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2013年12月1日日曜日

精神健康をあやうくすることに対する15の耐性(中井久夫)

以下、備忘。

中井久夫『「つながり」の精神病理』(ちくま学芸文庫)よりからだが、手元にない書物であり、インターネット上から拾ったもの。

この文庫は2011年出版だそうだが、1987年くらいまでの論考が中心らしい。

以下、おそらくいくらか要約している箇所があると推測される。

…………


●精神健康の基準について 

健常者ということばがよく使われているが、実際にはそういう者を定義することはできない。(精神健康の定義は)精神健康をあやうくするようなことに対する耐性として定義するのがよいのではないだろうか。


『中井久夫が挙げる15の耐性』


1.分裂する能力、そして分裂にある程度耐えうる能力

 「人格は対人関係の数だけある」という考え方。
 「あらゆる人間関係に対し統一された人格がある」者の精神健康のほうが危ういのではないか、という指摘。

2.両義性(多義性)に耐える能力

 父であり、夫であり、社員であり、挫折者であり、保護者であり、掟であり、壁であり ――

3.二重拘束への耐性 

「恋人を愛している」「恋人からの電話をはやく切って眠りたい」

4.可逆的に退行できる能力

赤ん坊をあやす母親、動物に子供っぽく声をかける成人男性
(統一、成熟、人格的・常識的な「私」が)出ずっぱりでは人は持たない。
かつ、退行した精神状態からすぐに戻れること ――

5.問題を局地化できる能力

 「私はどうしてこの職業を選んだか」「この伴侶と家庭を作ることになったか」 ―― 一般的に必要充分の理由なんかない。
 問題を一般化すれば、形は堂々としたものにはなるが解決は遠のく。
特に自分に関する問題では ――

6.即座に解決を求めないでおれる能力、未解決のまま保持できる能力

 葛藤があることはすぐに精神健康の悪さに繋がらないどころか、ある程度の葛藤や矛盾、いや失意さえも人を生かすことがある ――
 「迂回能力」、「待機能力」とも深い関連がある。

7.いやなことができる能力、不快にある程度耐える能力

 「後回しにする能力」、「できたらやめておきたいと思う能力」、「ある程度で切り上げる能力」も関連能力として大事 ――

8.一人でいられる能力

 「二人でいられる能力」も付け加えたい。

9.秘密を話さないで持ちこたえる能力

 「嘘をつく能力」も関連している。
(嘘をつかないではいられないとしたら、それは“びょーき”だが)

10.いい加減で手を打つ能力

 これは複合能力で「意地にならない能力」とか「いろいろな角度からものを見る能力」、特に相手から見るとものがどう見えるかという仮説を立てる能力 ―― 「相手の身になる能力」 ―― が関連している。
「若干の欲求不満に耐える能力」も関わりがある。

11.しなければならないという気持ちに対抗できる能力

12.現実対処の方法を複数持ち合せていること

13.徴候性へのある程度の感受性を持つ能力

 身体感覚、特に「疲労感、余裕感、あせり感、季節感、その他の一般感覚の感受性」を持つことと同じ。それらは徴候として現れるからである。
 すべての能力は人間においては対人関係化するので、対人関係を読む能力は徴候性を感受する能力と関係している。
「いま、相手が親密性を求めているかいないかが分かる」こと ――

14.予感や余韻を感受する能力

 この世界を味わいのあるものにする上で重要な能力。
 たとえば芸術作品の受容・体感がこの能力を育み、野生の馬である「徴候性」と折り合いをつけられるようになっていく。

15.現実処理能力を使い切らない能力

 あるいは「使い切らすように人にしむけない能力」。

 多くの統合失調症者の発病、再発は、彼らが現実能力を使い果たした時点で起こりがち。

…………


中井久夫の『分裂病と人類』の叙述を、より一般公衆に向けてわかりやすく箇条書きにしたものとしてよいかもしれないが、それだけではない。③の二重拘束は、ベイドソンの概念であろうし、⑥は、「宙吊り」を指摘したドゥルーズのマゾッホ論の倒錯概念を想起させる。『治療文化論』のなかの記述を想起させる内容もある。

わたくしにとって新鮮なのは、⑭の予感や余韻を感受する能力(徴候感覚)の項に、《芸術作品の受容・体感がこの能力を育み、野生の馬である「徴候性」と折り合いをつけられるようになっていく》とされているなかの《野生の馬である「徴候性」》という表現で、これには初めて出会った。

