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2014年6月30日月曜日

「人間嫌い」と「人間大好き」

昼食後の息抜きの時間なり。ツイッターをいつものように眺める。

このごろ、だんだんわかってきたことですが、「人間嫌い」とはじつは自分が嫌いな人ではなかろうか。そして、その底には「人間大好き」が潜んでいるのではなかろうか。(中島義道『人生を<半分>降りる』)

その著書を読んだこともないカント学者の中島義道ツイッターbot (@yoshimichi_bot)から。

なかなか「共感」したくなるbotであり、わたくしもどちらかと言えば「人間嫌い=人間大好き」なのだが、たとえば次のようなのもある。

最近、人間として最も劣悪な種族は鈍感な種族ではないかと思うようになった。この種族は、(いわゆる)善人にすこぶる多い。それも当然で、善人とはその社会における価値観に疑問を感じない人々なのだから。『人生に生きる価値はない』中島義道
社会的成功者とは傲慢かつ単純な人種が多いので、自分の成功を普遍化したがる。こんな自分でも成功した、だからみんなも諦めずにやってみたら、という「謙虚な」姿勢の裏には、臭いほどの自負心が渦巻いている。しかも、底辺から自力でのし上がって来た人ほどこの臭気は強い。『私の嫌いな10の言葉』中島義道

さて、手元にある資料を附記しておこう。

◆《「人間嫌い」とはじつは自分が嫌いな人》から、中井久夫による「己との折り合いと他者との折り合い」。

「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」(……)

こういう眼で人をみているとなかなか面白い。ひとが自分とどれほど折り合いをつけているかは内心の問題で、それを眼で直接見ることはできないが、そのひと以外の人間との折り合いをつけうる程度というものは、眼に見えるものから多少推し量ることができる。

私は精神科医をもう長年やってきたが、その領域から例を持ち出すのはいくらでもできるし、実際、ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない。私が思い合わせるのは分裂病の一時期――決して全時期ではない!――にかんしてのものである。しかし、ここでは、そういう職業的な体験を持ち出すのはフェアではあるまい。それに、この命題はもっと一般的なものであり、ひょっとすると倫理というものの基本の一つであるかもしれない。

非常にありふれた例として、荒れている少年とか、些細な違反を咎めてとめどなくなる教師の内部をかりに覗き込むことができるとすれば、自分との折り合いが非常に難しく、自分と通じ合えなくなっているはずだと私は思う。

性というものにかんしてもそういうことができる。自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである。「片思い」の全部とはいわないが、その多くは自分と自分の肥大した幻想とが通じ合えなくて実はみずから「片思い」を選んでいるのである。さいわい多くの場合、それは一時的な通過体験であるが、もっとも「純粋」な片思いも「ストーカー」と紙一重の危ない面がある。(中井久夫「感銘を受けた言葉」ーーヴァレリーのカイエと中井久夫


◆《「人間嫌い」の底には「人間大好き」が潜んでいる》からは、プルーストによる「絶対的な蟄居の群集への度外れな愛」。

堤防に沿って歩いているそんな人たちは、まるで船の甲板を歩いているように、みんなひどくからだをゆすぶっていて(……)、ならんで歩いてゆく人たちや反対の方向からくる人たちと衝突しないように心がけながら、相手をこっそりながめ、しかも相手に無関心だと思わせるために、見て見ないふりをするのだが、そんなふうにして衝突を避けながら、やはり相手にぶつかったり突きあたったりするのは、おたがいに表面で軽蔑を装っていても、その底では、どちらからも相手にひそかな好奇心をよせているからで、群集にたいするそうした愛情は―――したがってまた恐怖は―――他人をよろこばせようとするときでも、おどろかせようとするときでも、軽蔑していることを示そうとするとこでも、あらゆる人間の内部のもっとも強い動機の一つなのであり、孤独者にあって、生涯のおわりまでつづくほどの、絶対的な蟄居でも、その根本は、しばしば群集への度外れな愛にささえられていることが多く、それが他のどんな感情よりもまさっているので、外出したとき、住まいの入口の番人や、通行者や、呼びとめた馭者などから、感心されることがないと、今度はもう彼らに見られたくない、そのためには、外出を必要とするどんな活動も断念したほうがいい、と思うようになるのだ。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳)


◆「人間大好き」にもかかわらず「迷路に踏み込んでしまう」、とするトーマス・マン。

認識と創造の苦悩との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同 じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうから だ。(……)

私は、偉大で魔力的な美の小道で数々の冒険を仕遂げて、『人間』を軽蔑する誇りかな冷たい人たちに目をみはります。-けれども羨みはしません。なぜならも し何かあるものに、文士を詩人に変える力があるならば、それはほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのですから。 すべての暖かさ、すべての善意、すべての諧謔はみなこの感情から流れ出てくるのです。(トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」)


◆人間嫌いでないひと、人間観察を好まないひと、「無私の人」は、実は「人間軽蔑者」ではないかい?

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五 原佑訳 ちくま学芸文庫)
身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)


《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」手塚富雄訳)


もっとも、礼儀や信頼の象徴的効果を侮ってはならないだろう。礼儀や信頼関係に騙されないひとは間違える(参照:騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent)。軽蔑やいじわるな態度をとれば、相手はいっそう悪くなる。

悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 (ニーチェ『曙光』76番)

これは通俗道徳ではあるが、この通俗道徳で、われわれの生は99%やっていける。隠遁していてすむような職業でなければ、ひとはニーチェやプルーストの態度をいつもとっているわけにはいかない。ただその通俗道徳を超えた「極地が存在する」。そのことに意識的でなければならない。

現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオや テレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。

これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。(大岡昇平『常識的文学論』)


《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》(アラン)


私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプチミスム」

「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」

前投稿にて、柄谷行人の『探求Ⅱ』からつぎの文を引用した。

他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを”超越的”な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。デカルトは、そのような人々の間にまじって「真理」を説くことを回避したが、というのも、彼の懐疑は、どのような共同体(システム)にを属さない空=間においてしか根拠がなかったからである。それは、さまざまな真理を幻想とみなすメタレベルではありえない。

夢のなかで夢をみていることを自覚しても、なおひとが夢をみていることには変わりない。デカルトは、ひとが完全にめざめる(夢の外部に出る)ことができるなどとは考えない。つまり、彼は超越的立場を斥ける。彼の方法は、カントやフッサールの用語でいえば、超越論的なのである。超越論的な方法によってしか、幻想を幻想とみなす、逆にいえば真理を基礎づけることはできない。が、超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』P90)

《他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを超越的な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ》とあるが、これはわれわれは日夜やっている(たとえばインターネット上で)のであり、かなりの割合の言説は「メタレベル=超越的」であるということになる。では上のように書いている柄谷行人の言説はどうか。ここだけ読めば、やはり「超越的」のようにみえてしまうのではないか。それについても前投稿(「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」)に叙した。

さて柄谷行人の立場とは次のようであった。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」ーー
象牙の塔(メタレベル)不在の「美しい日本の私」

柄谷行人は、冒頭の文にかんしても、日本的環境、《経験論がドミナントである》環境において、《合理論からそれを批判した》ということになるのだろうか。

ここで柄谷行人が好んで引用するデカルトの『方法序説』のなかから代表的な一文のひとつを抜粋してみよう。

私は、すでに学校時代に、どんな奇妙で信じがたいことでも哲学者の誰かが既に言っているものだ、ということを知った。またその後旅に出て、 我々の考えとは全く反対の考えを持つ人々も、だからといって、みな野蛮で粗野なのではなく、それらの人々の多くは、我々と同じくらいにあるいは我々以上 に、理性を用いているのだ、ということを認めた。

そして同じ精神を持つ同じ人間が、幼時からフランス人またはドイツ人の間で育てられるとき、仮にずっとシナ人や人食い人種の間で生活してきた場合 とは、いかに異なったものになるかを考え、また我々の着物の流行においてさえ、十年前には我々の気に入り、また十年経たぬうちにもう一度我々の気に入ると 思われる同じものが、今は奇妙だ滑稽だと思われることを考えた。

そして結局のところ、我々に確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもか かわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であることの方がはるかに真実らしく思われるのだから、 そういう真理にとっては賛成者の数の多いことは何ら有効な証明ではないのだ、ということを知った。

こういう次第で私は、他を置いてこの人の意見をこそ取るべきだと思われる人を選ぶことができず、自分で自分を導くということを、いわば強いられたのである。(デカルト『方法序説』)

ジジェクはこのデカルトの一文を『パララックス・ヴュー』の冒頭近くでそのまま引用している。

I had been taught, even in my College days, that there is nothing imaginable so strange or so little credible that it has not been maintained by one philosopher or other, and I further recognized in the course of my travels that all those whose sentiments are very contrary to ours are yet not necessarily barbarians or savages, but may be possessed of reason in as great or even a greater degree than ourselves. I also considered how very different the self-same man, identical in mind and spirit, may become, according as he is brought up from childhood amongst the French or Germans,or has passed his whole life amongst Chinese or cannibals. I likewise noticed how even in the fashions of one's clothing the same thing that pleased us ten years ago, and which will perhaps please us once again before ten years are passed,seems at the present time extravagant and ridicu-lous. I thus concluded that it is much more custom and example that persuade us than any certain knowledge, and yet in spite of this the voice of the majority does not afford a proof of any value in truths a little difficult to discover, because such truths are much more likely to have been discovered by one man than by a nation. I could not, however, put my finger on a single person whose opinions seemed preferable to those of others, and I found that I was, so to speak, constrained myself to undertake the direction of my procedure.

『パララックス・ヴュー』の前半は、柄谷行人の『トランスクリティーク』の吟味のような箇所が多い。そもそも『パララックス・ヴュー』という題名は、柄谷行人がこの書で記述する「強い視差 parallax」から借りたものであるから当然といえば当然であるが。

『視霊者の夢』から『純粋理性批判』への移行はこのように明白である。にもかかわらず、後者を読みためには、前者を参照しなければならない。カントの独特の「反省」の仕方が『視霊者の夢』にあらわれているからだ。《以前に私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した、今私は自分を自分のでない外的な理性の位置において、自分の判断をその最もいそかなる動機もろとも、他人の視点から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある》(『視霊者の夢』)。ここでカントがいっているのは、自分の視点から見るだけでなく、「他人の視点」からも見よ、ということではない。そのようなことならありふれている。なぜなら、「反省」とは他人の視点で自分を見ることであり、哲学の歴史はそのような反省の歴史なのだから。しかし、ここでカントがいう「他人の視点」はそのようなものではない。それは「強い視差 parallax」においてしかあらわれない。(『トランスクリティーク』P77-78)
ハイデガーは、カントの超越論的( transcendental)な批判を、深みに向かう垂直的な方向において理解する。しかし、それは同時に、いわば横断的( tramsversal)な方向において見られねばならない。そして、私はそれを〈 transcritique〉と呼ぶのである。 P150

柄谷行人にとっては「トランスクリティーク」とは、すなわち「超越論的批評」を意味する。

ジジェクは、『パララックス・ヴュー』にて、上記の柄谷行人の文の一部を引用して次のようなコメントをつけている。

Kant's stance is thus “to see things neither from his own viewpoint, nor from the viewpoint of others, but to face the reality that is exposed through difference (parallax).” (Is this not Karatani's way of asserting the Lacanian Real as a pure antagonism, as an impossible difference which precedes its terms?)

ところで、ジジェクは上に掲げたデカルトの『方法序説』の文の引用のあと、このデカルト文の柄谷行人解釈をめぐって次のように記している。

Thus Karatani is justified in emphasizing the insubstantial character of the cogito: “It cannot be spoken of positively; no sooner than it is, its function is lost.” The cogito is not a substantial entity but a pure structural function, an empty place (Lacan's $)— as such,it can emerge only in the interstices of substantial communal systems. The link between the emergence of the cogito and the disintegration and loss of substantial communal identities is therefore inherent, and this holds even more for Spinoza than for Descartes: although Spinoza criticized the Cartesian cogito, he criticized it as a positive ontological entity—but he implicitly fully endorsed it as the “position of the enunciated,” the one which speaks from radical self-doubting, since, even more than Descartes, Spinoza spoke from the interstices of the social space(s), neither a Jew nor a Christian.(ZIZEK” The Parallax View”)

ここに”an empty place (Lacan's $)”という表現があることに注目しておこう。すなわちデカルトのコギトは、ラカンの斜線を引かれた主体のことである、というジジェクの見解である。ところで柄谷行人の『トランスクリティーク』には次のような文がある。

デカルトは、「思う」をあらゆる行為の基底に見出す。《それでは私は何であるのか。思惟するものである。思惟するものとは何か。むろん、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲しない、また想像し、そして感覚するものである》(『省察』)。このような思考主体は、カントによれば、「思考作用の超越論的主観すなわち統覚X」である。私はこのような言い方を好まないが、カントのいう「超越論的主観X」とは、いわば「超越論的主観〔「主観」に×印を上書きする〕」である。それはけっして表象されない統覚であって、それが「在る」というデカルトの考えは誤謬である。しかし、デカルトのコギトには、「私は疑う」と「私は思う」という両義性がつきまとっており、しかもそれらは超越論的自我について語るかぎり避け難いものである。(『トランスクリティーク』p132)


