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2014年6月13日金曜日

歓待の掟

貴君の口から再度ある語彙が洩れたら、
わたくしの「歓待の掟」として書こうと思っていたのだがね、
《真の歓待とは、ちょっとした長所を讃美することでも、
 欠陥をうやむやに見逃すことでもないだろう》
いままで十分にこの「歓待の掟」を守っていなかったことを後悔して。

貴君がこのブログをいまだ読んでいるかどうかは
わたくしにはよく分からないが、それはこの際どうでもよろしい。

マジョリティがマイノリティに向ける寛大さを利用して
《つまり希少価値からくる怠惰な許容を絶好の隠れみのとして》、
マジョリティとの間に《目には触れない隔離の幕を張りめぐらせてゆく》
それは、マジョリティにとってもマイノリティにとっても
不幸な事というべきだろう。
《この自堕落な寛大さこそが、
 真の言葉の障害と呼ばれるものにほかならないからだ》
このマジョリティ/マイノリティの姿勢をこそ、
貴君は批判している人だったはずでね、
わたくしの勘違いでなかったら。

《当事者》という概念には、「外部から語ってはいけない」の神学が含まれると思います。いっけん良心的なのですが、「尊重さえしておけば良心的であることになる」という有無を言わさぬ恫喝にもなる。「この人は当事者だぞ」には、菊の御紋を突き付けるようなところがある。

これは限りなく「正しい」のだよな
わたくしも、フロイトや中井久夫などを引用することが多いのでね
以前のツイッターのアカウントのことだが
精神医学関連の著者の文を引用すると、
ある種のひとたちに関心をもたれる、
メンションがある、共感の、あるいはいささかの異議をもった。
メンションに応答して、対話者の解釈へのわたくしの齟齬感を投げつける
すると「わたしは当事者です」などと突然言い出したことがあった。
「私は統合失調者」なのだから、「私」は「お前」より分かっている
黙っておれ、ということなんだな
こういうことがあると、この種の人たちに「遠慮」することになってしまう。
だがそれはあなたの云う「名詞形」のせいだけなのだろうか
「当事者」という名詞の問題なのだろうか
レッテル貼りだけの問題なのだろうか。
それよりも日本的風土のせいなのではないだろうか
という疑義がある

※たとえば参照:


…………

ニコラス・レッシャーは、弁証法を論争の形式、あるいは法廷の形式から再考しようとした。それは、まず提案者(検事)の意見提示からはじまり、反対答弁者(弁護士)がそれを論駁し、さらに提案者が答えるというかたちでなされる。この場合、提案者の主張が、反駁しえないような絶対的な自明のテーゼ(真理)である必要はない。さしあたって、その主張に対する有効な反駁が出ないかぎり、それは真であると推定される。こうした論争においては、提案者にだけ「立証責任」があり、反対者は、なに一つ積極的な証拠を提示する必要がない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p108)

というわけで、貴君は、すくなくともある主張を展開しようとしているのだから、
いくら「少数派」の立場に立っていても、やはり「説明責任」はあるのだよ。

まず、私が一方的に「説明する側」に回っていることに気づいていただけませんか。多数派の側に立つ○○さんが、少数派の説明趣旨に立つ私を非難すれば、○○さんは一方的に「責める側」に回るのですが、この時点で、政治的バイアスが強すぎます。
何が問題になっているかにすら気づいておられないのですが、――多数派の価値観に乗っているので、○○さんは説明を求められません。そして、多数派に基づいて、私に「説明しろ」と詰め寄る権利があると思い込んでいる。

この○○さんは、どこかの若い社会学者だな。
まあオレの好みのタイプではないがね。

ところで、「政治的バイアス」などという言葉が
貴君の口から洩れてしまうのには驚いた。
以前、貴君のブログの次の文にひどく賛同した覚えがあるのでね。

支援する側が、ひきこもる人を「対象」として観察する。 支援される側が自分を “当事者” として、特権を享受しようとする。 双方とも、自分の目線や役割をメタに固定しています。

