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2013年5月22日水曜日

私の死生観(中井久夫)


「私の死生観」、――1994年「クリシアン」第427号に書かれたもの(『精神科医がものを書くとき〔Ⅱ〕』広栄社 所収)。中井久夫は1934年生まれだから、そのとき六十歳であったということになる。その数ヵ月後、阪神・淡路大震災に被災し、そのあと憑かれたようにして、「心的外傷」や「記憶」をめぐる多くの仕事を展開させたことを想起しながら読んでみよう。

……私は対人関係に不器用であり、多くの人に迷惑を掛けたし、また、何度かあそこで死んでいても不思議でないという箇所があったが、とにかくここまで生かしていただいた。振り返ると実にきわどい人生だった。(……)

昨年の三月ごろであったか、私はふっと定年までの年数を数え、もうお付き合い的なことはいいではないかという気になった。「面白くない論文はもう読まない。疲れる遠出はしない。学会もなるべく失礼する。私を頼ってくれる患者と若い人への義務を果たすだけにしよう。残された時間を考えれば、今の三時間は、若い時の三時間ではない」と思って非常に楽になった。

幸い、私はさほど大きな欲望を授からなかった。「自己実現」ということが人生の目標のようにいわれるが、私はほとんどそれを考えたことがない。私の「自己」はそれなりにいつも実現していたと、私は思ってきた。

私が恵まれているからだといえば、反論できない。確かに「今は死ぬに死ねない」という思いの年月もあった。しかし、私は底辺に近い生活も、スッと入ってしまいさえすれば何とか生きていけ、そこに生きる悦びもあるということを、戦後の窮乏の中で一応経験している。他方、もし経済的に恵まれていたならば、私はペルシャ文学などのあまり人のやらないものをやって世を送るだろうに、と大学進学のときに思った。ある外国の詩人の研究家になろうかと思ったこともある。この二つの思いは時々戻ってきた。しかし五十歳を過ぎてから、私はかなり珍しい文学の翻訳と注釈を出し、また、例の詩人の代表作を翻訳してしまった。さすがにこれが出版されたとき、私(の人生)はこれ一つでもよかったくらいだ、後はもう何でもいいという気に一時はとらわれた。
(……)私にとって、生きているとは意識があるということである。植物状態を長く続けるのは全くゾッとしないようである。高度の痴呆で永らえることも望んでいないようである。これは自分の考えを推量していっているので、自分ながら「ようである」というのである。私がわずかしか残さなかった家計を、家族がそのような私のために失うのを私は望まない。「尊厳死」という発想とは少し違うかもしれない。死の過程をーーそれもあまり長くない間――体験したいというのは、私の一種の好奇心ともいえよう。ただ、私はマゾヒストではないから、苦痛の軽減は望み、余裕のある意識で死の過程を味わいたい。また、長い痴呆あるいは植物状態を望まない主な理由は、経済的に家族を破綻させるからで、私はこれらの生命の価値を否定しているわけではない。(……)

しかし私は、ときに愛する人の死のほうが、己れの死よりもつらく悲しいのではないかと思う。そのように悲しい人のことを「愛する人」というのだろうか。(中井久夫「私の死生観――“私の消滅”を様々にイメージ」)


この短い引用だけであっても、読む人によって、いろいろ受け取り方があるだろう。

《振り返ると実にきわどい人生だった》とする還暦の男の呟きに自らの過去を振り返って共振する方がいるかもしれない。

《もうお付き合い的なことはいいではないかという気になった。「面白くない論文はもう読まない。疲れる遠出はしない。学会もなるべく失礼する。私を頼ってくれる患者と若い人への義務を果たすだけにしよう。》との感慨には、ある年配を過ぎて、付き合い的なことを避け始める、しかし、<わたくし>には、私を頼ってくれる誰か、それは一人だけでもよい、その支えがあってこそであり、もしそうでなければ、なかなかこういった境地になりえないのではないか、とも思う。それは最後の文につながってくるだろう、《私は、ときに愛する人の死のほうが、己れの死よりもつらく悲しいのではないかと思う。そのように悲しい人のことを「愛する人」というのだろうか。》