さて、次に『トランスクリティーク』より、カントに「超越論的な態度」が生じた経緯が書かれる箇所をあげる。

『視霊者の夢』に書かれているのは、端的にいえば、それまでライプニッツ・ヴォルフの合理論的哲学に立っていたカントが自身いうように、ヒュームの経験論的な懐疑を受けいれざるをえず、なお、それにも満足しえなかった状態である。それから『純粋理性批判』にいたるまで、彼は十年ほど社交界からもジャーナリズムからも離れて沈黙した。カントが「超越論的」と呼ぶ態度は、その間に生じたのである。『純粋理性批判』は、主観的な内省とは異質であるだけでなく、「客観的な」考察とも異質である。超越論的な反省は、あくまで自己吟味であるが、同時に、そこに「他人の視点」がはいっている。逆にいえば、それはインパーソナル(非人称的)な考察であるにもかかわらず、徹頭徹尾、自己吟味なのだ。

人々は、この超越論的態度をたんなる方法として受けとめてしまう。そして、カントが見いだした無意識の構造を、まるで所与のもののように論じる。だが、超越論的な態度は「強い視差」なしにありえなかった。カントの方法は主観的であり、独我論的であると非難される。しかし、それはつねに「他人の視点」につきまとわれているのだ。『純粋理性批判』は『視霊者の夢』のように自己批評的に書かれていない。しかし、「強い視差」は消えてはいない。それはアンチノミー(二律背反)というかたちであらわれたのである。それは、テーゼとアンチテーゼのいずれもが「光学的欺瞞」にすぎないことを露出するものだ。しかし、それはたんに論理的な記述として受けとられてしまう。

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(『トランスクリティーク』P80-81)


ジジェクは柄谷行人の見解に同調するように、次のように書いている。

Far from designating a “synthesis” of the two dimensions, the Kantian “transcendental” stands, rather, for their irreducible gap “as such”: the “transcendental” points to something in this gap, a new dimension which cannot be reduced to either of the two positive terms between which the gap is gaping. And Kant does the same with regard to the antinomy between the Cartesian cogito as res cogitans, the “thinking substance,” a self-identical positive entity, and Hume’s dissolution of the subject in the multitude of fleeting impressions: against both positions, he asserts the subject of transcendental apperception which, while displaying a self-reflective unity irreducible to the empirical multitude, nonetheless lacks any substantial positive being—that is to say, it is in no way a res cogitans.(ZIZEK” The Parallax View”)

しかし、この後、柄谷行人の「超越論的仮象ranscendental illusion」の解釈に異議をとなえる。

Here, however,we should be more precise than Karatani, who directly identifies the transcendental subject with transcendental illusion:

yes, an ego is just an illusion, but functioning there is the transcendental apperception X. But what one knows as metaphysics is that which considers the X as something substantial.Nevertheless, one cannot really escape from the drive [Trieb] to take it as an empirical substance in various contexts. If so, it is possible to say that an ego is just an illusion, but a transcendental illusion.(KARATANI)

※柄谷行人原文
(カントはそれに対して、)自己は仮象であるが、超越論的統覚Xがあるといった。このXを何らかの実体にしてしまうのが、形而上学である。とはいえ、われわれは、そのようなXを経験的な実体としてとらえようとする欲動から逃れることはできない。したがって、自己とは、たんなる仮象ではなく、超越論的な仮象である。(『トランククリティーク』)

The precise status of the transcendental subject, however, is not that of what Kant calls a transcendental illusion or what Marx calls the objectively necessary form of thought. First, the transcendental I, its pure apperception, is a purely formal function which is neither noumenal nor phenomenal—it is empty, no phenomenal intuition corresponds to it, since, if it were to appear to itself, its self-appearance would be the “thing itself,” that is, the direct self-transparency of a noumenon. The parallel between the void of the transcendental subject ($) and the void of the transcendental object, the inaccessible X that causes our perceptions, is misleading here: the transcendental object is the void beyond phenomenal appearances, while the transcendental subject already appears as a void.(ZIZEK” The Parallax View”)

このあたりは、両者のカント解釈の相違、そしてジジェクのヘーゲル(あるいはラカン)への傾斜にかかわるのだろうが、おそらくそれだけではない(というか、わたくしにはいまだ判然としない)。たとえばジジェクはこの『パララックス・ヴュー』の後に書かれたもうひとつの主著『LESS THAN NOTHING』で自己とはフェティッシュな仮象(イリュージョン)と書いている。

《the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")》

私がカントのパララックス的把握を重視したのは、それによってヘーゲルによる弁証法的総合を批判するためであった。しかし、ジジェクは、ヘーゲルにおける総合(具体的普遍)にこそ、真にパララックス的な見方がある、したがって、私のヘーゲル観は的外れだ、というのである。それに対して、私は特に、反対しない。私のカントが通常のカントと異なるのと同様に、ジジェクのヘーゲルも通常のヘーゲルではないからだ。(パララックス・ヴュー 書評

ジジェクが同調する柄谷行人の《デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだした》も、いまでは別の観点(たとえば新たなヒューム解釈)があるのだろう。

柄谷行人は『トランスクリティーク』の註44で、次のように書いている。

……彼(ドゥルーズ)は、ヒュームやベルクソンを一方で称えながら、他方で、スピノザ、さらにライプニッツをも称えている。つまり、そのいずれをも肯定することによって、それらを暗に批判しているのである。その意味で、彼がやっているのは、カント=マルクス的なトランスクリティークであるといってよい。実際、彼は『ニーチェと哲学』において、ニーチェの仕事をカントの三批判の続編と見なし、『アンチ・オイディプス』において、マルクスやフロイトの仕事を「超越論的批判」と見なしている。しかし、一般に、ドゥルーズは、美学的なアナーキストたちの愛玩物となっている。彼らは、ドゥルーズが死ぬ二年前のインタビューで「私は完全にマルクス主義者だ」と語ってことなど、まったく無視している。そしてドゥルージアンの多くは、ベルクソニズムにまで退行してしまう。

2001年に行われた共同討議『トラウマと解離』(斉藤環・中井久夫・浅田彰)における浅田彰の発言は、あきらかに『トランスクリティーク』の変奏である。

メディア環境がどんどん解離的な状況を作り出す方向に向かっているのは、よく言われるとおりで、かなりの程度まで事実だろうと思います。メディアに接続することで、ここにいる自分とメディア空間の中の自分が多数多様なペルソナーー場合によっては性を年齢も異なったーーを演じ分けることができる、云々。

また逆に、そこから人間自身の捉え方も変わってくるんですね。統一性のもった心身で手ごたえのある世界を体験する、それこそがリアリティだと言うけれど、哲学的に反省してみれば、実はそれもヴァーチュアル・リアリティのひとつに過ぎない、と。

そもそも、人工知能のパイオニアのミンスキーが『心の社会』という表現を使っているように、心というのは多数のモジュールないしエージェントが統一的なプログラムなしに並列して走っているようなもので、その中には意識としてドミナントになるものもあるけれど、それとは別のリズムで意識には上らないまま動いているものもある、その総体が心なんだ、と。(……)人口知能で複数のモジュールを並列的に走らせる実験から逆に類推して、人間だって同じようなものだと考えるわけです。

こうした流れが、フロイトからジャネへの退行にもつながるわけでしょうし、柄谷行人流に言えばカントからヒュームへの退行につながるわけでしょう。ヒュームは、自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ、と考えている。自己の一貫性と言ったって、選挙で内閣が替わっても外国との約束は引き継ぐという程度のものだ、と。ヒュームによるそういう徹底的な解体の後に、カントが、超越論的統覚Xという、いわばどこにもないものを持ってきて、新たな統合を図るわけですね。(……)

まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。

現在、「超越論的」な態度が論じられるとき、このあたりを視野においていないようにみえる言説にめぐりあうことがあるのだがーーたとえば極めつけは、カントの態度を「超越論的主体」(フッサール的な「超越論的自我」? といえばフッサールにも失礼に当たる:【参照】「人間的主観性のパラドックス」覚書)などとだけし、しかもそれを「自分語り」だなどと決めつけるだけの、《解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」》、そのファストフード的消費者風の驚くべき寝言(超越論的「主体」と超越論的「領野」の言葉だけに捉われているとしか思えない)ーー、どの見解をとるにしろ、これら柄谷行人やジジェクの観点をやりすごして(おそらくほかにも種々の見解があるのだろうが)、素朴に語るのは、いささか厚顔無恥という気味があるのではないか。上にも書いたが、柄谷行人の『トランスクリティーク』は「超越論的批評」を意味する書名なのであり、またジジェクの『パララックス・ヴュー』とは「超越論的見方」を意味する書名なのだから(そして彼らが二十世紀後半から今世紀かけてカントの「超越論的」のまわりをめぐって考えている「代表的な」思想家の二人であるはずであるから)。

もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。哲学の理論体系はだいたいヘーゲルで完成されており、それと現実とのずれの中でヘーゲル的な円環を突き破るようにしてマルクスの意味での批判=批評というのが始まり、我々もその前提の上でやってきた。(浅田彰

上に「驚くべき寝言」としたが、《私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する》のは、ツイッターなどのSNSだけではなく、ブログなども似たりよったりなのだろう。わたくしも気づかぬままに、似たような寝言を書いていないとは決して断言しがたい。

「《思想》とか《内的構想》が書物に先立って、書物は単にそれを書き表すだけだ、と考える単純な先行論」の一般化された形式を、「イデアリズムと呼ばれる伝統批評」にほかならぬと彼(デリダ)は断じている(……)。だが、「神学」的たることをまぬがれぬこの「伝統批評」の観念論――そこには、私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」も含まれようーーは、彼にとって文学の批評の名に値するものとはいいがたい。なぜなら、それは「神学」的な解釈手段を無自覚に文学に適用したものでしかなく、そこには批評など成立しようもないからである。(蓮實重彦「「本質」、「宿命」、「起源」」)

だが、なぜこのようなことが起ってしまうのか。

今人々は、『内部』の閉域での符牒のやったり取ったりだけでコミュニケーションの用は足りると信じ、言語というこの怪異な化け物への畏れをすっかり失ってしまっているようです。(松浦寿輝 古井由吉との対談『色と空のあわいで』2007)

本来は、いまのような複雑な世では、一つの考えや状態を人に伝えるのに、どうしてもワンセンテンスの呼吸が長くなるはずなんです。切れ切れの話でやったららちがあかない。もちろん、複雑な事態を複雑なまま、できるだけ正確に伝えるのは難しいが。まずは、一つ呼吸を長くする、というようなことでしょうか。(古井由吉さん 衰えゆく言葉を鍛えよ

「符牒」の時代であり、「呼吸の短さ」の時代、それはツイッターやブログに「スローガン」的短文を書いて事足れりとする病気の時代でもある。

……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。〔蓮實重彦「時限装置と無限連鎖」)

…………

※附記:ドゥルーズの超越論的経験論の浅田彰解釈(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人)より)。

ドゥルーズは「超越論的経験論」という一見逆説的なことを言っている。ただちに経験論につく前に、いちど徹底的に超越論的であれねばならない、というわけです。

その立場から見たときに、カントはたしかに超越論的領野を発見したけれども、それを経験的領野の引き写しにしてしまうことで、超越論的な探求を中途半端に終えてしまった、ということになる。

つまり、「私とは一個の他者である」というランボーの言葉を先取りするような形で、超越論的な自己と経験的な自己の分裂、見方を変えれば自己の諸能力の分裂を発見しながらも、経験的領野において前提されていたデカルトの「良識(ボン・サンス)」につながるような「共通感官(コモン・サンス)」における諸能力の調和を密輸入することで、そのような分裂をあまりに性急に縫い合わせてしまった、ということになるわけです。

ただし、カント自身、晩年の『判断力批判』において、「美」の共通感官を論じたあと、「崇高」を論じたところで、それを超える方向を示している。その方向を徹底的に突き進めなければならない。

諸能力を、超越論的というより、超越的に使用すること、つまり、それぞれの能力がそれぞれの原理に従って行くところまで行くようにに仕向けてやることで、「ボン・サンス」や「コモン・サンス」の閉域を突き破り、やはりランボーが「あらゆる感覚の錯乱」と呼んだような非人称的な高次の経験へと突き抜けていかなければならない。そのような経験に定位するのが、高次の経験論、つまり超越論的経験論だということになるわけです。

そういう超越論的経験論の次元での超越論的領野は、さらに存在論の次元では「成立平面(プラン・ド・コンシスタンス)」あるいは「内在的平面(プラン・デイマナンス)」と呼ばれるんですね。ドゥンス・スコトゥスが「一義的な存在」を提示し、スピノザがそれを「神即自然」として肯定し、ニーチェがさらにそれを動態化して「永遠回帰」と呼んだ。

この動態化のキーになるのは、「回帰とは生成の存在である」という規定で、それが示すのは、アナーキックな生成が行き着くところまで行けば自ずと堅固さ=一貫性(コンシスタンス)を持つ―――カオスー彷徨(カオエランス)とひとつであるような一貫性(コエランス)を内在的に獲得するということです。

もはやそれを超越する外部の点をもたないこのような領野が、「成立平面(プラン・ド・コンシスタンス)」あるいは「内在的平面(プラン・デイマナンス)」と呼ばれるわけですね。

さらに、ベルグソン哲学との関連では、そのような領野は「潜在的<潜勢的>なもの(ヴィルチユエル)」の場として規定されます。そこでは、差異的=微分的differentielな諸関係とそれに対応する諸特異点から成る潜在的な多様体があって、それが分化differenciarionの過程を通じて顕在化<現働化>(アクチュアリゼ)されることで、現象が構成されることになるんですね。

このように呼び方はさまざまですが、ともあれ、カオス的な領野があって、そこでは私も世界も多数多様な粒子と流束の群れになっているというわけです。したがって、それは独我論の対極に見える。

しかし、すべてがひとつの「内在平面」の内にあって、私も複数、他者も複数なのだから、そこに他者性はない。その意味で、ドゥルーズの哲学は、過激な独我論―――自我さえ必要としないほど過激な独我論だと言ってもいいのではないかと思うんです。