これは難しい問題ではあるのだけれど。
ポリティカル・コレクトネスだな
何にせよマイノリティの側に立って、
従来の多数派による抑圧を逆転してゆくことが
「政治的に正しい」(PC)という話
マジョリティ側からの「説明せよ」は
抑圧なんだよな
マジョリティは多くの場合この「抑圧」的仕草を遠慮する。
それは日本的風土ではことさらいちじるしい
○○さんはその点では希少価値がある。
やはりわたくしも貴君の主張は
「説明」がたらなすぎると印象を受けるのだが
それを「遠慮」していたんだな
いまこうやって書いているのは
その「遠慮」を取っ払おうとする振る舞いだよ
そもそもマイノリティの「特権を享受しようとする」態度を拒絶するのが
貴君のすぐれた姿勢だと感じ入ったにもかかわらず
貴君がみずからその姿勢を翻してしまう発言がときにみられるのではないか
その疑義を呈するためでもある
それは錯覚なのかもしれないけれど。

すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う。(『NAM生成』所収 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」における浅田彰発言)

だれかを傷つけるし、自分も傷つく
それでもしょうがないからやるしかない
という態度をもっている人だなと感じ入り
ツイッター上での貴君の論争を注目していたのだけれど
ーー微力ながら、応援もだがね。
それにもかかわらずいざ問いつめられたら
やはりマイノリティの側に立って
難詰してしまうというのは
議論の経緯を無視すればやはりちょっと残念だな
ソクラテスのイロニーの餌食になるのは
堪えがたいというのは分からないでもないが

ソクラテスが一般的な見解を受けいれ、それを提示せしめるということが、彼が自ら無知をよそおって、人々をして口を開かせるという外観をとるーー彼はそのことを知らない、そこで彼は人々をして語らしめるために無邪気さを装って問いかける。そして彼に教えてくれるように人々に懇願する。さてこれが有名なソクラテスのイロニーである。

イロニーはソクラテスに於ては弁証法の主観的形態である。それは交際に際しての振舞いの仕方である。弁証法は事象の根拠であるが、イロニーは人間の人間に対する特殊な振舞いの仕方である。彼がイロニーによって意図したところは、人々をして自己を言表せしめ、自己の根本的な見解を提示せすめるにあった。そして一切の特定の命題からして、 彼はその命題が表現していることの反対のものを展開せしめた。即ち彼は、その命題ないし定義に対して反対の主張をなしたのではなく、その規定をそのままとりあげて、その規定そのものに即して、いかにそれ自身と反対のものがそのうちにふくまれているかを指摘したのである。――かくしてソクラテスは、彼の交友たちに対して、彼らが何も知っていないということを知ることを教えたのである。(ヘーゲル『哲学史講義』)

柄谷行人はこの文を引用して次のように書いている。

ヘーゲルがいうように、ある命題を、いったん受け入れた上で、そこからそれに反対の命題を導き出して「決定不能性」に追いこみ、それを自壊させるというイロニーは、今日ではディコンストラクションとよばれている。というより、ディコンストラクショニストは、イロニーという語を避けることによって、自らの新しさを誇示してきたにすぎない。(柄谷行人『探求Ⅰ』P210)

いずれにせよ、ひとは「名詞形」=概念=表象(想像物)を使わずには
ものを書き得ない、《結局は概念から逃れられない。
ものを書くなら、そこで勝負するほかない。
とにかく概念がいやなら、いっさい物を言わないことだね》(柄谷行人
ある程度のレッテル貼りもほとんど避けがたい
名詞形を動詞形にしても似たようなものだ
ーー動詞化(当事化)だったな、貴君のは。
似たようなものはロラン・バルトや中井久夫にもあるのだがね

たとえば「絆」という名詞にうんざりして
「寄り添う」という動詞に変えてみてもこれは同じことだ
レッテル貼りもある状況では許容される、たとえば学校などでの「あだ名」。
すくなくとも相互性のある場では、たいした問題ではない。
どんなときの「名詞形」が悪なのか
それの「説明」が足りないように感じる
「メタ」「ダブスタ」等への批判も同じく。
そもそも日本人はもっとダブスタであるべきだという議論もあるぐらいだ
たとえば浅田彰と柄谷行人の「ホンネとタテマエ」、
あるいはジジェク=ラカンの「騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent

《名詞形による人間の区切りを/前提にしたままの議論を許すな。》
などとスローガン的に怒りを表出しても埒が明かないとわたくしは思う。

上に「相互性」と書いたが次のようなこと。

いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。(中井久夫「いじめの政治学」)