ほかにも「尊厳死」、――これは浅田彰の発話をすぐさま想起させる。

二〇世紀前半、ナチスが優生学的発想からユダヤ人のみならず障害者も虐殺しちゃったこともあって、二〇世紀後半は、とにかく生命は絶対だ、絶対に延長すべきだってことになってたけど、二一世紀は「よく死ぬ」ことも含めて「よく生きる」ことを考えていくべきなんじゃないか。僕は個人的には安楽死(「尊厳死」っていう言葉はきれいごとに過ぎると思うから)を合法化すべきだと思うし、自殺幇助の合法化すら考えていいと思う。っていうか、たとえば末期がんになった場合、金持ちなら安楽死の合法化されてるオランダやスイスに行って死ねるってのは、どうみても変でしょ。

むろん、これはものすごく微妙な問題なんで、患者の意志の確認に関しては慎重の上にも慎重を期すべきだし、ちょっとでも長く生きたいと思う人の意志がそれで少しでも妨げられることがあっちゃいけないよ。だけど、もう十分だ、自由な意志で死にたいって人がいたら、それを妨げることもないからね。(浅田彰「よく生きる」ということ

だが、ここでは、《私はかなり珍しい文学の翻訳と注釈を出し、また、例の詩人の代表作を翻訳してしまった。さすがにこれが出版されたとき、私(の人生)はこれ一つでもよかったくらいだ、後はもう何でもいいという気に一時はとらわれた。》のみにかかわる。


中井久夫に「N氏の手紙」というエッセイがある(『記憶の肖像』所収)。N氏とは西脇順三郎のこと。若き中井氏が、西脇順三郎のエリオットの『荒地』の翻訳を読み、そこにいくつかの初歩的な誤訳を見出し、西脇氏に手紙を書いたことを書き記す文だ。

……大いにためらってから、私は氏に手紙を書いた。著名人に手紙を書くのは初めてである。私が当時、鬱屈していたことは否定できない。

私は、数日後、厚い速達に驚かされた。氏は、感動的な率直さで誤訳を認めておられた。それさえ予期しないことであったが、さらに私に病いにまけないよう、過分の評価と激励のことばを添え、いくつか、私の疑問にも答えて下さった。

ここでの病いというのは次の通りである。
私は十八歳であった。そして休学中であった。休学は当時重要な病いであった結核によるものであったが、個人的な絶望もあった。むしろ結核のほうが軽症だったろう。すぐ、午前中の安静だけでいいことになった。

仰臥する私は毎朝訪れてくる朝雲が窓の上縁から顔を出しては流れ去るのを眺めていた。庇の縁が稜線でもあるかのように雲はあとかたあとから湧いて青い空を南へ、つまり下へと去って行く。秋はもう深かった。あのように鮮やかに紅の雲を私はその後見たことがない。

自分が妙なことにならないために詩の翻訳を自分に課した。これはその後、精神的危機の際の私の常套手段となった。……(「N氏の手紙」)




さて、《かなり珍しい文学の翻訳と注釈を出し、また、例の詩人の代表作を翻訳してしまった》とあるのは、前者は、『現代ギリシャ詩選』 1985や、『カヴァフィス全詩集』 1988、『括弧 リッツォス詩集』 1991であろうし、後者は、1994年には詩集としてはまだ上梓されてはいないが(それ以前に雑誌「へるめす」に発表がある)、『若きパルク・魅惑』 ポール・ヴァレリー1995であろう。


1995年1月17日午前5時46分から

最初の一撃は神の振ったサイコロであった。多くの死は最初の五秒間で起こった圧死だという。(……)私も眠っていた。私には長いインフルエンザから回復した日であった。前日は私の六一歳の誕生日であり、たまたまあるフランスの詩人の詩集を全訳して、私なりに長年の課題を果たした日でもあった。……(中井久夫「災害がほんとうに襲った時」)

ここまで来れば本来は無為。
清潔な蝉は乾きを掻き鳴らす。
全ては燃え、崩れ、空気の中で
いかなる元素にか還元される……
不安に酔えば生命は広大、
苦さは甘く、精神は明白。