『意味の論理学』(69年)の付録でクロソウスキーとトゥルニエを論じているところを比較してみると、それがよくわかるでしょう。クロソウスキー論で描かれているのはまさに多数多様性の世界であって、カントにおいてまだ保たれていた自我と世界と神の統一性が解体し、すべてが多数多様な変容へと解き放たれる―――小説に描かれたアレゴリーで言うと、一個の身体の中に複数の霊が入ったり出たりして、狂気のような永遠回帰のロンドを踊るということになるわけですね。

ところが、トゥルニエ論の方では、そのような世界は実は孤島のロビンソンに対して現れるのだと言っているんです。ロビンソンが一人で島に流れ着く。それは他者のない世界なんですね。ドゥルーズは、他者というのは「可能世界の表現」だと言う。私の知覚野は狭いけれども、他者は私に見えないものが見えているかもしれないし、私に感じられないものが感じられているかもしれないし、そもそも、そのような他者がいるからこそ知覚野が共同主観的構造として整然と秩序化されているのだ、と。しかし、それは現象のレヴェルの問題にすぎない。たしかに、そういう他者がいなくなると、最初、世界の秩序が崩壊して、ロビンソンは非常な苦しみを体験する。しかし、それを突き抜けていくと、ロビンソン自身も島全体がエレマン(諸元素)の群れとなって立ち上がり、コスミックなロンドを踊り始める。フライデーが出てきても、他者としてではなく、すでにエレマンテールなものとして出てくるにすぎない。それがトゥルニエの偉大な独我論的ファンタスムなのだ、というわけです。

それと併せて見れば、ドゥルーズは、ニーチェからクロソフスキーに至る多数多様性のヴィジョンを、むしろトゥルニエ的な独我論の相で見ていると言えるのではないか。

もしそう言えるとしたら。それを具体的な「外」と接合していくきっかけになったのが、交通の人としてのガタリとの遭遇だ、というのが、最初に言った仮説の後半なのですけどね。

―――浅田彰は、この引用の冒頭に、次の仮説を提出している。

ドゥルーズは、最も正統的な哲学史家であり、最も正統的な哲学者であって、まさにそのことによって哲学史や哲学を突き抜けた。ただし、それは、独我論者―――もはや自我も必要としないほど過激な独我論者としての突き抜け方だった。それに対し、ガタリは最も過激な交通の人として現れてくる。そして、極端な独我論者と極端な交通の人の遭遇から、『千のプラトー』を頂点とする奇跡的な果実が生み出される。しかし、ドゥルーズ自身は、それ以前も、その以後も、良くも悪くも非常に正統的な哲学者だった。

※附記:カオスとは?(同じく浅田彰の発言による)
丸山圭三郎派の幼稚なカオス概念、つまり言語的に分節化されない一様な混沌がカオスだと言うなら、もちろんそのようなカオスはドゥルーズにはない。むしろ、カオス―――少なくとも内在平面においてとられられたカオスは、それ自体、とことん差異化=微分化されていて、さまざまな特異点がひしめいている。そのようなものをカオスと呼ぶなら、それは潜在的多様体として存在する。




2014年6月29日日曜日

「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」

周知のように、ある語り手による物語というかたちをとった小説では、一人称代名詞、直接法現在、時間的・空間的な位置決定の記号はけっして正確には作家にも、彼が現に書いている時点にも、彼の書くという動作そのものにも送り返しはしない。それらは、もうひとつの自己へ-そこから作家までのあいだに程度の差はあれ距離が介在するばかりか、その距離が作品の展開してゆく経緯そのものにおいても可変的でありうるようなもうひとつの自己へ、と送り返すのです。作者を現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで、-この分割と距離のなかで作用するのです。(フーコー『作者とは何か?』清水徹・豊崎光一訳)

…………

古井由吉は徳田秋声の「私小説」を次のように顕揚する。

まず意志からみる、意志から聞く、性格の事ではなかった、と私は見る。意志が最初の力として働いていれば、視野はおのずと自我を中心としてしぼられるだろう。時間もまた自我の方向性をもつ。ところが秋聲の小説においては、主人公が他者との葛藤の只中にあり、情念に揺すぶられている時でさえも、その姿は場面の中にあって、描写される。手法のことを言っているのではない。本質的に、描写される存在として、作者の目に映っているのである。これをたとえば漱石の、たとえば『道草』の同様の場面とくらべれば、差違は歴然とするはずだ。漱石の場合は、主人公の情念が場面に溢れ、場面を呑みこむ。つまり自我の空間となる。((……)

……自我を立てる。捩れていようと歪んでいようと、折れていようと曲がっていようと、とにかく自我を立てることによって成り立つ。それによって現実を得、現実を失う。そういう態の私小説にたいして、自我を抱えながら身上話の客観性へ身を臥せる、水平へひろがり深くなる態の私小説があり、秋聲文学は後者の第一人者ではないか。 (古井由吉「私小説を求めて」)

もちろんみずからこう叙すことからわかるように、これが古井由吉の小説の方法でもあるだろう。

とにかくある人物ができかかって、それが何者であるかを表さなくてはならないところにくると、いつも嫌な気がしてやめてしまう。そんなことばかりやつていたんです。で、なぜ書けるようになったかというと、本当に単純なばかばかしいことなんです。「私」という人称を使い出したんです。……そうしたらなぜだか書けるんです。今から考えてみると、この「私」というのはこのわたしじゃないんです。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。だけど「ぼく」という人称を作品中で使う場合、かえってしらじらと自分から離れていくんです。(……)

…… この場合の「わたし」というのは、わたし個人というよりも、一般の「私」ですね。わたし個人の観念でもない。わたし個人というよりも、もっと強いものです。だから自分に密着するということをいったんあきらめたわけです。「私」という人称を使ったら、自分からやや離れたところで、とにもかくにも表現できる。で、書いているとどこかでこの「わたし」がでる。この按配を見つけて物が書けるようになったわけです。 (『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス(作家の方法)』)

――という文は、ヘルダーリン起源なのかもしれない(古井由吉はドイツ文学者でもある)。

もし私が、私は私だというとき、主体(自我)と客体(自我)とは分離さるべきものの本質が損なわれることなしには、分離が行われて統一されることはありえない。逆に、自我は、自我からの自我のこの分離を通じてのみ可能なのである。私はどうやって自己意識なしに、“私!”と言いうるというのだろう?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」私訳)

When I say: I am I, the Subject (Ego) and the Object (Ego) are not so united that absolutely no sundering can be undertaken, without destroying the essence of the thing that is to be sundered; on the contrary the Ego is only possible through this sundering of Ego from Ego. How can I say “I” without self‐consciousness? (Friedrich Hölderlin)

<ドイツ語原文>
Ich bin Ich, so ist das Subject (Ich) und das Object (Ich) nicht so vereiniget, daß gar keine Trennung vorgenommen werden kann, ohne, das Wesen desjenigen, was getrennt werden soll, zu verlezen; im Gegenteil das Ich ist nur durch diese Trennung des Ichs vom Ich möglich. Wie kann ich sagen: Ich! ohne Selbstbewußtseyn? Wie ist aber Selbstbewußtseyn möglich? (Urtheil und Seyn)


…………

ところで、たとえば柄谷行人の『探求Ⅱ』にはこうある。

他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを”超越的”な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。デカルトは、そのような人々の間にまじって「真理」を説くことを回避したが、というのも、彼の懐疑は、どのような共同体(システム)にを属さない空=間においてしか根拠がなかったからである。それは、さまざまな真理を幻想とみなすメタレベルではありえない。

夢のなかで夢をみていることを自覚しても、なおひとが夢をみていることには変わりない。デカルトは、ひとが完全にめざめる(夢の外部に出る)ことができるなどとは考えない。つまり、彼は超越的立場を斥ける。彼の方法は、カントやフッサールの用語でいえば、超越論的なのである。超越論的な方法によってしか、幻想を幻想とみなす、逆にいえば真理を基礎づけることはできない。が、超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』P90)

《他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者》が、なぜ超越的(メタレベル)なのかは、他人を対象化して、おのれを階層的秩序の上においているからだ。《「メタ言語的陳述」と呼ばれているものは、支配の論理にほかならぬ(……)。「超=メタ」であることとはとりもなおさず階層的秩序の上位に位置することを意味する》(蓮實重彦『物語批判序説』)

柄谷行人の文は、メタレベルがありえないこと、あるいはデカルトの「超越論的態度」を称揚する「内容」をもっている。言表内容としては、メタレベル批判である。だが言表行為に注目してみよう。とすればたちまちメタレベルがありえないことをメタレベルから語っているようにみえないでもない。すなわち超越論的態度を顕揚する超越的ディスクールであると。もちろん文章を短く切り取ったからいっそうそのように見え勝ちだという側面はあるが、この文の前後を読んでみても、上方に向かっていて、《横に出ること》をしていないという印象を受ける(あくまでわたくしの印象である)。

古井由吉の云う《自我を抱えながら身上話の客観性へ身を臥せる、水平へひろがり深くなる》姿態、--ここではその態度を「超越論的」態度としてみるがーーそれをみることはむずかしい。これがロラン・バルトが支配の論理、父性原理の権化である論文形式をひどく嫌った理由であろう。

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)
メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。(ロラン・バルト『作品からテクストへ』)

ーーだがバルトの言葉さえこうやって抜き出せば、メタレベルではないか、という疑義が湧かないでもない。バルトが最晩年のコレージュ・ド・フランスの講義の主題は、『小説の準備Ⅰ、Ⅱ』(1978~1980)であったこと、プルーストのような小説を書きたいと願ったことはそれにかかわる。バルトはこの講義録の導入部で、次の日記を読み上げている。

悲しみ。ある種の倦怠感。自分がしたり、思ったりするすべてのことにまつわるとぎれることのない(最近、喪に服していらいの)、同じ倦怠感(心的エネルギーの備給の不在)。帰宅。空虚な午後。ある困難な瞬間。午後(のちに語る)。たった一人。悲しみ。塩漬けのような状態。私は、かなりの強度で思考する。あるアイディアが不意にわきあがる。文学的な回心のようなものーー古くさい二つの単語が心によみがえる。文学に踏み込むこと。エクリチュールに踏み込むこと。これまで自分がやったことのないようなやり方で、書くこと。もう、それしかやらないこと。まず、エクリチュールによる生を統一するために、コレージュをやめること(講義は、しばしば書くことと葛藤状態に陥るから)。続いて、講義と仕事とを同じ企て(文学的な)へと投入し、主体の分割を停止せしめ、たった一つの計画、偉大なる計画を優先させること。(ロラン・バルト「日記」1978年4月15日 カサブランカにてーー嘘によってしか愛するものを語ることはできない


…………

…… 自分が自分の言語の総体に、秘かですべてを語り得る神のように、住まってはいないことを学ぶ。自分のかたわらに、語りかける言語、しかも彼がその主人では ないような言語が、あるということを発見するのだ。それは努力し、挫折し、黙ってしまう言語、彼がもはや動かすことのできない言語である。彼自身がかつて 語った言語、しかも今では彼から分離して、ますます沈黙する空間の中を自転する言語なのだ。そしてとりわけ、彼は自分が語るまさにその瞬間に、自分がつね に自分の言語の内部に同じような仕方で居を構えているわけではないということを発見するのであり、そして哲学する主体……の占める場所に、一つの空虚が穿 たれ、そして無数の語る主体がそこで結び合わされては解きほぐされ、組み合わさっては排斥し合うということを発見するのだ。 (フーコー『外の思考』豊崎光一訳)
……の作品はこの分裂を、言葉のさまざまに異 なる水準への絶えざる移行によって、言葉を口にしたばかりの〈私〉、もうすでに言葉を繰りひろげたり言葉の中に腰を据える用意ができている〈私〉に対する 組織的な断絶によって、はるかにまざまざと示しているのだ-時間における断絶(「私はこれを書いていた」とか、さらに、「私が後もどりして、またこの道を 行くなら」)、言葉とそれを語る人とのあいだの距たりにおける断絶(日記、手帖、詩、短編、省察、論証的言説など)、思考し書く主権性に内部的な断絶(著 述、無署名の文章、自分の著述に寄せる序文、付加したノートなど)。そして、哲学する主体のこの消滅の中核をこそ、哲学的言語は迷路の中でのように前進し てゆくのであり、それも主体をふたたび見出すためにではなくて、その喪失を(しかもその言語によって)限界に至るまで、ということはその実体が現出する、 だがすでに失われ、全面的にみずからの外に拡がって、絶対的空虚に至るほどに自己を空虚にされて現出するあの開口に至るまで、経験するためなのだ……。(同上)

…………

ここで唐突に、超越的/超越論的とは、じつはイロニー/ユーモア的態度のことではないか、という問いを発してみよう。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)
ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。

おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。(……)超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとすることと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しないのである。(同P411)

柄谷行人は『ヒューモアとしての唯物論』でフロイトのこの論文をめぐって次のように書いている。

フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己をーー時には(三島由紀夫のように)死を賭してもーー蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。(……)それがメタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。

他方、ドゥルーズは「ユーモア」はフロイトのいうような超自我の態度ではないとする。

われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとして自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイトが超自我について提示するイメージーー嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディスムに擬マゾヒスム性があったように、マゾヒスムにも擬サディスム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒスムに固有のサディスムは、サディストのサディスムとはいかなる関連も持ってはいない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』P154 蓮實重彦訳ーー「ユーモア」と「超自我」(柄谷行人とフロイト)