予感と余韻については、『徴候・記憶・外傷』に記述が豊富である。ひとつだけ挙げておこう。
予感というものは、(……)まさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。むつかしいことではない。夏のはげしい驟雨の予感のたちこめるひとときを想像していただきたい。(……)余韻とはたしかに存在してものあるいは状態の残響、残り香にたとえられるが、存在したものが何かが問題ではない。驟雨が過ぎ去った直後の爽やかさと安堵と去った烈しさを惜しむいくばくかの思いとである。(中井久夫「世界における索引と徴候」P19)


徴候性と芸術の関連については、『分裂病と人類』に次のようなことまで書かれている。
マージナルなものへのセンスなしには芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』「第2章 執着気質の歴史的背」p59

マージナルな感覚、すなわち分裂親和気質の特性であり(執着気質/分裂気質の二項対立をめぐって書かれている論でもある)、ここだけ読むと、芸術の生産と享受がありうるのは、分裂気質者だけだとも語っているようにさえ捉えられる。

もっとも次のようにも書かれていることを忘れないでおこう。

オランダの臨床精神医学者リュムケは、正常者でもすべていわゆる分裂病症状を体験する、ただしそれは数秒から数十秒であると述べている。この持続時間の差がなにを意味するのか、と彼は自問する。

私は回復期において一週に一、二回、数十分から二、三時間、“軽症再燃”する患者を一人ならず診ている(慢性入院患者がごく短時間「急性再燃」を示すという報告も別にある)。なかでも、自転車で人ごみのなかを突っ走ると起こりやすい場合があるのは興味がある。当然、追いぬく人の会話の一句二句をひろって走ることになる。この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評の)兆候となる。そこからさまざまな“異常体験”への裂け目がはじまる。しかし、じっとして“ふりまわされぬ”ようにしていれば、この兆候的なもののひしめく裂け目は閉じ、すべてが過ぎ去ることが判ってきて、そのようにしているとーーー決して愉快な時間ではないがーーーいつのまにか消えてゆく。(「分裂病と人類」)

徴候感覚をめぐる美しい表現として、もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》、あるいは《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》がある。そして「亡霊たちのざわめき」とも。

青年期に一過性に分裂病を経験した人の数は予想以上に多数ではあるまいか。その後、社会的に活躍している人のなかにも稀れでないことは、狭い経験からも推定される。外国の例を挙げれば、哲学者ヴィトゲンシュタインは一九一三年にほとんど分裂病状態に陥っていたらしいことが最近刊行された書簡集によって知られるーー「亡霊たちのざわめきの中からやっと理性の声が聞こえてきました。……それにしても狂気からほんの一歩のところにいたのに気づかなかったとは」と。(中井久夫「分裂病と人類」)

ところで、中井久夫は『分裂病と人類』の第一章にあたるまさに「分裂病と人類」という論文について後年次のように語っている。

私の分裂病論の核心の一つは一見奇矯なこの論文にある。他の仕事は、この短い一分の膨大な注釈にすぎないという言い方さえできるとひそかに思う。S親和的な人、あるいは統合失調症患者の士気向上に多少程度は役ったかもしれない。家庭医学事典などは破滅的なことが書いてあるからである。(「『分裂病と人類』について」2000年初出『時のしずく』所収ーー中井久夫と創造の病)

上の「15の耐性」が書かれたのは、「ニューアカ」の流行現象のひとつとして「スキゾ」という語が氾濫した時期にもおそらくあたるのだろう。ほとんど「スキゾ」のすすめとも読める文である。

もっとも中井久夫はドゥルーズ=浅田彰の「スキゾ」は、中井久夫の「分裂症」概念とはすこし違うと語っている。
……名称も最初から「スキゾ障害」とすればよいのではと思って提案してみたこともある(『最終講義』みすず書房,1998年)。もっとも,「スキゾ的」ということばは,フランスの哲学者がすでに少し違った意味に使っていて,勉強している精神科医は知っているから,それが妨げになるだろう。いずれも,公衆から遊離しているという批評は甘受せねばならなかったところだ。 (中井久夫「統合失調症」についての個人的コメント



いずれにせよ、いまは2000年前後の「解離」概念、それ以降の「自閉症」、あるいは「アスペ」概念などが、文化・社会的変動に伴って「流通」しているわけで、分裂親和型気質の特徴による「精神の健康」は、現在そのまま鵜呑みにするわけにはいかないにしろ、三十年経った今でも、上の「15の耐性」は示唆溢れる指摘であるだろう。


…………

11月29日、京都造形芸術大学大学にての討論 『逃走論と切断論 ―いまドゥルーズをどう読むか』 講師:千葉雅也 討論者:浅田彰・成実弘至にて、たぶん千葉雅也氏か、浅田彰のまとめなのだろう、こんなことが言われているようだ。






