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2013年8月14日水曜日

焚火




カンボジアの若い踊り手たちがジプシーのようにして訪れ近くの広場で宴をもよおしている。男たちが太鼓と笛の鳴り物、そして歌、女たちが踊り、ときおり男たちの呼び声に応えるようにして裸蹠で地を踏み鳴らしつつの腹の底から搾り出すかのような深いアルトの合いの手。ときに野卑な嬌声ともきこえるしゃがれた声音は決して無垢ではない陶酔感を齎す。

彼は立止まった。目的のない散歩だったが、煙草が無くなっているのを思い出して、また歩き出した。近所の商店街に、夜店が立並んでいるようにおもえたが、それは錯覚だった。アセチレン燈をともした夜店とか、祭りの日の神社の境内に並んだ見世物小屋とか、そのような幻覚がしきりと彼を襲った。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)





焚き火を囲んで、女たちがゆっくり動く。軀の振れはすくなく、わずかずつ右回りに歩んでゆく、ほとんど垂直の姿をたもったままの肢体と、それにひきかえ目まぐるしく表情を変える腕から先、殊更くねり狂う手頸と指先。何かに触れ、あるいは触れられるような悪徳の指先の動きの蠢動。闇夜のなかで焚火のゆらめく光に照らされただけの、それら淫らな蠢きによる闇の官能化、「桶の底をはいつくす/なめくじやむかでの踊り」(吉岡実)。そして女たちの眼が美しい、男の視線に耐えるまっ直ぐな眼差し、そこにある陽気さと諦念の混淆(もっともカンボジアの少数民族の村のものたちだから、一般的なカンボジア女性と顔つきがかなり違う)。

ふだんは露天市の立つだけの平凡な空間が突如異化され、チマタ(巷)=道の股、《異質な他者や共同体へと開かれた「交通」の場所》(赤坂憲雄)、あるいは《共同体をはみ出ておこなわれる歌垣という性的交歓の場》(西郷信綱)に変貌する。






わたしたちがふつうに歩くときの歩みは、じつにたやすく、何とも親しいものなので、それ自体として、また奇異なる行為として考察されるという名誉を得たことがない(不随や障りある身となって、わたしたちが歩みを奪われ、他人たちの歩みに感歎するという場合は別ですが) …… だから、歩みについて素朴に無知であるわたしたちを、歩みはみずから知るとおりのやり方で導いてくれます。土地の状態によって、また人間の目的や気分や状態によって、あるいはさらに道の明るさにさえ左右されて、歩みは歩みとしてある。すなわちわたしたちは、歩みというものを考えぬまま、歩みを失っているのです。(ヴァレリー「魂と舞踏」清水徹訳)




焚き火の焔がいっとき高く燃えあがり、周りを取り囲む見物人たちの姿が突如鮮明に照らされる。そして焔は急に弱まってゆき燠火のようになると、今度は踊り子たちの姿態が地からほのかに照らされるだけとなり異質の陰翳が生じる。彼女たちの軀が浮き上がるかのようであり、あるいはまた視聴覚に集中していた感覚がふと宙吊りにされ、炭火の焦げた匂い、闇の粒子の肌触りを敏感にまさぐりだす。闇が色濃くなって、向う側の観客が煙草に火をつけるガスライターのちいさな焔が蝋燭の灯にようにみえる。より闇の深い場所に眼をやれば、暗黒の壁に点綴するかのようにして巻煙草の先が赤い模様を描いている。「蛍火の今宵の闇の美しき」(虚子) 誰かが薪を継ぎ足し、焔の勢いを恢復させる。するとふたたび闇は柔らかい黒さの奥行を取り戻す。それにともなって束の間の静けさに襲われたかのような若い鳴り物師たちの荒々しさが恢復する。思いがけない半時間の刻。




「こんなに濡れていても焚火ができますの?」
「白樺の皮で燃しつけるんです。油があるので濡れていてもよく燃えるんですよ。私、焚木を集めますから、白樺の皮を沢山お集め下さい」
一面に羊歯や八つ手の葉のような草の生い繁った暗い森の中に入って焚火の材料を集めた。