「ユーモア」とは「横にずれること」だと読みうる主張である。それは《自我を抱えながら身上話の客観性へ身を臥せる、水平へひろがり深くなる》態度なのではないか。

――と書くわたくしは、メタレヴェルに立って書いていることに自覚的でなければならないだろう。

かつて浅田彰がどこかでイロニーの人柄谷行人とユーモアの人蓮實重彦としつつ、両者の態度は知らぬまに反転しているようにみえる、すなわち柄谷行人がユーモア的に、蓮實重彦がイロニー的に感じられるときもある、と語っていたはずだが、どこでだったかは思い出せない。

今、いろいろ書いている人(蓮實重彦、渡部直己、高橋源一郎)は、ロマンティシュ・イロニーの現代版だね。あえて無意味なものを選んで戯れて、自己意識の優位性を確保するといった審美的姿勢だ。しかし保田與重郎には、上田秋成と同じく、激烈なもの、奇矯なものがある。(柄谷行人「昭和をこえて」)

…………

最後に附記しておけば、たとえば、デカルトの『方法序説』、カントの『視霊者の夢』の叙述には、超越論的態度がある、だがその後、それは消えてしまったという観点がある。

『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部(恵)氏はいう。(近代批判の鍵

他方、柄谷行人は、《カントの超越論的「批判」には、経験的自明性を括弧に入れる「決意」、あるいは「私は批判する」が偏在している》とする。これは柄谷行人の書き物においても、《経験的自明性を括弧に入れる「決意」、あるいは「私は批判する」が偏在している》とする読み方もあるだろうとは思う。

デカルトの「私は疑う」は私的な「決意」である。「私」とは単独的な実存、デカルトのことである。これはある意味で経験的な自己である。しかし、同時に、それは経験的な自己を疑う自己であり、それによって超越論的自己が見出される。こうした三つの自我の関係が、デカルトの場合あいまいになっている。

ここでデカルトが「我在り」(スム)というとき、それが「超越論的自己が在る」という意味なら、カントがいうように虚偽であろう。それは考えられるが、存在する(直観される)ものではない。しかし、スピノザは、「われ思う、ゆえにわれ在り」は、三段論法あるいは推論ではなく、「私は思惟しつつ存在する」(ego sum cogitans)と同じことであると述べた(『デカルトの哲学原理』)。もっと正確にいえば、それは「私は疑いつつ在る」ということである。心理的自我の自明性を疑うという「決意」はたんなる心理的自我ではありえない。が、またそのような疑いによって見出される超越論的自我でもない。とすれば、それは何なのか(しかし、厳密には、この時われわれは、在るものは「何か」というよりも「誰か」と問うべきなのだ)。

この問いはカントにとっても無縁ではないだろう。なぜなら、カントの超越論的「批判」には、経験的自明性を括弧に入れる「決意」、あるいは「私は批判する」が偏在しているからである。しかし、カントはそれについて語らなかった。デカルトの『方法序説』が重要なのは、そこで彼がもう一つの「スム」の問題――すべての自明性を括弧に入れる私はどのように在るかーーを開示しているからだ、この書物以後に、彼は二度とそれについて語らなかったとはいえ。だが、カントにおいて「スム」の問題は重要である。(……)カントの超越論的批判は、たんに理論的でありえず、彼自身の実存と切り離すことができないのである。(『トランスクリティーク』P134)


結局、「文体=スタイル」の問題であるのかもしれないし、読み手がその文体をどう受け取るかの問題でもあるだろう、《この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。》








2014年6月28日土曜日

柄谷行人ファンクラブ

サイバースペースがもたらすのは、匿名の「原子化する個人」である。それは「結社形成的な個人」をもたらさない。もともとそのような個人が多いところでは、インターネットは結社形成を助長するように機能する可能性がある。しかし、日本のようなところでは、「原子化する個人」のタイプを増大させるだけである。一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意しなければならない。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)

ははあ、よっほどこりたんだな。

あ、僕は運動家じゃないのは初めからわかっているので、二、三年で誰か実践的なリーダーが出てきたら引っ込もうと思っていましたが、僕が悠然と引っ込めるような体制にはなりませんでした。NAMがうまくいかなかった理由の一つは、まずインターネットのメーリングリストに依存しすぎたことです。(中略)もう一つは、運動に経験のある未知の人たちに会って組織すべきだったのに、僕の読者を集めちゃったわけね。インターネットでやればどうしてもそうなる。それで、柄谷ファンクラブみたいになってしまった(笑)。しかし、ファンクラブというのは実は互いに仲がわるいうえに、僕に対して別に従順ではなくて、むしろ柄谷批判をすることが真のファンだと思っているから、その中で軋轢が生じる。(『近代文学の終り』柄谷行人(インスクリプト)

……これは、私がNAMを始めたとき考えていたことと同じである。私も「少しは土にまみれて言わなくては」と思ったのだ。爾来、私は、現実の社会や生活から離れて存在すると考えられる類の芸術や文学に対する関心をまったく無くした。
石山さんは、私がやっていた社会運動(NAM)についても、「あなたのようなタイプの人は人を直接組織するのには向いていないので、黒幕として影に隠れているのがよろしい。土建屋の自分は人をまとめるのが上手なので、今度NAMのようなことをやるときには、僕が表に立ってあげますよ」と、申し出てくれた。私はいつか、それができる日が来ることを願っている。(柄谷行人「石山修武と私」

「汝が人にしてもらいたくないようなことを、他人に対してなすなかれ」

百万もの法律のかわりに、ただ一つの法律だけで十分である。この法律とはどのようなものであろうか? 汝が人にしてもらいたくないようなことを、他人に対してなすなかれ。汝が他人にしてもらいたいように、他人に対してなせ。これがその法律であり、予言者である。

だが明らかに、それはもはや一つの法律ではなくて、まさに正義の基本的方式、すべての準則である。(プルードン『一九世紀における革命の一般理念』)

中島義道botの「叫び」に出会ったので、記念に並べておく。

彼らは、「自分がされたくないことを他人にするな」と真顔でお説教する。自分がされたくないことでも、他人はされたいかもしれず、自分がされたいことでも、他人はされたくないかもしれないじゃないか!『私の嫌いな10の人びと』中島義道

…………

自由な、ないし民主的な統治の組織は、君主政治のそれよりも複雑であり学問的であり、より勤勉ではあるがより電光石火的ではない実践を伴っており、したがってそれはより大衆的ではないのである。ほとんど常に自由の統治の諸形態は、それよりも君主制的な絶対主義を好む大衆によって貴族政治と見なされてきた。ここから進歩的な人間が陥っており、これからも長い間陥るであろう一種の循環作用が生じる。もちろん共和主義者たちがさまざまな自由と保証とを要求しているのは、大衆の運命の改善である。したがって、彼らが支持を求めなければならないのは大衆に対してであるが、民主的諸形態への不信ないし無関心によって、自由の傷害となるのも民衆なのである。(プルードン『連合の原理』)

ーー自由よりも権威を好む「民衆」? これは悪くない。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

2014年6月27日金曜日

「モラトリアム」と「ひきこもり」

80年代から弱々しい「自分探し」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追求の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。先の見えない移行期に私たちはいる。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

中井久夫は、「モラトリアム」や「ひきこもり」は、――と鉤括弧つきながら、《これらもやがて過ぎ去るであろう》としている。一時的な現象だったのではないか、という考え方だ。もっとも逆にいまでは日本だけでなく、韓国やイタリア、あるいはフランスなどでもみられるようだが。

ところで、ここでは中井久夫はあくまで「モラトリアム」や「ひきこもり」を対象化して語っている。「刑事は現場を百遍踏む」の実践者中井久夫にも、もちろんこのようないわば「メタレヴェル」の語り口はある。

私はカルテを読んで頭にはいりにくければ、朗読し、筆写し、ワープロに打つ。その間で何かが私の腑に落ちてくる。明敏な頭脳の人にはさぞ迂遠愚鈍な作業と思われるであろう。しかし、私にはそうしないとわからない何かがある。「刑事は現場を百遍踏むそうだ」と私は自ら慰める。(中井久夫「訳詩の生理学」)

前投稿で、経験論と合理論の間で機敏なフットワークを実現するのが「超越論的」態度だという柄谷行人の見解を引用した。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)

「経験論」に凝り固まれば、これもほとんど「超越的=メタレベル」であるというふうに読める主張である。

カントとマルクスの「超越論的」態度を顕揚する柄谷行人の主著のひとつ『トランスクリティーク』には、「フットワーク」という語が何度か出現するが、ここではそのひとつを抜き出しておこう。

重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250)

これは異なった見解もあるだろう。だが柄谷行人は、かねてから、デリダにさえ「超越論的」ではなく「超越的(メタレベル}」の臭気をかぎ出す。

たとえば、デリダは、現象学における明証性が「自己への現前」、すなわち「自分が話すのを聞く」ことにあるという。《声は意識である》(「声と現象」)。これは、西欧における音声中心主義への批判というふうに読まれてしまうけれども、彼は、たんに哲学的あるいは現象学が、話す=聞く立場に立っているということをいっているにすぎない。そして、デリダは、そのような態度の変更に向かうのではなく、「自己への現前」に先立つ痕跡ないし差延の根源性に遡行する。《このような痕跡は、現象学的根源性そのもの以上に<根源的>であるーーもしわれわれが<根源的>というこの言葉を、矛盾なしに保持することができ、直ちにそれを削除しうると仮定すれば》(「声と現象」)。

直ちに抹消されるものだとしても、この根源的な差異は、われわれを再び「神秘主義」に追いやることになる。デリダは、「超越論的なのは差異である」というが、このとき、差異が超越化されるのだ、といってもよい。(柄谷行人『探求Ⅰ』P26)

だが、ここでのデリダの「直ちに抹消される」という言葉が肝要なのだろう。デリダ自身、直ちに抹消しなければ超越的になってしまうことに自覚的だったとみることもできる。では、デリダの脱構築についてはどうか?

ヘーゲルがいうように、ある命題を、いったん受け入れた上で、そこからそれに反対の命題を導き出して「決定不能性」に追いこみ、それを自壊させるというイロニーは、今日ではディコンストラクションとよばれている。というより、ディコンストラクショニストは、イロニーという語を避けることによって、自らの新しさを誇示してきたにすぎない。(柄谷行人『探求Ⅰ』P210)
デリダにおいて、全体化する例外の論理は、“脱構築の脱構築されえない条件”としての正義の形式に最高度の表現が見出される。すべては脱構築されるーー脱構築自体の脱構築され得ない条件の例外を除いて。たぶんこれは、己れの立場を「例外」として全ての領域を暴力的に均等化する仕草であり、最も初歩的な意味でのメタフィジカルな(形而上学の)態度である。(私意訳)

In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

たとえば、カントでさえ、『視霊者の夢』の「超越論的」文体から『純粋理性批判」の「超越的」文体になってしまったと読める坂部恵の指摘がある。

『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部氏はいう。(近代批判の鍵

…………

ところで、2012年の日本精神神経症学会のシンポジウムにて、「日本のひきこもり,ヨーロッパのひきこもり――イタリアとフランスの現状に触れて――」と題された鈴木國文(名古屋大学医学部保健学科)の発表には、次のようなCarla Ricci氏の論の引用がある。

日本では,ひきこもりは文化的社会的現象である.…東京に暮らして,著書『ひきこもり:自発的に隠棲する若者たち』を著した人類学者Carla Ricciは『この現象は日本に典型的なものだが,それが韓国やアメリカ合衆国,北ヨーロッパ,イタリアに拡がっている』と書いている.基本的な類似は『母親との関係にある.両親共にそうである場合も多いが,まさにこの過保護な存在が,息子をナルシストにし,壊れやすくする.そして最初の困難に出会うと引きこもるのである』

ーーというのは、つい最近、「高齢ニート」のテレビ番組で、神田うの氏の「親の務めって、わが子がちゃんと独立して、自分で生きていく力をつけさせてあげる。だから結婚もさせてあげるってことも」「9割方、親に問題があると思いますよ」との発言に偶然行き当たってすこし調べてみたのだが、この発言に対して、教育社会学者の本田由紀さんが次のようなツイートをしている。

@hahaguma
40歳を過ぎても働かない「高齢ニート」「年金パラサイト」が「ノンストップ!」で特集され話題に…コメンテーター・神田うのは「9割方、親に問題があると思いますよ」http://news.livedoor.com/article/detail/8909232/ …親に問題を押し付けて(親はもう十分そう感じている)、で、それでどうしようと?