「フィニチュード」とあるのは、メイヤスーから来ているのだろう。あと、アスべを<傍>の思考、クローン(分身)としているところがすこし面白い。

※浅田彰のメイヤスーに言及した小論「メイヤスーによるマラルメ


ひきこもり者がつねにアスベルガー的資質をもっているわけではないだろうが、アスベの項目にアイソレーション、パーシャル、仮住いなどとされていることから窺われるように、ひきこもりやおたくの議論を想起させる要素も挙げられている。

パラノ的な社会から「逃走」するのは容易ではないので、パラノ的社会で生きるための「切断」の指針ということか。もっともわたくしはアスベの議論にはまったく詳しくない。

中井久夫がスキゾをマイノリティとしつつ、次のように書いていることをも附記しておこう(これもツイッターbotから拾ったので行分け(パラグラフ分け)の実際は不明)。

考えてみれば統合失調を経過した人は、事実において、しばしばすでに社会の少数者(マイノリティ)である。そのように考えるとすれば、少数者として生きる道を積極的にさぐりもとめるところに一つの活路があるのではあるまいか。むろん、少数者として生きることは一般にけわしい道であり、困難な生き方である。私が、他によりよい選択肢がたくさんあって、なおそう主張するのではないことは、まず了解いただけると思う。

もっとも、多数者として生きることにもそれ自体の困難性があることは忘れてはならない。現にうつ病者は統合失調症患者に比して非常に少ないわけでは決してない。彼らは、生き方のいささか”不器用”な多数者側の人といえないであろうか。多数者として生きるために必要な何かがひどく不足する人もいるが、うつ病者のように(むろん相対的に、つまりその人にとってであるが)中毒量に達している人もあるわけだ。

そして、あえていえば、統合失調症を経過した人にとって、ある型の少数者の生き方のほうが、多数者の生き方よりも、もっとむつかしいわけではなさそうである。さらに言えば、統合失調症を病む人々は、「うかうかと」「柄になく」多数者の生き方にみずからを合わせようとして発病に至った者であることが少なくない。これは、おそらく、大多数の臨床医の知るところであろう。もとより、そのことに誰が石をなげうてるであろうか。彼らが、その、どちらかといえば乏しい安全保障感の増大を求めて、そこに至ったのであるからには。しかし、それは、彼らに過大な無理を強いた。再発もまた、しばしば「多数者の一人である自分」を社会にむかってみずから押しつけて承認させようとする敢為を契機としていないであろうか。

まったく、経験、それももとよりわが国だけの、そして狭い私の経験にたよって言うことだが、寛解患者のほぼ安定した生き方の一つはーあくまでも一つであるがー、巧みな少数者として生きることである、と思う。そのためには、たしかにいくつかの、多数者であれば享受しうるものを断念しなければならないだろう。しかし、その中に愛や友情ややさしさの断念までが必ず入っているわけではない。そして、多数者もまた多くのことを断念してはじめて社会の多数者たりえていることが少なくないのではないか。そして、多数者の断念したものの中に愛や友情ややさしさが算えられることも稀ではない。それは、実は誰もが知っていることだ。(「世に棲む患者」『世に棲む患者』中井久夫より抜粋)

※参照

まずファシズム的パラノイア的な型あるいは極があり、中央主権の組織体を備給し、この組織体を歴史上の他のあらゆる社会形態にとっての永遠の目的因として、これを超備給する。またもろもろの飛び地や周辺を逆備給する。あるいは、欲望のあらゆる自由な形態を脱備給する。――そう、私はあなたたちの一族だ。優越的階級と人種に属している。もうひとつは、革命的分裂者的な型あるいは極であり、欲望の逃走線をたどり、壁をうがち、流れを交通させ、自分の機械や融合集団を飛び地や周辺の中に構築する。つまりファシズム的パラノイア的な型や極とは、逆の仕方でふるまうのだ。私はあなたたちの仲間ではない。私は永遠に劣等人種に属する。私は獣だ。黒人だ。(G・ドゥルーズ/F・ガタリ『アンチ・オイディプス(下)』宇野邦一訳)

ここでのパラノイアはラカン派的なそれとは異なることに注意→ 参照:歴史学と精神医学の”区切り”


いずれにせよ、ドゥルーズにとってパラノイア的な領域というのは、《人間であるがゆえの恥辱》の領域なのだろう。


人間であるがゆえの恥辱を、まったくとるにたりない状況で、強く実感させられることもあります。あまりにも凡俗な考え方に接したり、テレビのバラエティー番組を見たり、あるいは大臣の演説や、「楽天家」のおしゃべりを聞いたりするとき、私たちのすぐ目の前に恥辱があるのです。これは人間を哲学にかりたてる動機のうちでいちばん強いもののひとつだし、またそれがあるからこそ、哲学は必然的に政治哲学になろうというものです。(ドゥルーズ『記号と事件』)


《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)