individual structure such as the discourse of the master, the analyst, the hysteric, or the university. As Lacan attempts to demonstrate, the discourse of the hysteric, analyst, and university are permutations of the discourse master found by rotating the terms of this discourse clockwise one position forward. A universe of discourse, by contrast, is a set of structural permutations composed of four discourses taken together. Based on the four terms Lacan uses to represent the variables of any discourse, there are 24 possible discourses. However, these discourses form sets of permutations, such that there are only six possible universes of discourse. For a brief account of Lacan's discourse theory and the six universes of discourses consult the appendix to this paper on page 53.

ここですべてを示すことはしないし、Bryantは主人のユニヴァースと資本主義のユニヴァースの説明をしているだけだ。そしてわたくしにはいまだ瞭然としない箇所もある。

だが、すくなくともこの議論は藤田博史氏と松本卓也氏の二者の主張に折り合いをつけるのではないか。

ディスクールとは本来、個人のものだから、資本主義のディスクールとしたら奇妙だ。だが主人のユニヴァースと資本主義のユニヴァースということはできる。

Bryantの議論は、「父性的な象徴権威の弱体化」の時代の新たなユニヴァースとして、「主人」から「資本主義」の世界への移行があると読み取ることができる。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)

ここでジジェクがいう「父性的な象徴権威の弱体化」の時代の主人とは、「原初の父」、あるいは「享楽の父」の主人なのであり、現在ラカン派内では、二〇世紀の神経症の時代から二一世紀のふつうの精神病(あるいはふつうの倒錯)の世界へなどと語られるが、その推移も「主人の言説」の時代から、「資本家の言説」の時代へ、というふうにも捉えられる。あるいは「欲望」の言説から「欲動(享楽)」の言説としてもよいし、「自我理想」の言説から「超自我」の言説としてもよい(ここでの超自我は、フロイト的な自我理想≒超自我のそれではなく、後期ラカン的な《楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」》(「セミネールⅩⅩ」)の文脈上の「超自我」:参照「父なき世代(中井久夫)」)。それの具体的な現われは次のようなことだ。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

まがりなりにも理念というオブラートに包んで表現する時代が主人のディスクールの時代であり、資本主義という素顔が露骨にみえる時代が資本家のディスクールの時代としてよいのではないか。

いま主人の言説、資本家の言説として、あえて主人のユニヴァース、資本主義のユニヴァースとしなかったのは、次のジジェクの示唆による。

ジジェクの90年代初頭の四つの言説をめぐる論では次のような説明がなされている。

第一の型、すなわち主人の言説では、あるシニフィアン(S1)が、別のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)のために主体(S/:斜線のS)を表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余残余、あるいは「排泄物」を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残余(有名な<対象a>と「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。(『斜めから見る』)

すなわち主人の言説が語られるとき、それは主人のユニヴァース(象徴的権威没落以前の)の四つの言説の代表とする。そして資本家の言説が語られるとき、それは資本主義のユニヴァースの四つの言説の代表とする。Bryantの議論からはそういう捉え方ができる。もっともこの議論は、上に掲げたジュパンチッチの論文『When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value』では、享楽の父の言説の役割をするのは「大学人の言説」という主張とは相反するが、わたくしにはBryantの議論のほうが目から鱗が落ちた気分にさせられる。

Bryantによる主人のユニヴァースと資本主義のユニヴァースのそれぞれの四つのディスクールは次の如し。









資本主義のユニヴァースには、「資本家」、「生権力〔者)」(フーコーの概念から)、「批評理論(家)」、「非物質的な生産(者)」(すなわちサービス産業など)の四つのディスクールがあるという考え方である。

このあたりはいまだよくわからない(納得できない)ところもあるのでこれ以上は書かない。

そもそもわたくしのこれらの関心は、人はなんのディスクールで語っているのだろうかという問いが、どうしてもラカンの四つのディスクールをめぐって考えていると、浮ばざるをえないということからだ。

<彼>は大学人(インテリ)のディスクールで語っているのだろうか、それならば隠されているものは、主人であり支配・権力であるだろうとか(上の図のそれぞれの左下の部分が話し手の「真理」であり、それは抑圧されてもいるが発話の真の動因でもある)、《the paranoid subject is looking for followers and believers.》《the paranoiac who is most in need of an audience such as a group, in order to "keep his sanity,》(参照:「私はあなたを愛しています」)と語られるとき、どうもこの主張はいままでの主人のユニヴァースの四つの言説にはあたはまらないな、とかの問いだ。