 この本田さんの発言への齟齬感をめぐっては、いくらか叙したので繰りかえさない(参照:純白の頭巾のかすかな汚点)。

こうした「ひきこもり」当事者を「対象化」しつつの発言は「当事者」を傷つけるだけだという考え方の一環なのだろう。だが「対象化」による研究、たとえば原因が「母親との関係にある」などという分析は、ひきこもり当事者からは、なかなか出辛いだろうから、まったく無意味というものでもないだろう、すくなくとも未来の「ひきこもり」予備軍の親子にとっては。

このように「経験論」の態度だけでは見逃し勝ちな事実がある。真に「超越論的」であるためには、ときには「合理論」のほうへの揺れ(あるいはフットワーク)が必要であるに相違ない。「経験論」の立場から、社会的な悪や、医者・学者・評論家たちのメタレベル態度を批判するだけでなくーー柄谷行人の見解では、それに凝着してしまえばこのメタ批判自体がメタなのだーー、「母親との関係」やらあるいはもっと一般的に親との関係を分析したり問い直したりすることが「当事者」という経験者の立場から可能であるならば、そこにこのましいフットワークが生じる。だがそれを期待するのは、いささか酷でもある(己れのトラウマに触れてしまうということもあるだろう)。

いずれにせよ「当事者」に、超越論的な態度、すなわち《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかける》こと、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(柄谷発話 『闘争のエチカ』P53)をいたずらに強要してはならないだろう。

さて次に、2001年の座談会、すでに十年以上まえのものだが、斎藤環、中井久夫、浅田彰は「ひきこもり」をめぐって、次のような談話を抜き出そう。これらもやや「合理論」への傾斜をもった議論であるだろう。

斎藤) ひきこもりの最高年齢がちょうど私と同じ年齢で、世代論は避けたいと思ってはいても、やはりそこには何かがあるという気がします。共通一次試験と特撮・アニメの世代ですね。例えば「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている。

中井)先行世代がバブルにいたるまで蓄積し続けたから、寄生できるんだね。

斎藤)経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化しているようなところがあるわけです。なにがなんでもこれを表現せねばならない、というようなものもないんですね。

中井) これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。

斎藤)ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏が早くくれば救われるということはありますね。

浅田)治療者としての斎藤さんは拙速な「兵量攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。(「批評空間」2001Ⅲ―1斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」より

浅田彰の「冷たい」言い方は脇にやるとしても、精神科医の中井久夫や斎藤環の「ホンネ」もこのようである。それはつい最近の斎藤環のツイートにも窺われないではない。

@pentaxxx: いまだに「受容神話」や「退行神話」を信奉する専門家の皆さんに問いたい。いつから「暴力も金銭要求も、何もかも受け入れてあげるのが子供のため」と錯覚していた? 同じ理屈で「DVも受容してあげるのが夫のため」と言わないのはなぜ?  
@pentaxxx: ついでに、ひきこもりやニートに悩むご家族へささやかなヒント。「いい加減ハロワ行け」とか言いつのるのをやめて、こう言ってみましょう。「お母さんの知り合いの事業所で週三日のパートの仕事があるんだけど、試しにやってみない?」これで就労確率は一〇倍になる。数字は個人の感想です。 
@pentaxxx: 何年も履歴にブランクがある人に「ゼロから就活」とかどうみても無理筋。それをどうしてもさせたいのなら、せめてお膳立てくらい十分にしてあげましょう、というだけの話。 
@pentaxxx: もちろんこれは本人との関係が比較的良好な場合に限って有効。「恨み」や「意地」がくすぶっている間は無理。でも僕が知る限り、「紹介」や「コネ」っていまだ就活では最強のカードだ、その当否はともかくとして。 
@pentaxxx: 「元気なうちは養ってあげます。その代わり、認知症になったら家事と介護を全面的にお願いしますね」という契約もあり。もし断られたら早めに世帯分離の時期を検討しておきましょう。無理心中の悲劇を回避するためにも。


結局、経済的余裕があるのなら、「ひきこもり」であっても恥じる必要はないし、そうでなかったらなんとかしなくてはならない、ということなのではないか。そして家事と介護も立派な仕事である。ただし、日本が「引き返せない道」、経済の下り坂を歩んでいるのは否定し難い。社会福祉政策がいまの財政状況では好転するはずはない、ということもある。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」ーー「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」)


…………

ここで誤解のないように付け加えておけば、「医学」は人間を「対象化」してはならない、というのが中井久夫の医師としての基本的な態度である。


犯罪学者でもあるエランベルジェ(エレンベルガー)は、犯罪学と医学が科学でない理由として、疾患の研究、犯罪の研究からは「疾患は治療すべきであり、犯罪は防止すべきであるということが理論的に出てこない」ことを強調している。すなわち、彼によれば、犯罪学と医学は「科学プラス倫理」である、と。

だが中井久夫はこのように師のひとりであるエレンベルジェの見解を書き綴ったあと、医学はまず倫理的なものであるが、それでは不十分だ、とする(「医学・精神医学・精神療法は科学か」『徴候・記憶・外傷』所収)。

少なくとも、もう一点で、医学は科学と相違する。それは、囲碁や将棋が数学化できるかどうかという問題と本質的に同じである。囲碁や将棋は数学化できない。それは、科学とちがって徹底的に対象化することのできない「相手」があるからである。「対象」ではなく「相手」である。わかりやすいために、殺伐な話だが戦争術を考えてみるとよい。実験的法則科学はいつも成立しなければならないが、「必ず勝てる」軍事学はない。もしできれば、人間に理性がある限り、戦争は起こらない。それでも起これば、それは心理学か犯罪学という「綜合知」の対象である。経済学でもよい。インフレやデフレなどの経済学的不都合を絶対に克服する学ではなく、その確実な予測の学でさえない。これらが向かい合うものは「相手」である。科学は向かい合うものを徹底的に対象化する。そしてほどんどつねに成り立つ「再現性のある」定式の集合である。対象化と再現性は表裏一体である。すなわち、「相手」が予想外に動きをしては困るのである。ところが、囲碁や将棋や戦争術は相手の予想外に出ようとする主体間の術である。なるほど、経済学は、常に最大利益を得ようとして行動する「経済人(ホモ・エコノミクス)」というものを仮定しているが、これは人工的な対象化であって、経済学が経済の実態の予測を困難にしている一因である。それは、経済学の対象すなわち経済行動を行う人間の持つ、利益追求の欲望以外の心理学的要素の大きさを重々自覚しながら、これを数理化できないために排除しているからである。つまり、科学的であろうとする努力が経済学をかえって現実から遠ざけてきた。現在、むき出しの「市場原理」が復権をとげている。「市場原理」ならばローマ時代、いや太古からあった。(186頁)

2014年6月26日木曜日

象牙の塔(メタレベル)不在の「美しい日本の私」

《現代の批評とは、或る対象の構造を分析し、対象がどのように価値づけられるかの可能性を多面的に考察することです。》(千葉雅也ツイート)

この千葉雅也氏の云う「現代の批評」とする態度が、つねにそうあるべきかなのかは断言しまい。だが、日本では、このようなむしろ「合理論」、「構造論」、あるいは形式的な思考が必要だとは、かつてから何度も語られてきた。

ところで対象の構造を分析するという場合、ある意味でメタレベル、「超越的」な立場に立つといってよいだろう。すなわち科学的な態度、その方法を、徹底的に対象化したモノに対して適用すること。《主題を主題として維持するためにそれをカギ括弧で厳重に梱包し、概念として自立させ、<地>の部分をなす分析と思弁の言説から隔離された<図>として目立つように留意》すること(松浦寿輝『官能の哲学』)。

僕の夢は、本当の構造主義者が日本に出現することなんです。別に文学に限らないけれど、徹底的な構造分析を本気で試み、しかもそれで成功する人がね。
(……)
分析を言説化する手続きってものが、共同体的な倫理によって支えられていてもかまわない。またそのかぎりでは分析の対象が僕の興味のないものでもかまわない。

(……)意味生成の可能性をとことん拡げてその一つひとつのケースを検討することがないから、分析の言説化ではなく、言説化のための分析しか行われない。要素に分解すること、その諸要素の組合わせが示す表情をくまなく記述するという、ごく古典的な論述形式さえ定着していない、だからレクリチュールとエクリチュールに関してはわれわれは近代以前にあるわけです。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

もしほんとうに、われわれが「近代以前」にあるのなら、まず「近代」の合理論を尊重しなくてはならない。出発点はここだ。《もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。》(浅田彰

近代の構築的なものがない処で、ポストモダン的な「生成」などをいたずらに主張したら悲惨な「現場主義」の寝言(プレ・モダンの戯言)に終わる。

もし「国家」を構築的なもの、「社会」を生成的なものとして区別するならば、この国では、構築と生成の区別が厳密に存在しないということを意味する。あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。国学者の本居宣長が、中国的な思考に対して、日本の原理としてとりだしたのは、そうした生成である。しかし、それはニーチェがいうような生成ではない。また、構築のないところで、生成を唱えることには大して意味はない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)

「現場主義」の寝言? いやここではもうすこし遠慮して、《三面記事的な偽の現場主義が支える物語的な真実の限界》としておこう。

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

…………

◆柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」より

そもそも、日本に、大衆の動向から遊離した知識人の優位などあったためしがないのだ。しかるに、抽象的な観念にもとづいて大衆を見下し現実から 遊離しているというような理由で、知識人を批判する言説はつねに横行してきた。知識人を批判する者こそ典型的な知識人だ、といったほうがいいくらいである。たとえば、日本に は「象牙の塔」のようなものは一度もなかった。むしろ、つねに象牙の塔に対する批判があ り、それが勝利してきたのである。(注1)
注1)象牙の塔とか、遊離した学問はいかんというようなことを言われますね。それはそれ自身いくら強調してもいいのですけれど、僕はやっぱり学問というものは生活とある緊張を保たなければいけない、そこには分離遊離じゃなくすることによって最もよく生活に奉仕するという、いわば逆説的な関係があるんじゃないかと思うんです。この考えは非常に危険なのですよ。一歩誤ると孤高になり、自分のものぐさ乃至は安易な生活態度をジャスティファイする論拠になり易いのです。僕なんかとくにそういう傾向があるので言う資格がないかも知れないけれども僕の考えはそうなんです。そうじやないと、ことに先程言いましたような、大衆文明の時代には日常的な現象に絶えず学問が引張られてしまって、時事の問題とかあるいは狭い意味の政治的要求に鼻面を引き摺りまわされて、結局学問自身の社会的使命を果せなくなる。学問じゃなくても果し得るもの、あるいは学問も果すかも知れないけれども学問以外のものでも果しうるような役割に学問が引張りまわされる事はやはり社会的な浪費です。学問にはやはりそれぞれの学問に固有の問題があります。(丸山真男 高見順との対談「インテリゲンツィアと歴史的立場」(雑誌「人間」昭和24年12月)。
鶴見は抽象的な思想あるいは原理の支配を批判する。しかし、西洋あるいはアジアでは、 そのような批判が必要且つ有効であろうが、日本では、話はそう簡単ではない。知識人が 支配したことがないし、思想や原理が支配したことがないからだ。ゆえに、簡単にそれを 「漢意」(本居宣長)として斥けることができる。むしろ、日本に必要なのは「思想」あるいは 「原理」なのだ。丸山はつぎのように述べている。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗 教がないこと、ドグマがないことと関係している。 イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎな い。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はない んですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』な んかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないん じゃないですか。 人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていい たくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思う んです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけで はなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間 が見えなくなったところからきている。しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつか れる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想に よって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思 想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(針生一郎との対談『丸山座 談5』p138-139)

《あらゆる思想は実生活 から生まれる。併し生まれて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、 凡そ思想といふものに何んの力があるか》(小林秀雄「作家の顔」)

僕は「ニュー・アカデミズム」は本質的に思想運動ではなく「闘争」だったと思っています。その「闘争」は、出発点において共同体内の戦いだった。浅田彰にしても中沢新一にしても、その戦いを一つの攻撃として組織したんだと思います。そうした姿勢を勇気づける雰囲気はある程度準備されてはいましたけれど、より持続的な戦いの端緒として『構造と力』や『チベットのモーツァルト』は出版されたわけです。その際、共同体内の敵はもっと強力なものだという自覚があったはずです。その自覚とは、あっさり蹴散らされるほどの理論的な強力さではなく、いわば無視されるといった程度の負の強力さを予測していたということです。

ところが、仮想敵がまるで強くなかった。浅田氏にしろ中沢氏にしろ、積極的な敵意に出会う以前に共同体内的な嫉妬によって受け入れられ、それをバネにして共同体内で勝利してしまったのです。これは、日本社会の無責任的な柔構造にからめとられたということにほかなりませんが、大学といった「アカデミズム」の場にまで拡がり出しているこの柔構造の無責任性は、いつでも逆転しうるものだ。王殺しはたえず共同体的な健康維持として可能ですが。ところで、いわゆる「ニュー・アカデミズム」が一時的に占有しえた王の位置というのは、彼らが意図してそこについたわけのものでない。いわば、彼らの書物が読まれたことからくる思想的な勝利ではなく、共同体が容認しうるイメージに翻訳された観念に支えられたものでしょう。「アカデミズム」でさえ、そのイメージに汚染されているわけで、まあ、僕の場合なら、そうしたイメージ汚染の現状を物語批判として展開したのだけれど、「ニュー・アカデミズム」の当事者たちの方は、ある程度、そのイメージ汚染の醜悪さを楽しんでいました。それが柄谷さんのいう「調子に乗ってやってきた」という側面だと思いますが、いまや、彼らの書物が持っていた「闘争」性があらためて問われるときだと思う。(蓮實重彦『闘争のエチカ』P176)

 …………

柄谷行人の「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」には次の文がある。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理 論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。

「第三の立場」を言い募るだけでは、永遠の「モラトリアム」になってしまう。もちろん「モラトリアム=引き篭もりがかならずしも悪いわけではない。ただ「永遠」がいただけないだけだ。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p54)

永遠の「ひきこもり」者とは次のような手合いである。

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

上にあげた柄谷行人の丸山真男小論には、《カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ》とあるように、柄谷行人の主著のひとつ『トランスクリティーク』の繰り返しである。