(中井訳 海辺の墓地 第12節)


《もし経済的に恵まれていたならば、私はペルシャ文学などのあまり人のやらないものをやって世を送るだろうに》――、たとえば、1992年に書かれた書評(「「読書アンケート」にこたえて)『精神科医がものを書くとき』所収)こうある。


ジボナノド・ダーシュ『詩集・美わしのベンガル』臼田雅之訳

ありえないほど美しい訳。ベンガル語がわかるわけではむろんないが、リズムと母音子音の響き合いの中から、ベンガルの稲田の上にただよう靄の湿りが、密林に鳴く鳥の声が、木末を滴る雨の音が、乙女の黒髪の匂いがせまってきて、背を快い戦慄が走ります。詩人の故国ベンガルへの強い抑制のかかった烈しい愛も。……

最近の書『私の日本語雑記』でも、『美わしのベンガル』について繰り返される。《したたるほどのイメージが(いや視覚だけでなく聴覚も嗅覚も身体感覚さえも)鮮明強力に立ち上がってくるすばらしい例を挙げたい》と。


「したたる」ーー
いちじくの実が木から落ちる。それはふくよかな、甘い果実だ。落ちながら、その赤い皮は裂ける。わたしは熟したいちじくの実を落とす北風だ。

このようにいちじくの実に似て、これらの教えは君たちに落ちかかる。さあ、その果汁と甘い果肉をすするがいい。時は秋だ、澄んだ空、そして午後――

ここで語っているのは、狂信家ではない。ここで行なわれているのは「説教」ではない。ここで求められているのは信仰ではない。無限の光の充溢と幸福の深みから、一滴また一滴、一語また一語としたたってくるのだ。ねんごろの緩徐調が、この説話のテンポである。こういう調子は、選り抜きの人々の耳にしかはいらない。(ニーチェ『この人を見よ』 手塚富雄訳)


果実が溶けて快楽(けらく )となるように、
形の息絶える口の中で
その不在を甘さに変へるやうに、
私はここにわが未来の煙を吸ひ
空は燃え尽きた魂に歌ひかける、
岸辺の変るざわめきを。(「海辺の墓地」第五節 中井久夫訳)



「無限の光の充溢と幸福の深みから、一滴また一滴、一語また一語としたたってくる」ーー、他にも中井久夫が絶賛する多田智満子訳の「サン=ジョン・ペルス詩集」から引こう。


《植物の熱気、おお、光、おお、恵み!…/それからあの蠅たち あの種の蠅ときたら、庭のいちばん奥の段へと、まるで光が歌っているかのように!》


《棕櫚…!/あのころおまえは緑の葉の水にひたされたものだ。そして水はまだ緑の太陽のものであった。おまえの母の下婢(はしため)たち、大柄で肌つややかな娘らがふるえているおまえのそばで熱いふくらはぎを動かしていた…》


《…ところでこの静かな水は乳である/また 朝の柔らかな孤独にひろがるすべてのものである。/夜明け前、夢の中のように 曙を溶かした水で洗われた橋が空と美しい交わりをむすぶ。そして讃うべき陽光の幼い日々が いくつも巻いたテントの柵をつたって じかにぼくの歌に降りてくる。/…/いとしい幼年期よ、追憶に身をゆだねさえすればよい…あのころぼくはそう云ったろうか? もうあんな肌着などほしくない/…/そしてこの心、この心、ほらあそこに、心は橋の上をずるずると裾ひきずって行くがよいのだ、古びた雑巾ぼうきよりもつつましく 荒々しく/くびれ果てて…》


中井久夫は、この詩集に、二三歳の折、出会っている。
……その本は、象牙色の表紙に金文字で『サン=ジョン・ペルス詩集/多田智満子訳/思潮社』とあった。一九六七年の初夏であった。

私はただただ驚嘆した。フランス語の詩、特に象徴詩は、少年時代に親しんだことがあり、いくつかは暗誦するまでになっていたが、学者たちのこごしくこちたい邦訳は私の心の琴線を掻き鳴らすものではなかった(上田敏や永井荷風の言葉もやや遠かった)。(……)