たとえば、この後半のポール・ヴェルハーゲの指摘は、ナルシスティックなパラノイドパーソナリティ(自らの主張に絶対的な信認をおく主人S1)は、ヒステリー症者$を求めるということであり、上の生権力S1→$にあてはまるということになるのか、云々。

ところで、<あなた>のブログやツイッター上のディスクールは、どのタイプだろうか、ーー人はそれくらいの問いがたまには各人あってもよい。ただ情報を流しているだけ? では、《情報ということ、それは命令》(ハイデガー)やら、《堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ》(ジル・ドゥ ルーズ)をどう捉えるべきか。

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

たとえばジジェクによれば、ラカンはセミネールではヒステリー症者として語っており、エクリでは分析家として語っているという。

ラカンのセミネールとエクリの関係は、治療における被分析者と分析家の関係に似ている。

セミネールでは、ラカンは被分析者としてふるまう。すなわち「自由連想し」、即興で語り、飛躍したり跳躍したりしながら、聴衆に語りかける。そのため聴衆のほうはいわば集合的な分析家の役割を負わされる。

これと比べ、彼の書いたものはひじょうに濃縮されていて、公式的である。時には託宣のような不可解で曖昧な命題を投げつけ、それに取り組んで明快な命題に翻訳し、適切な例を挙げ、その意味を論理的に証明しろ、と読者を挑発する。通常の学問的な手続きにおいては、著者が命題を公式化し、さまざまな議論によってそれを裏付けるわけだが、それとは対照的にラカンはしばしばこの仕事を読者に委ねる。いやそれだけでなく、読者は、ラカンが次々に繰り出す互いに矛盾した命題の中から、どれがラカンの本当の命題なのかを決めなくてはならず、託宣のような公式の真意を忖度しなければならない。そうして厳密な意味において、ラカンのエクリは分析家による介入のようなもので、その目的は、被分析者に既製の意見や陳述を提供することではなく、被分析者を働かせることである。(『ラカンはこう読め!』巻末「読書ガイド」より)

向井雅明氏もラカンはセミネールにおいて、ヒステリーの主体として語っているとしている(精神分析のためのグループについて)。

ラカンは、「教育の場において私は分析主体analysantとして在る」と述べている。教育の場、すなわち自ら設立したグループのなかでも分析主体として作業すると言っているのだ。

 分析主体analysantとして在るというのは、まず分析家analysteとしてではないということである。つまり相手に作業をさせるのではなく、自分自身が作業するのだ。それはまた支配者という、他人に何かを命令する立場でもない。四つのディスクールにしたがって大学のディスクールを取りあげると、知を携えてそれを誰かに教え込む者としてでもないのだ。(……)

ラカンは、知を発見していく分析主体はヒステリー的存在である、と述べている。精神分析の主体、「ヒステリー的主体」は科学から排除された主体であり、科学のディスクールはヒステリーのディスクールと共通しているということを踏まえれば、知を追求するという立場としてヒステリーがやって来るというのは何らふしぎではない。この点からするとラカンが知を発見していくために分析主体=ヒステリーとして在るというのはうなずける。

このあたりの問いが資本主義のディスクールの四つの言説を加えることで、新たな思いを馳せることができる。ちなみにBryantは、ジジェクのディスクールは資本主義のユニヴァースにおける「批評理論(家)」のディスクールとしている。


…………

補遺:上に引用されたジジェクの『斜めから見る』より。

忘れてはならないのは、この四つの言説の母体は、コミュニケーションにおける四つの可能な位置の母体だということである。われわれはここでは、意味としてのコミュニケーションの領域の内側にいる。これらの用語のラカン的概念化に含まれたあらゆるパラドックスにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、そうなのである。

もちろんコミュニケーションは逆説的な円のように構造化されている。その円の中では、送り手は受け手から自分自身のメッセージを反転された真の形で受け取る。つまり、われわれが言ったことの意味を決定するのは、外部にいる<他者>である(その意味で、S1に遡及的に意味を授ける真の主人のシニフィアンはS2である)。

象徴的コミュニケーションにおいて主体間を循環するものは、もちろん究極的には欠如・不在そのものであり、その不在が、「ポジティブな」意味が生成される空間を切り開くのである。だがこれらはすべて、意味としてのコミュニケーションの領域に内在するパラドックスである。無意味のシニフィアンそのもの、「シニフィエなきシニフィアン」こそが、他のすべてのシニフィアンの意味が可能になるための前提条件である。忘れてはならないことは、われわれがここで問題にしている「無意味」は意味の領域にとって厳密に内的なものであり、それは内部からその領域を「切断する」ということである。(注)
注)……「意味としてのコミュニケーション」である。なぜなら、両者は究極的には重なり合う。循環する「対象」は意味である(無意味・意味の欠如とというネガティブな形での)、というだけではない。問題はむしろ、意味そのものはつねに間主観的であり、コミュニケーションの円環を通して構成されるということである(他者、すなわち受け手が、私が言ったことの意味を遡及的に決定するのである)。