カントやマルクスはたえず「移動」をくりかえしている。そして、他の言説体系への移動こそが、「強い視差」をもららすのだ。亡命者マルクスにかんしてそれはいうまでもない。実は、カントに関しても同じことがいえる。彼は空間的にはまったく移動しなかったが、移動への誘いを拒否したことにおいて、そしてコスモポリタンであり続けたことにおいて、一種の亡命者であった。一般に、カントは、合理論と経験論の「間」にあって、超越論的な批判をした人だとされている。しかし、『視霊者の夢』のような奇妙な自虐的なエッセイを見ると、カントがたんに「間」で考えたなどとはいえない。彼もまた、独断的な合理論に対して経験論で立ち向かい、独断的な経験論に対して合理論的に立ち向かうことをくりかえしている。そのような移動においてカントの「批判」がある。「超越論的な批判」は何か安定した第三の立場ではない。それはトランスヴァーサル(横断的)な、あるいはトランスポジショナルな移動なしにはありえない。そこで、私はカントやマルクスの、トランセンデンタル且つトランスポジショナルな批判を「トランスクリティーク」と呼ぶことにしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p21)
カントがいっているのは、自分の視点から見るだけでなく、「他人の視点」からも見よ、ということではない。そのようなことならありふれている。なぜなら、「反省」とは他人の視点で自分を見ることであり、哲学の歴史はそのような反省の歴史なのだから。しかし、ここでカントがいう「他人の視点」はそのようなものではない。それは「強い視差 parallax」においてしかあらわれない。(『トランスクリティーク』p78)

ジジェクは、よく知られているように、この柄谷行人の「視差 parallax」を借用して、パララックス・ヴューという表題をもつ大著を書いたわけだ。

In his formidable Transcritique, Kojin Karatani endeavors to assert the critical potential of such a "parallax view": when confronted with an antinomic stance in the precise Kantian sense of the term, one should renounce all attempts to reduce one aspect to the other (or, even more, to enact a kind of "dialectical synthesis" of the opposites); one should, on the contrary, assert antinomy as irreducible, and conceive the point of radical critique not a certain determinate position as opposed to another position, but the irreducible gap between the positions itself, the purely structural interstice between them. Kant's stance is thus "to see things neither from his own viewpoint, nor from the viewpoint of others, but to face the reality that is exposed through difference (parallax)." (Is this not Karatani's way to assert the Lacanian Real as a pure antagonism, as an impossible difference which precedes its terms?) This is how Karatani reads the Kantian notion of the Ding an sich (the Thing-in-itself, beyond phenomena): this Thing is not simply a transcendental entity beyond our grasp, but something discernible only via the irreducibly antinomic character of our experience of reality.(”The Parallax View”)
今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て(megalomaniac enterprise) ――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(……)

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直(naive)な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです(スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』)

…………

《丸山真男ぐらいは高校までにクリアしといてほしいと思うよ》とオッシャル人もいる。そこのメタレベル批判を反復させる「貴君」たちよ、わかるかい?

日本の教育について、乱暴を承知であえて世代論的にいうと、昔は、良くも悪くも、権威があり、権威に対して反抗するってことがあったけど、70年代後半からは、権威をつぶすことしかやってこなかった連中が教師になったわけだから、権威なんて全くない、それこそ反抗の対象になんかなりえないわけ。そんな中で、最低限の常識さえ崩れちゃったんだね。オウム真理教事件なんか見たって、人は宙に浮かないとか、来世について有意味に語ることはできないとか、そのくらいなことは小中学校でちゃんと教えといてほしい(笑)、あるいは丸山真男ぐらいは高校までにクリアしといてほしいと思うよ。

ところが、そういう最低限の常識さえ無いみたいなんだな。全共闘が大学の研究室の本を放り出したとき、丸山真男は、ナチスにも匹敵する暴挙だって言った。それに対して、吉本隆明は、国民の税金で買った本を後生大事に独占するようなやつが何を偉そうに言うかって批判した。その時点では吉本隆明が勝ってるわけ。ところが、吉本隆明におだてられた全共闘は、本を捨てただけで、その後に何も作れなかった(笑)。丸山真男を超えたつもりで、あるいは左翼からさらに新左翼にいって近代を超えたつもりで、実は前近代的な共同体主義に戻っちゃってた。その連中が親や教師になってるわけじゃない? だから、若い連中が今ごろになって丸山真男なんかを「再発見」するのも仕方がないと思うし、そうやって近代の最低限の常識は身につけてほしいと思うけど、だからと言って、ぼくらが今さら言いたくもない、ほんとに徒労感が募るばかりだよ。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」


というわけで、「知の密教主義者」、「知的スノッブの三バカ」「知的スターリニスト」(吉本隆明曰く)の三人の引用をしてしまったぜ。それとジジェクだな。この四人に《騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが》


蓮實重彦と浅田彰の対談『新潮』(2005年5月号)より 
 
ラカン派であれ何であれ、精神分析には分析を受けることでしか伝わらない何かがあって、それは映画作家から映画作家にしか伝わらないものがあるというのに近いんです。それを、ラカン派というのは要するにこういうものなんだよ、とマンガ的に図解した途端、それは嘘になってしまうわけです。(中略)……(ラカンの娘婿である)ミレールの校訂するラカンのセミネールより海賊版の方が正確なのに著作権継承者として海賊版の出版を差し止めたりするといった状況になっているとき、旧社会主義政権下のスロヴェニアの反体制知識人で、ヘーゲル=マルクス主義のベースを除けば、アメリカ文化への憧れから映画でも何でも貪欲に吸収してきたに過ぎないジジェクという野蛮人が無手勝流で乗り込んできて、ヒッチコックをラカン的に理解するというか、むしろラカンをヒッチコック的に理解してみれば、要するにこうだろう、とマンガ的に整理した、それでずいぶん風通しがよくなって、ラカン=ミレール派が世界的に流通することになったわけですね。

『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講議』はどのように読まれたか 

畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙され る連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(蓮實重彦)

蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.2 

……じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。ですから、許せないのは、私ひとりが許せないっていったってどういう意味もないんですが(笑)、ジジェクの書いている映画論なんか読むと、腹が立ちます。世界も、映画も、それほど単純なものではない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、「réel」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、「réel」など論じてほしくない。


丸山真男とジジェクのシューマ

未定稿。かなり前書いたもので、もうすこし二つのシューマを関連づけたかったのだが、いまは保留。前回、ジジェクのフェティシズムモードをめぐる引用したこともあり、失念しないうちに暫定投稿(あまり読み返してもいないので、なにかピントはずれのことが書かれているかも)。

…………

まず、柄谷行人の「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」より、丸山真男の「個人析出のさまざまなパターン」における図式(シューマ)とその説明を掲げる。

丸山真男は、伝統的な社会(共同体)から個人が析出される(individuation) のパターンを考察した。日本の事例は、たとえば、テンニースのように、ゲマインシャフトに対するゲゼルシャフトとしては説明できないし、さらにリースマンのように、伝統志向に対して、内部志向と他人志向という二タイプをもってくることでも理解できない。そこで、丸山は、近代化とともに生じる個人の社会に対する態度を、結社形成的associativeと非結社形成的dissociativeというタテ軸と、政治的権威に対する求心的なcentripetal態度と遠心的なcentrifugalな態度というヨコ軸による座標において分析したのである。それは図のように四つのタイプになる。




簡単に説明すると、民主化した個人のタイプ(D)は集団的な政治活動に参加するタイプである。自立化した個人のタイプ(I)は、そこから自立するが、同時に、結社形成的である。民主化タイプが中央権力を通じる改革を志向するのに対して、自立化タイプは市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。つぎに、私化した個人のタイプ(P)は、民主化タイプの正反対である。すなわち、Pは、政治活動の挫折から、それを拒否して私的な世界にひきこもるタイプである。さらに、Pと原子化したタイプ(A)の関係はつぎのようになる。

私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山真男集』第九巻p385)

つまり、私化した個人のタイプは政治参加しないが、原子化した個人のタイプは、「過政治化と完全な無関心」の間を往復する。

この四つのタイプについて、丸山は「ある人間が、四つのうちのある型に全面的かつ純粋に属し、生涯を通じて変わらないということは稀である」という。そして、それは社会全体についてもいえる。各社会は、こうした諸タイプの分布によって構成され、またその分布の度合いは文化的社会的条件によって異なるのである。丸山によれば、一般的に、近代化が内発的でゆっくり生じる場合、IとPの分布が多くなり、他方、後進国の近代化においては、DとAの分布が多くなる。

このように見ると、近代日本に特徴的なことは、伝統社会が残っているにもかかわらず、私化と原子化の「早発的な登場」があったこと、また、これらのタイプが圧倒的に多かったことである。といっても、丸山がそういうのは、一般的な図式にもとづいて日本のケースを見た結果ではない。その逆に、彼は日本の特異性から出発し、それを例外とせずに扱うことができるような普遍的な図式(シェーマ)を考案したのである。この論文はもともと英語で書かれた。それは、日本を一ケースとするかたちをとりながら、普遍的な理論を目指している。事実、この図式は一般的に近代について考えようとするときに不可欠である。たとえば、「近代的個人」や「近代的自我」というような言葉がしばしば使われるが、その意味はあいまいで、議論を混乱させるだけである。


次にジジェクの『ポストモダンの共産主義』より、症候モードとフェティッシュモードの図式を抽出する(ジジェク自身はこの図式を提示していないが、その記述から導き出したもの)。(参照:ジジェクによる政治的「症候/フェティシズム」モード



このように図式化してみれば、丸山真男のシューマとの類似性がある。とくに縦軸の「同一化」とは、「結社形成的」と言い換えられるし、「距離」とは、「非結社形成的」であるだろう。

横軸はどうか。ジジェクはの議論のポイントはフェティシズムモードである。

現代のいわゆる「ポストイデオロギー」の時代にあっては、イデオロギーはますます従来の「症候」モードとは反対の「フェティシズム」モードで機能する。

すなわちフェティシズムモードが主要な関心のため、従来型の「症候」(神経症型)については詳しく説明していないが、《暗黙の限界(自由/平等についての)がリベラルな平等主義の症候である》とはある。おそらくこの記述は、「リベラル」と「イデ批判」の両方に当てはまるだろう。すなわち「同一化」タイプも「距離」タイプも、自由と平等についての暗黙の限界は感じているはずだ、だが症候派はその事実を「抑圧」する。すなわち自由と平等の(限定的な)死を抑圧するのだが、その抑圧されたものは「症候」として回帰し復讐する。あるいは別の言い方をすれば、自由と平等の死を「知っていることを知らない」 “unknown knowns,”。だが、それらが症候派の行為や感情を決定している。

要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agierenのである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復wiederholenしているのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』)


具体的になにを反復するのか、とは、はっきりしたことは言いづらいが、「無力感」「絶望感」などが、リベラルやらイデオロギー批判派を襲うということはあるに相違ない。

他方、フェティシストはどんな態度をとるのか。

最愛のひとの死の例をみてみよう。症候の場合、私はこの死を“抑圧”する。それについて考えないようにする。だが抑圧されたトラウマが症候として回帰する。フェティッシュの場合は、逆に、私は“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく。この意味で、フェティシュは、私を苛酷な現実に対処させる頗る建設的な役割を果たす。フェティシストは自身の私的世界に没入する夢見る人ではない。彼らは徹底的な“リアリスト”である。もののあるがままを受け入れるのであり、というのはフェティシュな物にしがみついて、現実の全面的な影響を和らげることができるからだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

彼らは、自由と平等の(限定的な)死を完全に受け入れている。だが「自由」や「平等」のなにかの痕跡(フェティッシュ)にしがみつく(たとえば「私利私欲」の自由に)。

ジジェクは、ふたつのフェティシスト(大衆原理主義的フェティシストとシニカル・フェティシスト)について次のように書く。

◆大衆原理主義的(ポピュリズム・ファシズム的)フェティシスト
・拮抗と敵対の性質を併せ持つ偽りの帰属意識が伴う。

・「主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。

・明示される「悪い」内容(反ユダヤ主義)が、内在する「よい」内容(階級闘争、搾取への反感)をおおい隠してしている。


◆許容的シニカル・フェティシスト
・偽りの普遍性が伴う。主体が自由や平等を主張する一方で、この形態自体が狭量な(金持ち、男性、特定の文化に属するものなど、特定の社会階層に特権を与える)性質を内包していることに気づいていない。

・「主体が『自由と平等』と言うとき、じつは『貿易の自由、法の前の平等』などを意味している。

・明示される「よい」内容(自由、平等)が、内在する「悪い」内容(階級その他の特権および排除)を隠蔽している。

…………

さて、このように見てくると、縦軸だけでなく、横軸の「フェティッシュ/症候」をも、丸山真男の「求心的/遠心的」と関連づけることができないわけではない。たとえば丸山真男は《政治的権威に対する求心的なcentripetal態度と遠心的なcentrifugalな態度》としているわけだが、ジジェクの「フェティッシュ/症候」を、自由・平等という理念にしがみつく態度と自由・平等の限定的死という抑圧されたものの回帰によって無力感に苛まれる態度とすれば。


もっとも個々のタイプをみてみると、相同的に扱うにはいささか無理がある。

民主化タイプが中央権力を通じる改革を志向するのに対して、自立化タイプは市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。

この「民主化タイプ」を「原理的フェチ」とすることは困難であるし、「自立化タイプ」をそのままジジェクの「リベラル」とすることも難しい。

私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。

「私化タイプ」が政治的無関心であり「ひきこもり」であるなら、ジジェクの「イデオロギー批判派」をひきこもりの様相は示す場合もあるだろうが、政治的無関心とはしづらい。

「原子化タイプ」は逃走的とされるが、それをジジェクの「シニカル・フェチ」とするのはどうか。

原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(柄谷行人)