いっとき、私は、それまでの日本詩を埃っぽいものと感じた。それほど、彼女の訳文は、むいたばかりの果実のように汚れがなくて、滴したたるばかりにみずみずしかった。(中井久夫『時のしずく』より)


若い頃にくらべ、この「滴したたるばかりにみずみずしい」感覚にめぐりあうこと少なくなったが、今でもときたま出会えないではない……(わたくしの場合、その感覚を与えてくれるのは、音楽が多い。たとえば数年まえ、長いあいだ聴かないでいた、リヒテルのシューベルトD664を、ドイツに住む音楽家一家の日本人女性にツイッター上で紹介されて聴いた時、ふいに「果実が溶けて快楽(けらく )となるよう」な感覚に襲われた…これはリヒテルの演奏で”なくてはならない”)。


…………


君たちはどこへでも好きな所に行くがいい、私はこのベンガルの岸に
残るつもりだ そして見るだろう カンタルの葉が夜明けの風に落ちるのを
焦茶色のシャリクの羽が夕暮に冷えてゆくのを
白い羽毛の下、その鬱金(うこん)の肢が暗がりの草のなかを
踊りゆくのを-一度-二度-そこから急にその鳥のことを
森のヒジュルの樹が呼びかける 心のかたわらで
私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨(いりごめのあひる)を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-
「生命(いのち)の言葉」の匂いが触れてでもいるよう その女(ひと)は この池の住み処(か)に
声もなく一度みずに足を洗う-それから遠くあてもなく
立ち去っていく 霧のなかに、-でも知っている 地上の雑踏のなかで
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このベンガルの岸に
……(『美わしのベンガル』ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅之()、花神社)


ーーこうやってダーシュの詩の読めば、まずはタゴールを想起するのが筋合いというものだろう、

《屍を焼く薪の山も徐々にひっそりとした湖畔で消え落ちる/ジャカルの叫びが疲れはてた月光の中の荒廃した屋敷の庭から聞こえてくる》(山室静訳)と。


だが『美わしのベンガル』の滔滔たる調子に、ヘルダーリンの『パンとぶどう酒』をもあわせて共鳴させよう。これらなにかはかりしれぬ大河や夜闇の感覚、その時空をこえたものを生み出すポエジーは日本の詩にはめったにないものだ。



ひっそりと街は静まる。灯のともされた小路にひと気は絶え
 松明の飾り馬車のひびきは遠ざかる
昼の楽しみにもひとは倦み 憩いをもとめて家路をたどり
 得失をかぞえ賢しい頭〔こうべ〕は
家にくつろぐ、ぶどうも花もとりかたされ
 手仕事のいとなみの跡とてなく 広場のざわめきもいまはとだえる

ふと弦の音が遠くあたりの庭からひびきだす。おそらくは
 愛するものがつまびくのか あるいは孤独な男が
遠方の友をおもい青春の日々をしのぶのか。泉は
 絶え間なくあふれ ひたひたとかぐわしい花壇にここちよい
夕暮れの大気の中 ひっそりと鐘が鳴り
 数を呼ばわり夜警が時をふれまわる。

いま風がたち 杜の梢をひそかにゆする。
 見よ! われらの大地の影の姿 月も
しのびやかにたちのぼる。陶然たつもの 夜がきたのだ。
 星々に満ち われらのことなど気にとめぬ顔に
目を見張らせ ひとの世にあり見知らぬものが
 山のかなたに悲しげにまた壮麗にたちのぼり輝きわたる。




神子氏自身の訳か? 福島大学商学論集などという場に発表されているのだが、詩の愛好者は、このように、ひっそりと目立たずに、しかし抑制された烈しい愛を洩れこぼすかのようにして、存在しているのを知ることができる。


中井久夫の仕事の隠された核は、「詩」であるなどというつもりはない。だが、あれら「分裂病〔統合失調症)論、心的外傷、記憶論の底には、詩への「抑制された烈しい愛」があるには相違ない。