この記事に書かれた文脈では、次の<一者>は考慮されていない。松本論文のガタリへの言及はこれにかかわるのか、とも思われるが、その論を読んでいないわたくしには、不明。
しかしラカンの晩年のすべての努力の目的は、この意味としてのコミュニケーションの領域を突破することである。ラカンは、明確で論理的に純化されたコミュニケーションおよび社会的束縛の構造を確立した後、四つの言説を経て、ある「自由浮遊の」空間の輪郭を描く作業にとりかかった。その空間内では、シニフィアンは言説による束縛、すなわち分節に先行する。それは、社会的束縛という「物語」に先行する「先史」の空間、つまり、言説のネットワークを擦り抜けるある精神病的な核の空間である。このことは、ラカンの『セミネールⅩⅩ(encore)』に見出される網ひとつの予期せぬ特徴を説明するのに役立つ。その予期せぬ特徴とは、シニフィアンからシーニュ(記号)への移行と同様の、<他者>から<一者>への移行である。

※四つのディスクールは、もともとフロイトの最晩年の著作におけるみっつの「不可能な職業」+愛(欲望)から導きだされていることをここで想いだしておこう。

分析治療を行うという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な職業」といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、教育することと支配することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

…………

※附記

ジジェクの比較的新しい(2012)四つの言説への言及。

S1、S2を男性の論理、$、a を女性の論理と関連付けて語っている。

“THERE IS A NON‐RELATIONSHIP” 

So, to conclude, one can propose a “unified theory” of the formulae of sexuation and the formulae of four discourses: the masculine axis consists of the master's discourse and the university discourse (university as universality and the master as its constitutive exception), and the feminine axis of the hysterical discourse and the analyst's discourse (no exception and non‐All). We then have the following series of equations:

S1 = Master = exception   S2 = University = universality

$ = Hysteria = no‐exception     a = Analyst = non‐All

We can see here how, in order to correlate the two squares, we have to turn one 90 degrees in relation to the other: with regard to the four discourses, the line that separates masculine from feminine runs horizontally; that is, it is the upper couple which is masculine and the lower one which is feminine. The hysterical subjective position allows for no exception, no x which is not‐Fx (a hysteric provokes its master, endlessly questioning him: show me your exception), while the analyst asserts the non‐All—not as the exception‐to‐All of a Master‐Signifier, but in the guise of a which stands for the gap/inconsistency. In other words, the masculine universal is positive/affirmative (all x are Fx), while the feminine universal is negative (no x which is not‐Fx)—no one should be left out; this is why the masculine universal relies on a positive exception, while the feminine universal undermines the All from within, in the guise of its inconsistency. This theory nonetheless leaves some questions unanswered. First, do the two versions of the universal (universality with exception; non‐All with no exception) cover the entire span of possibilities? Is it not that the very logic of “singular universality,” of the symptomatic “part of no‐part” which stands directly for universality, fits neither of the two versions? Second, and linked to the first, Lacan struggled for years with the passage from “there is no (sexual) relationship” to “there is a non‐relationship”: he was repeatedly trying “to give body to the difference, to isolate the non‐relationship as an indispensable ingredient of the constitution of the subject.”……(資料:ラカンの幻想の式と四つの言説

このジジェクの見解は、向井雅明氏のかなりまえの論文(1995)だが、ヒステリーを男性の論理とする見解と相反する。

ヒステリーは例外的な位置を占め、自らいかなるシニフィアンによっても決定されない不確定性に固執し、 それを強い自我となすのである。

ラカンの『主体の転覆』 のテクストにはこうある―― 「神経症者では (-Φ) はファンタスムの下に潜り込み、 自我に特有なイマジネーションを助長する。 なぜなら、神経症者はイマジネールな去勢を最初から被っており、それが彼の強い自我を支持しているのだ。この自我はあまりにも強いので、自分の固有名さえじゃまとなり、結局、神経症者とは名無しなのである」 。

ラカンのこのマテームは、そもそも男女の性別化を示す二つのマテームの内の男性を表わすものである。したがって、ヒステリーは女性であっても男性であっても、男性の論理のもとに行動するわけである。これはフロイトのエディプスの論理に相当するものであるから、結局、フロイトは男性の論理しか展開しなかったということになる。(向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」――東京精神分析サークル