シニカル・フェチがファナティックな政治参加に転化することがあるだろうか。むしろ私化した個人のタイプがそうなりやすい傾向にあるのではないか。

私化した個人にとっては、たんなるデモでも大変な飛躍を意味する。もしデモに行くとすれば、原子化したタイプからなる群衆あるいは暴徒としてのみである。これは長続きしない。その後は、まったくデモがないということになる。それに対して、自立化した個人のタイプは、「個人と国家の間にある自主的集団」、つまり協同組合・労働組合その他の種々のアソシエーションに属しているから、逆に、個人としても強いのである。結社形成的な個人はむしろ、結社の中で形成されるものだ。一方、私化した個人は、政治的には脆弱であるほかない。(柄谷行人)


というわけで、まったくまとまりのない話になってしまったが、丸山真男の言うように、「ある人間が、四つのうちのある型に全面的かつ純粋に属し、生涯を通じて変わらないということは稀である」。しかも、時代はかつてのまがりなりにも「象徴的権威」のあった時代から、現在は「父なき時代」である。そしてインターネットの時代でもある。丸山モデルはよく整理されていて、かつ日本的な文脈では魅力溢れるが、やはりこの二十一世紀においては、ジジェクモデルがより汎用性が高いのではないか。

サイバースペースがもたらすのは、匿名の「原子化する個人」である。それは「結社形成的な個人」をもたらさない。もともとそのような個人が多いところでは、インターネットは結社形成を助長するように機能する可能性がある。しかし、日本のようなところでは、「原子化する個人」のタイプを増大させるだけである。一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意しなければならない。(柄谷行人)









2014年6月25日水曜日

安倍晋三「フェティシスト」政権という「仮説」をめぐって

安倍晋三首相は14日の参院予算委員会で「私は戦後レジームから脱却をして、(戦後)70年が経つなかで、今の世界の情勢に合わせて新しいみずみずしい日本を作っていきたい」と述べた。「戦後レジームからの脱却」は第1次政権で掲げたが、最近は控えていたフレーズだ。(久々に登場、「戦後レジームからの脱却」 安倍首相 2014.3.14

戦後レジームとはなにかをめぐっては、まずは中井久夫の説明を読んでおこう(歴史にみる「戦後レジーム」)。

ところで「戦後レジーム」の脱却とはなにか。おそらく、それは要するに「富国強兵」政策ということなのだろう。

安倍政権は、経済政策のアベノミクスが「富国」を、今回の特定秘密保護法や、国家安全保障会議(日本版NSC)が「強兵」を担い、明治時代の「富国強兵」を目指しているように見えます。この両輪で事実上の憲法改正を狙い、大日本帝国を取り戻そうとしているかのようです。(浜矩子・同志社大院教授

まさか、いくらなんでも、そんな時代錯誤的な考え方を安倍自民党政権がもっているはずはない、とひとは思ってしまうかもしれない。だがその「証拠」らしきものはいくらでも挙げることができる。

・(憲法は)国家権力を縛るものだという考え方があるが、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方

・(政府の)最高の責任者は私だ。政府の答弁に私が責任をもって、そのうえで選挙で審判を受ける」(安倍晋三――都知事が考える「立憲主義」と「憲法改正」『憲法改正のオモテとウラ』著者・舛添要一氏インタビューより)
・教育基本法は(第二次大戦後の)占領時代につくられたが、衆参両院で自民党単独で過半数をとっていた時代も手を触れなかった。そうしたマインドコントロールから抜け出す必要がある。(戦後教育はマインドコントロール 首相、衆院委で発言

徴候感覚の「詩人」鈴木創士氏なら、その臭いを鋭敏に嗅ぎとり、次のようなツイートを炸裂させる。

あのね、秘密保護法案なんてだめに決まってるでしょうが。安倍が鬱病に再突入するのを待ってる暇はない。安倍はじいさんの元戦犯首相である岸信介と全く同じことをやろうとしている。政治はエディプスコンプレックスの原動力だろうが、それで次々法律をつくろうなんてゴロツキのキチガイがすることだ。(鈴木創士ツイート2013.10.29)
「不特定」秘密保護法案に賛成した議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長し、どっちがどっちか解らぬままに転移を繰り返し、どの仮面を剥がそうとものっぺらぼうの百面相に死化粧を施し、あまつさえ巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り、病院へ直行することになる。(鈴木創士ツイート2013.11.27)

もっとも「エディプスコンプレックス」や「精神病」という語彙については、保留しておこう。前者は、ラカン派的には「神経症」であり、「精神病」とは異なるのだから。

ラカンはフロイトの 著作のなかに、それぞれの構造に対する特異的な用語があることを指摘しました。神経症では抑圧Verdrangung(repression)、精神病で は排除Verwerfung(foreclosure)、倒錯では否認Verleugnung(disavowal,desaveu)です。最後に、ラカ ンは否認Verleugnungにdementi(denial)という訳をあてることを好むようになりました。(ミレール「「ラカンの臨床的観点への序論」を読む」)

捨てたものがシニフィアンに媒介されて「隠喩」として回帰するのが神経症的な「抑圧されたものの回帰」であり、他方、捨てたものが他のシニフィアンに媒介されずにそのままの形で回帰してくるのが精神病的な「排除されたものの回帰」である(シニフィアンとはフロイト的に言えば、「言語表象 Wortvorstellung」のこと)。

さて「富国強兵」は隠喩として回帰しているのか、それともそのままの形で回帰しているのか。すなわち安倍政権は「神経症」的であろうか、「精神病」的であろうか。

……マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。

絶対主義王権においては、王が主権者であった。しかし、この王はすでに封建的な王と違っている。実際は、絶対主義的王権において、王は主権者という場(ポジション)に立っただけなのだ。マルクスは、金は一般的な等価形態におかれたがゆえに貨幣であるのに、金そのものが貨幣であると考えることを、フェティシズムとよんだ。そのとき、彼は、それを次のような比喩で語っている。《こういった反省規定はおよそ奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じているのだ》(『資本論』第一巻第一篇第三章註)。しかし、これはたんなる比喩ではなくて、そのまま絶対主義的な王権に妥当するのである。古典経済学によって重金主義が幻想として否定されたのと同様に、民主主義的なイデオローグによって絶対主義的王権は否定された。しかし、絶対主義的王権が消えても、その場所は空所として残るのである。ブルジョア革命は、王をギロチンにかけたが、この場所を消していない。通常の状態、あるいは国内的には、それは見えない。しかし、例外状況、すなわち恐慌や戦争において、それが露呈するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

代表制議会の危機がいま日本にあるかどうかは保留しよう(いや、むしろいまさらのことではないのだから)。だが資本制経済の危機があるのは、日銀がデフレ脱却のために博打を打たざるをえない状況にあることから(あるいは原発事故処理をも視野に入れつつ)、たしかにそうだ、といいうる。そしてそのとき「国家」があらわれる。

いままで言ってきたように、アベノミクスってのがそもそも危険きわまりないギャンブルなんだけど、それがうまくいってるように見える今のうちに、参議院選挙に勝って両院のねじれを解消し、憲法改正をはじめ、いわゆる「戦後レジームからの脱却」を強引に進めようってのが、安倍政権の狙いだね。でも、国際的には「戦後レジーム」ってのは第二次世界大戦の戦勝国である米英仏ロ中が国連の安全保障理事会の常任理事国を構成する体制なんで、それを否定するのかってことになると、中国はむろん、アメリカその他だって黙っちゃいない。本来、北朝鮮に圧力をかけるため米中その他の諸国と協力すべき時だし、中国の覇権主義に対して日米同盟で対抗するってのが安倍政権の外交の基軸なんだから、他方でそれを揺るがし、アメリカにさえ警戒感をもたせるような言動をとるってのは、愚かとしか言いようがない。(田中康夫と浅田彰の憂国呆談2 TALK 63

 ところで、柄谷行人の文にも、「抑圧されたものの回帰」(神経症の機制)とフェティシズム(倒錯の機制)が混在する。すなわち、ここでは、安倍自民党政権の「富国強兵」は、抑圧されたものの回帰(精神病の機制)なのか、「抑圧されたものの回帰」なのか、それとも「フェティッシュ」(倒錯の機制)なのか、というラカン派的な問いを「仮に」立ててみよう。

現代のいわゆる「ポストイデオロギー」の時代にあっては、イデオロギーはますます従来の「症候」モードとは反対の「フェティシズム」モードで機能する。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』)

ここでジジェクのいう「症候」モードとは「神経症」モードのことであり、「フェティッシュ」モードとは「倒錯」モードのことである。さて、どう異なるのか。

最愛のひとの死の例をみてみよう。症候の場合、私はこの死を“抑圧”する。それについて考えないようにする。だが抑圧されたトラウマが症候として回帰する。フェティッシュの場合は、逆に、私は“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく。この意味で、フェティシュは、私を苛酷な現実に対処させる頗る建設的な役割を果たす。フェティシストは自身の私的世界に没入する夢見る人ではない。彼らは徹底的な“リアリスト”である。もののあるがままを受け入れるのであり、というのはフェティシュな物にしがみついて、現実の全面的な影響を和らげることができるからだ。

この正確な意味で、貨幣は、マルクスにとって、フェティシュである。私は理性的な功利主義者の主体を装う。ものごとがどのようにあるのかをよく知っている。しかし貨幣フェティッシュのなかに自分の否認された信念を包みこむ……。ときには、ふたつの間の境界線はほとんど見分けがたいこともある。対象は、フェティッシュ(正式には断念された信念)とほとんど同じように、症候(抑圧された欲望)としても機能することもある。たとえば死んだひとの衣服などの遺品は、フェティッシュ(そこには、死んだ人が魔法のように生き続ける)としても機能するし、あるいはまた症候(死者を想い起こさせる心を掻き乱す細部)としても機能する。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳ーージジェクによる政治的「症候/フェティシズム」モード

ジジェクは、症候もフェティッシュも区別がつきがたいときがあるとしている。「富国強兵」は症候(抑圧された欲望)なのか、フェティッシュ(死んだ人(大日本帝国)が魔法のように生き続ける)のかは判然としない。

もし後者であれば、安倍自民党政権は、徹底的な「リアリスト」ということになる。《フェティシストは自身の私的世界に没入する夢見る人ではない。彼らは徹底的な“リアリスト”である。もののあるがままを受け入れるのであり、というのはフェティシュな物にしがみついて、現実の全面的な影響を和らげることができるからだ。》すなわち、《私は理性的な功利主義者の主体を装う。ものごとがどのようにあるのかをよく知っている。しかし貨幣フェティッシュ=「富国強兵」のなかに自分の否認された信念を包み》んでいるのかもしれない。

厳密にいえば、倒錯とは、幻想の裏返しの効果です。主体性の分割に出会ったとき、みずからを対象として規定するのがこの倒錯の主体です。(……)主体が他者の意志の対象となるかぎりにおいて、サド=マゾヒズム的欲動はその輪を閉じるだけでなく、それ自身を構成するのです。(……)サディスト自身は、自分で知らずに、ある他者のために対象の座を占め、その他者の享楽のためにサディズム的倒錯者としての行動をとるのです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

ここでラカンは「幻想」といっているのは、神経症(モード)のことである。他方、「倒錯」が厄介なのは、己れが「病気」だと無意識的にも意識的にも感じていないことだ。

<大文字の他者の意志>の純粋な道具の地位を引き受けるという倒錯的な態度(……)。それは私の責任ではない。実際にそれを行うのは私ではない。私はたんにより高次の〈歴史的必然性〉の道具にすぎない。こうした状況がもたらす猥褻な享楽は、私は私自身が自分のしていることに対して無罪であると考えているという事実から生み出される。私は、私には責任がなく、たんに〈大文字の他者の意志〉を実現しているだけだということをじゅうぶんに意識しているからこそ、他人に対して苦痛を課すことができる。(ジジェク『ラカンはこう読め』p181)

ジジェクにはこれらの説明の種々のヴァリエーションがある(参照:Hysteria, Psychosis,Perversion-----Zizek "Less ThanNothing")。ここではひとつだけ抜き出しておこう。

倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を<他者>に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(ジジェク『斜めから見る』)

安倍自民党政権の「富国強兵」がどのように機能しているのかは、わたくしの知るところではない。おのおのの所属者によって「神経症」的であったり、「倒錯」的であったり、あるいはまた「精神病」的であったりするのかもしれない。精神病の特質は次のようである。

精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです.ラカンが,狂人は自由な人間だというのはこのためです.Clinique ironique. Jacques-Alain Miller

だがどうやらわたくしの浅墓な見立てではーージジェクや柄谷行人の論のパクリとしての見立てではあるがーー、安倍自民党政権全体としては、どうも「倒錯=フェティシスト」的であるように見えないでもないのだ。《フェティッシュの場合は、逆に、私は“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく。この意味で、フェティシュは、私を苛酷な現実に対処させる頗る建設的な役割を果たす》。だが、「富国強兵」という呪物(フェティッシュ)が建設的な役割を果たしてもらったらコマル。

呪物は、確かにその信奉者から異常なものと認められているのだが、病気の症状と感じとられていることは稀(……)。たいてい彼らはその呪物にまったく満足しており、あるいはかえって、彼らの愛情生活に役立つ便宜さを高くかってさえいる。(フロイト『呪物崇拝』)

ーーここでは、ヒトラーが羨んだといわれる戦前の日本型ファシズム、「いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」(柄谷行人)」をめぐっては、議論が煩雑になるので触れていないが、フェティシズムについて考える上には、当然、《日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない》ことを視界におさめなければならない。

…………


レヴィ=ストロースは、若き彼の真の二人の師(マルクス、フロイト)を称揚しつつ次のように語っている。
分類から導かれた仮説が、決して真ではありえず、ただより高い説明価値があるかどうかだけが重要。(『悲しき熱帯』)

フロイトは、仮説に立つと、より多くのものを説明ができるといっている。そしてレヴィ=ストロースが言うのと同じように、別のより高い説明価値がある仮説があれば、いつでも乗り換える用意があるとも。