皆は別れ別れになったが、KさんやSさんの巻煙草の先が吸うたびに赤く見えるのでそのいる所が知れた。

白樺の古い皮が切れて、その端を外側に反らしている、それを手頼りに剥ぐのだ。時々Kさんの枯枝を折る音が静かな森の中に響いた。

(……)

皆はまた砂地へ出た。
白樺の皮へ火をつけると濡れたまま、カンテラの油煙のような真黒な煙を立てて、ボウボウ燃えた。Kさんは小枝からだんだんに大きい枝をくべてたちまち燃しつけてしまった。その辺が急に明るくなった。それが前の小鳥島の森にまで映った。

(……)

先刻から、小鳥島で梟が鳴いていた。「五郎助」と言って、暫く間を措いて、「奉公」と鳴く。

焚火も下火になった。Kさんは懐中時計を出して見た。
「何時?」
「十一時過ぎましたよ」
「もう帰りましょうか」と妻が言った。

Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水に遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面に結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った。Kさんが後に残ったおき火を櫂で上手に水を撥ねかえして消してしまった。

舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかかっていた。舟は小鳥島を回って、神社の森の方へ静かに滑って行った。梟の声がだんだん遠くなった。(志賀直哉「焚火」)

《水夫が一人溺れて沖に沈んだ/気づかぬ母は聖母イコンの前にいって/背の高い蝋燭に火を灯した/はやく帰ってきますように 海が凪ぎますようにと/祈り 風の音にも耳をそばだてた。//母が祈りこいねがうその間/母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコンは/じっと聞いていた、悲しげに荘重に。》(カヴァフィス「祈り」中井久夫訳)






《火は人を呼ぶ。盛大な焚き火は人々を集める。人々は火を囲んで焔が一時輝き、思い切り背伸びするのをみつめる。かと思うと、焔は身をかがめて暗くなり、いっとき薪にまつわって、はらはらさせる。火を囲む人々は遠い過去の思い出に誘われがちだ。

私は思い出す、戦後の大阪駅前を。敗戦後何年か、夏でさえ、南側の広場にはいつ行っても焚き火があって人々が群がり、待ち合わせ場所にも使われていた。私も長い時間をその焚き火の側で過ごした記憶がある。時代の過酷さを忘れて人々はいっとき過去を思い出す表情になっていた。

岐阜の長良川の鵜飼の火。夏の湿った夜気。暗闇ににじむ焔の船が近づいてくる。小さく、あくまで小さく。時に燃え上がる。火の粉が散る。焔の反映は左右に流れて、水面にこぼした光のインクの一滴だ。

しかし、他の何よりも思い出を誘うのは火、ことに蝋燭の火だ。間違いない。「ロウソクは一本でいい。その淡い淡い光こそ/ふさわしいだろう、やさしい迎えだろう/亡霊たちの来る時にはーー愛の亡霊が。/……今宵の部屋は/あまり明るくてはいけない。深い夢の心地/すべてを受け入れる気持、淡い光――/この深い夢うつつの中で私はまぼろしを作る/亡霊たちを招くためにーー愛の亡霊を」(カヴァフィス)。終生独身のこの詩人の書斎の照明は最後まで蝋燭一本だったという。特にお気に入りの友が来た時は二本、稀には三本を灯したとか。》(中井久夫「焔とこころ、炎と人類」『日時計の影』所収)





ろうそくがともされた   谷川俊太郎

ろうそくがともされて
いまがむかしのよるにもどった
そよかぜはたちどまり
あおぞらはねむりこんでいる

くらやみがひそひそささやく
ときどきくすっとわらったりする
こゆびがふわふわのなにかにさわる
おやゆびがひんやりかたいなにかにさわる

きもちがのびたりちぢんだりして
つばきあぶらのにおいがする
ぬかれたかたなのにおいがする
たいこのおととこどものうたごえ

(……)

きもちがのびたりちぢんだりする
ろうそくのほのおがちいさくなって
くらやみがだんだんうすれていくと
おはようとのんきにおひさまがやってくる

いちねん じゅうねん ひゃくねん せんねん
どこまでもまがりくねってみちはつづいて
ひとあしひとあしあるいてゆくと

からだのそこからたのしさがわく