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2013年8月24日土曜日

女の味

寝床の中で目を覚ますと、まずしなければいけないことが心に浮ぶ。しなければいけないことはしたいこととは違うが、自分が本当に何をしたいのかよく分からない。

「昨晩」電話している最中に女が返事をしなくなった。いくら話しかけても貝のように口を閉ざしている。しわだらけのズボンと薄汚れたTシャツのまま、タクシーを拾って真夜中にぼくは女に会いにいった。黙りこくっている女は人間じゃないみたいだったが、かと言って岩でも木でも動物でもなかった。

「この女と別れたら」マスターベーションをするんだろうか。それとも女を買うんだろうか。朝までしつこくやるんだろうか、いろんな体位で。

「不意に一年半前の女の沈黙が痛みをともなって蘇る。」《あなたが黙りこんでしまうと時が凝固する。あなたの息の音にまじって、遠くで他人の笑い声が聞こえる。電話線を命綱に私は漂っている。もしあなたが切ったら……、もうどこにも戻れない。》

「三時半に家に戻り」日記を書きたかったが眠くて書けなかった。一日の出来事のうちのどれを書き、どれを書かないかという判断はいつもむずかしい。書かずにいられないことは何ひとつないのに、何も書かずにいると落ち着かないのは何故だろう。

我慢するしかないと思う、気にいらないすべてを。だってそれはそこにあるのだから、大昔から、どんなに言葉でごまかそうとしても。だからと言って唐突な喜びが消え失せてしまうわけではないさ、ヒトはいつだってはみ出して生きてきたんだ。

人間味があるなどと気安く言うが人の味は皆それぞれで、食い物の味よりもはるかに変化に富んでいる。ぼくらはその旨さにあるいは不味さにしばしば絶句する。

「女からまた電話がかかってきた。」たかをくくるくらいなら首をくくって死にたいと婆さんは言ってる。暮れかかり色を失っていく雑草の緑をぼんやり眺めながら、ぼくはともすれば無慈悲な夜に酔い痴れそうになる。


――鉤括弧内との二重山括弧内の文以外、すべて谷川俊太郎の詩集『世間知ラズ』(1993)からだが、段落ごとに引用された詩は異なる。原詩にある行分けをやめて、かつ句読点はすべて引用者がつけ加えている(句読点のある箇所は原詩では行わけされている)。二重山括弧内の文は、詩集『女に』(1991)から。

わたくしが拙く附記した部分を除いては、行分けしなくてもその音調の工夫が窺われるはずだ。

………

からだの中を血液のように流れつづける言葉を行わけにしようとすると
言葉が身を固くするのが分かる
ぼくの心に触れられるのを言葉はいやがっているみたいだ

(……)

憎んでいると思ったこともない代わりに
言葉を好きだと思ったこともない
恥ずかしさの余り総毛立つ言葉があるし
透き通って言葉であることを忘れさせる言葉がある
そしてまた考え抜かれた言葉がジェノサイドに終わることもある

ぼくらの見栄が言葉を化粧する
言葉の素顔を見たい
そのアルカイック・スマイルを(「鷹繋山」『世間知ラズ』より)




…………

◆中井久夫 「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」より



精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。

言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そういったものが雲のように語を取り囲む。

この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。

これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。

さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。精神分裂病患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。

当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。



詩作者と、精神分裂病患者の、特に最初期との言語意識は、以上の点で共通すると私は考える。

私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』 26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候 ――再考」同27 号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。

その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」 heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。……

この論に上げられている「世界における索引と徴候」の冒頭の散文における、頭韻、押韻などについてのいくらかは、「私はいかなるテクストも暗記できません」にやや詳しい。


同じ「世界における索引と徴候」には、次のような段落もある。

二週間後には、このあたりは、この多年生蔓草の花の、すれちがう少女の残す腋臭のほのかさに通じる、さわやかな酸味をまじえたかおりがたちこめて、ひとは、おのれをつつむこの香の出どころはどこかととまどうはずだ。小さい十字の銀花も、それがすがれちぢれてできた金花の濃い黄色も、ちょっと見には眼にとまらないだろう。

この木立は、桜樹が枝をさしかわしてほのかな木下闇をただよわせている並木道の入口にあった。桜たちがいっせいにひらいて下をとおるひとを花酔いに酔わせていたのはわずか一月まえであったはずだ。しかし、今、それは遠い昔であったかのように、桜は変貌して、道におおいかぶさっているのはただ目に見える葉むらばかりでなく、ひしひしとひとを包む透明な気配がじかに私を打った。この無形の力にやぶれてか、道にはほとんど草をみず、桜んぼうの茎の、楊枝を思わせるのがはらはらと散らばっていた。

ーー音調、発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象の喚起。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚などの触覚的な感覚、舌や喉頭の発声筋の運動感覚ーー、この模範的な例文のように読めないだろうか。


もちろん、これらは定型詩は当然のこと、自由詩、散文詩においてもめずらしくない。書き手によっては散文にも見られることがあるのを示したに過ぎない。


ウェブ上から拾った松浦寿輝の散文詩と自由詩を上げておこう。

《からだは縦になり横になり斜めになり、厚ぼつたい寒気の淀みではふはりと横にそれ、かぐはしい精気はざつくり切り裂いて滑空し、少しづつ少しづつ、着実に、眠りの底に向かつて近づいてゆく、下へ行けば行くほどあたりは茫漠と広がつてゆくやうだ、しかしきみの眠りの底の底はたはた一点に収斂してもゆくやうだ、はるか下方にひときは猛々しく輝いてゐるあの一点、あれは町だ、きみの街、そこに、きみはどうしても行き着けない、》(松浦寿輝『吃水都市』


声にならない声で

ひきしぼり
ひたりこみ
ひびきわたり
ひたすら
ふみまよい ふりあおぎ
いつの間にかわたしは
少年のからだをとりもどしているようだ
(「throughout」)


中井久夫は自ら、《私の文章にアリテレーション(頭韻)が比較的多い》(「執筆過程の生理学」)と語っている。たとえば、かつての学者たちの訳詩を評する場合でも、「こごしくこちたい」と韻を踏んでいるわけだ。
フランス語の詩、特に象徴詩は、少年時代に親しんだことがあり、いくつかは暗誦するまでになっていたが、学者たちのこごしくこちたい邦訳は私の心の琴線を掻き鳴らすものではなかった(上田敏や永井荷風の言葉もやや遠かった)。(「私の死生観」)