…………

※附記

やや上の文脈からはずれるが、次のジジェクの問いかけ(柄谷行人への)を付記しておこう。

ジジェクは、『パララックス・ヴュー』あるいは『LESS THAN NOTHING』にて重ねて、柄谷行人の権力論を批評(吟味)している。

それは、《もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である》(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-283)をめぐる箇所である。

"the center exists and does not exist at the same time"(中心は在ると同時に無い)

《But is this effectively enough to undermine the "fetishism of power"? When an accidental individual is allowed to temporarily occupy the place of power, the charisma of power is bestowed on him, following the well-known logic of fetishist disavowal: "I know very well that this is an ordinary person like me, BUT NONETHELESS... (while in power, he becomes an instrument of a transcendent force, power speaks and acts through him)!" Does all this not fit the general matrix of Kant's solutions where the metaphysical propositions (God, immortality of the soul...) are asserted "under erasure," as postulates? Consequently, would it not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the PLACE of power? 》(The Parallax of the Critique of Political Economy


こういったジジェクの柄谷行人批判(吟味)の核心部分(『パララックス・ヴュー』)を、いまだインターネット上では、誰も引用していない(わたくしは手元に英文しかないので、いま邦訳がないのか探ってみたのだが)。『LESS THAN NOTHING』も、そろそろ邦訳が上梓されるはずだが、この大著『パララックス・ヴュー』のさらに二倍ほどの分量をもつ書もたいして読まれることはないだろう。

ところで柄谷行人の権力欲をめぐる考え方は、次の通り。

われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ジジェクのいう、権力の「場所」という神秘を取り除くことが真の仕事である、という主張は「ユートピア」的思考であり過ぎるという観点もあるだろう。

…………

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。(……)

些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」)


2014年6月24日火曜日

ハラスメント、あるいは苦情の文化

かなり前のことだが、ツイッター上で、あるプロ写真家の女子高生たちの花見写真のRTと彼が女子高生側から難詰(だまってとらないでよ!)をぼやく発話をRTしたとき、フェミニスト風のオジョウサンから、「被写体の人物に了解をとってから、写真を撮るのが現在の最低限の礼儀だわよ、おじさん!」とさとされたことがある。

この「おっさん」はフェミニストのたぐいが怖いタチなので
「でもねえ、こっちの国では若い女の子たちはこっそり撮られて
あとで気づいても、にこっと微笑みかえすだけだけどねえ」
と応答しておくだけにして
ややこしい反論はしないでおいたが。

「写真の本質は盗写じゃないかね」なんて言っても
通用しそうな相手じゃなさそうだったから。





「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。(……)写真は、それがなぜ写されたのかわからなくなるとき、真に《驚くべきもの=不意を打つもの》となる。(ロラン・バルト『明るい部屋』p46)

こっそり写真を撮るのは、スカートの下じゃなくても
ハラスメントなんだろうなあ、いまでは。




「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。

(……)あるいは、「悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある」という塀ゲルの言明をふたたび言い換えるならば、〈他者〉に対する不寛容は、不寛容で侵入的な〈他者〉をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある。(ジジェク『ラカンはこう読め』P173-174)

この「ハラスメント」への極度の敏感さの現代的傾向については、大澤真幸の説明がわかりやすい。

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸『<自由>の条件』より)

ここで《現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い》とあるのは、ラカン派では「<エディプス>の斜陽」とか「父性的な象徴権威の弱体化」、さらには「大文字の他者の不在」などと言われるものだ。

「大文字の<他者>の非存在」という新しい状態の、もしかすると最も目を引く面は、技術的発達がますますわれわれの生活世界に影響力をもつときに顔を出す、いわゆる倫理的な問題について決断を迫られる「委員会」の発生かもしれない。(……)

例えばある言明が、実際にセクシュアル・ハラスメントを構成したり、人種差別的な憎悪による発話を構成したりするかどうかを決定することには、構造的な困難がある。そのようなはっきりしない言明を前にすると、「政治的に正当な」急進派は、まずもって、非をならす被害者の方を信じる傾向にある(被害者がそれをいやがらせとして経験したのなら、それはいやがらせなのだ……)のに対して、強硬な正統派リベラルは、告発される加害者の方を信じる(本気でいやがらせのつもりでやったことでないのなら、それは免罪されるべきだ……)傾向にある。もちろん肝心なところは、この非決定性は、構造的なもので避けようがないということだ。最終的に意味を「決する」のは、「大文字の<他者>」(被害者と加害者がともに組み込まれている象徴界のネットワーク)なのであり、「大文字の<他者>」の命令は、そもそも結果が決まっているものではなく、誰もその結果を支配し、規制することはできない。だから、行き詰まりを打破するには、結局は恣意的なかたちで正確な行動規則を定めるために、委員会を招集することになる……。

(……)まるで「大文字の<他者>」の欠如が、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな大文字の<他者>」としての「倫理委員会」で埋められているかのようである。(……)

この大文字の<他者>の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。その根底にある論理はルサンチマンである。主体は、大文字の<他者>が存在しないことを喜んで引き受けるのではなく、その失敗かつ/あるいは無力を<他者>のせいにする。<他者>が存在しないということが<他者>の罪であるかのようだ。つまり、無力は言い訳にはあんらないかのようだーー大文字の<他者>はまさにそれが何もできなかったということに責任があるのだ。主体の構造が「ナルシシスティック」になればなるほど、主体は大文字の<他者>に責めを負わせ、そうして自分がそれに依存していることを確める。「苦情の文化」の基本的な特徴は、大文字の<他者>に向けられた、介入して事態を正してくれ(損害を受けた性的少数派あるいは少数民族などに報いてくれ)という要求であるーーまさにそれをどうするかが、さまざまな倫理的=法的「委員会」の問題になる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」)

…………

ところで都議の「セクハラ」発言と大臣の「金目」発言(パワハラ)があって世論の反撥を生むのは当然だが、その反撥の度合、温度差が著しく異なる(たとえば「署名」数)。

@AtaruSasaki: 「セクハラ」やいじめなど昔からある定型の問題には感情的になりやすい印象があります。確かにたいへん重大な問題です。しかし石原金目発言も同じように問題ではないでしょうか。みなさん、福島をお忘れですか? →【署名はこちら】http://t.co/f8x6tjh3pw (佐々木中)

《「セクハラ」やいじめなど昔からある定型の問題には感情的になりやすい印象があります》や、あるいは「福島」はわすれられているとあるが、それだけではなく、あの温度差は、じつは石原金目発言は、かなりの割合の人々はひそかに「正しい」と思っているせいかもしれない。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

実際、「原子力安全委員会」の委員長であった斑目春樹はかつて次のように発言しているようだ。

(最後の処分地の話は)最後は、結局、お金でしょ。
どうしても、みんなが受けて入れてくれないとなったら、じゃあ、おたくには、今までこれこれと言ってきたけど2倍払いましょう、それでも手を挙げないんだったら5倍払いましょう・・・・(斑目春樹2011.5)

インターネット上からは次のような見解をも拾うことができる(石原伸晃の「金目」発言の裏側でうごめくものの正体)。

私はある意味では伸晃君を買っているのです。彼は、絶望的な正直者なのです。だから、政治家には向いていない。


都議の「セクハラ」発言は、《表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口》の対象でもありうるのかもしれない、そのため多くの「正義の士」による反撥を生む。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

《現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける。同じ人に対して同じように賞賛する。》(中島義道『醜い日本の私』)

…………

以下は資料。

Do We Secretly Envy the Childfree? Or is childlessness still a taboo?

Rationally, of course, we know that not everyone should have kids, and that not everyone wants to have kids, and that life without kids is an entirely plausible and even pleasant possibility; and yet, do many of us secretly feel sorry for or condescend to or fail to understand women who don’t have children? Do we assume they are bravely harboring some deep disappointment, do we think they can’t possibly be happy with things as they are, that there is some brittleness, some emptiness at the center? This is the argument of the French feminist, Elisabeth Badinter, and I think she is probably right.

(意訳、すなわちテキトウ訳)
理性的には、もちろん、わたしたちはみんなが子供をもつ必要はないし、みんなが子供をほしくないというのは知っているわ。子供がいない生活はまったく妥当でありうるし、楽しいのかもしれない。でもわたしたちの多くは、子どもをもっていない女性をかわいそうに感じたり、見下していたり、わかってあげようとしていないんじゃないかしら? わたしたちは決めてかかっていない? 彼女たちは深い失望感を勇敢にもやりすごしているだけだって。こんなふうに思っていない? 彼女たちは、現状のままではしあわせじゃないかもしれないって。彼女たちの心の核には、なにか脆さや虚ろなものがあるんじゃないかって。これがフランスのフェミニスト、エリザベート バダンテールの議論で、わたくしもたぶん正しいと思うわ。
Taboo is a strong and unsubtle word, probably, for how we feel about childlessness; it might be more precise to say that the shrewder, wilier form that taboo takes is probably something closer to pity, as if the childless woman has somehow not pulled it together, as if she is damaged or thwarted. Especially if that childless woman conforms to our clichéd narrative, and say has a dog or cat, or a dog and a cat, or multiple dogs or cats: the general interpretation is that she is sad, not that she is doing a different thing.

We know of course that we are not supposed to judge other women for something like not having children, but we do it all the time.……

タブーは強くて、隠微なものなんてものじゃ全然ないわ、わたしたちが子供なしについてどんなふうに感じているのかについてね。もっとはっきりと言ってしまえば、タブーがなにを示唆しているのか、より突き刺すように、より巧妙な形で言えば、なにか憐れみに近いものがあるんじゃないかしら。まるで子供のない女性はいくらか落ち着くことができず、まるで彼女たちは傷ついたり、さもなければ挫折している、と。とくに子供がいない女性が、わたしたちのクリシェに語り口にぴったりするときだわ。犬か猫、犬と猫、たくさんの犬と猫なんてね。ふうつの解釈では、彼女たちは淋しいってことね、他人と違ったことをしているというのじゃないわ。

わたしたちはもちろん子供のないようなほかの女性をそうなふうに判断なんかしていないと思い込んでいる。でも実際はいつも判断しているのよ。……

ーーエリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)はかつて『母性という神話(L'Amour en Plus)』(鈴木晶訳)で次のように語った人物である。

著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。(鈴木晶「あとがき」ちくま学芸文庫)

ジジェクは、バダンテールの“On Masculine Identity1996)”を引用して次のように書いている。

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)

現在の真の社会的危機は、男性のアイデンティティである、――すなわち男性であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(私訳)


…………

◆2013年07月21日(日)東浩紀 @hazumaツイートより。

ぼくは基本的に異性愛だろうが同性愛だろうがなんでもいいひとです。ただ他方で子どもを作るのも尊いことだと思っているひとです。この両者を両立させるのはなかなか難しいんですが、今後はそれしかないでしょう。

このあいだも某政治家さんから雑談で「いまは選挙戦説でも難しい。子作り支援する社会を作ろうと言うと、では子ども作らないひとはどうなるのかという話になるので、そこはむろん個人の選択でみたいな註釈を付けねばならずすべてがぼやけていく」とかいう話を聞かされたのだけど、それはほんと問題。

問題は、保守的で家父長的で女性差別的で異性愛中心主義的な発言と受け取られないようにするための註釈がおそろしく長くしかも複雑怪奇になっていて、子ども作ったらそれなりに楽しいよーとか、子ども作るなら年齢限界あるよーとかいう話がほとんどできなくなっているということなのですよ。

この、「保守的で家父長的で差別的な発言と受け取られないようにするための註釈がおそろしく長くしかも複雑怪奇なので結果的になにも発言したくなくなる問題」は、結婚出産の問題に限らず、リベラルの影響力をあらゆる方面で削ぎ落としているので、そろそろなんとかしたほうがいいと思うんだけどね。

まあ、とはいえ、一方に頑迷な差別主義者が残っているのは事実で、他方で差別主義者の糾弾こそが知識人の使命だと思っているひとが多いのも事実なので、ぼくみたいな主張は理解されないんだろうけどね。差別と受け取られることを怖れないで積極的に提言していくリベラルとか、想像つかないよな。。

…………

以下のような言説は、現在では一言でも口に出してはならぬ(?)、ことさら《差別主義者の糾弾こそが知識人の使命だと思っているひとが多い》現代日本では。

「私は母性が何をもたらすかわからない。わかっているのは、子供を産まないと、世界の半分を失うということよ。同性愛は決してこの働きを知らないでしょう。それが同性愛の限りない貧しさよ」マグリッド・デュラス
いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ――「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)
実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)
「女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は虚をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである。われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。」(『善悪の彼岸』)
 …………

(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げる例なのですが、man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです。(浅田彰

バッハオーフェン、あるいはニーチェの「ディオニソス」思考系譜の、ケレーニンは、女ははゾーエーの象徴であり、男性はビオスの象徴である、とする。女性は「無限の生」(zoe)の体現者であり、男性は[一回的な生](bios)の体現者でしかない、と。ゾーエーとは、ひとつかぎりの真珠(ビオス)のビーズを繋げる糸なのであり、《破壊を受け容れず遺伝子のように固体を越えて連続する生》であると。


ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。「創造→維持→破壊」の循環、「死と再生」の体現者である女性は、「無限の生命zoe」の象徴であり、男性は一回限りの「有限の生命bios」でしかない(参照:バッハオーフェンの「母権制」と、ニーチェ、あるいはドゥルーズ=マゾッホ

男/女の二項対立(分子)の土俵には、無限の生(zoe)の分母があるに決っている。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)


女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より