さてそれ以外にも、上の文に出てきた二つの語彙の出所を提示しておこう。


◆「遠慮」についてーー『「甘え」の構造』(土居健郎)より

ここで「遠慮」というこれも特殊な日本語について考えてみよう。

 この語は本来は文字通り「遠く慮る」意味で使われていたようであるが、現代ではもっぱら上述したごとき人間関係の尺度を測る読みとして使われているのである。すなわち親子の間には遠慮はないが、それは親子が他人ではなく、その関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対して遠慮がないばかりでなく、親も子供に対して遠慮はしない。親子以外の人間関係は、それが親しみを増すにつれ遠慮が減じ、疎遠であるほど遠慮は増す。友人同士など、親子以外の関係でも、随分遠慮のない関係も存するが、日本人がふつう親友という場合は、このような友人関係を指すのである。

 要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。できれば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最も望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。遠慮の意味は前に説明した「気がね」や「こだわり」とほとんど同義であるといってよい。すなわち相手の好意に甘え過ぎてはいけないというので遠慮するのである。いいかえれば、遠慮しないと図々しいと考えられ、相手に嫌われはしないかという危惧がそこには働いている。したがって遠慮しながら実は甘えているのだということができる。このように遠慮は窮屈な心理状態であり、ふつうはあまり好まれないが、時として人は遠慮の価値に気づくこともある。

 例えば、「どうも遠慮があって話しにくい」というときは遠慮はこのましくないものであるが、「あの男は遠慮がなくて困る」というときは遠慮が好ましいものと感じられている。それはまた、親子間の確執や、またもともと親しかった者同士の間に起きたトラブルは、まさに当事者間に遠慮がなかったことが原因であると解されることが多い。日本人は、一般的に自分のこととしては遠慮を嫌っても、他人には遠慮を求める傾向があるが、これは結局甘えの心理が社会生活の根本ルールになっているからであろう。また遠慮をそれこそ遠く慮ることとして積極的に価値づけるプライバシーの観念が従来日本に発展しなかったのもこのためであると思われる。

「歓待の掟」が日本にはないというのも
結局、古典的な「甘え」の話になるのだな
古臭くてすまないが。
より最近の言説なら
それは母性のオルギア(距離のない狂宴)
父性のレリギオ(つつしみ)の話であり、
日本は旧来から「母性的」なのだな

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰)


なかなか一筋縄ではいかないよ
そして世界そのものも「父権的権威」の斜陽のせいで
この点では「日本化」しているのだから。

他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク「ラカンはこう読め!」ーー寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか

結局、こういうことじゃないかな、いちばん大事なのは。

巧みな少数者として生きること(……)。そのためには、たしかにいくつかの、多数者であれば享受しうるものを断念しなければならないだろう。しかし、その中に愛や友情ややさしさの断念までが必ず入っているわけではない。そして、多数者もまた多くのことを断念してはじめて社会の多数者たりえていることが少なくないのではないか。そして、多数者の断念したものの中に愛や友情ややさしさが算えられることも稀ではない。それは、実は誰もが知っていることだ。(中井久夫「世に棲む患者」『世に棲む患者』ーー精神健康をあやうくすることに対する15の耐性)


◆蓮實重彦「歓待の掟」より『反=日本語論』所収

……妻があまり人前で日本語を話そうとしないのは、何もテレヴィジョンのせいばかりではない。それよりもむしろ、外国語を介して成立する人間関係の曖昧さ、というのかむしろ醜さとさえ呼ぶべきものが、日本ではとりわけ強調されているかに見えるからだという。それは、二重の意味で醜い。まず、たとえば、子供を公園に散歩させている時など、多くの場合は英語で、しかも理由もなく話しかけてくる日本人の顔が、例外もなく醜いという。同時に、場所がらもわきまえずに、大声で日本語を操る仲間の外国人も醜い。勿論、と、妻はいいそえる。勿論、外国語一般を頭から否定しているわけではないし、必要とあれば、日本語を話さねばならないし、英語で意志を通じあうことだってある。また、街頭での偶然の出逢いから親しいつきあいが生れたことも随分ごある。なかには、本当に親切さから言葉をかけてくれる日本人もいる。そんな時は、日本に暮らしている以上、当然の礼儀だと思って何とか下手な日本語で返事をしようとする。問題はそれから後に起る事態なのよ。


まず、こちらが日本語で話していることに気がついて、知っている限りの外国語の単語を挿入し、どれぐらいわかっているのかなあとなかば心配げに、時に身振りなどをまじえて説明しながら日本語で答えてくれる人がいる。そんなときその人は如何にも快活に生活を楽しんでいるなあと思って嬉しくなる。次に、実に自然な日本語で、しかもいかにも繊細な心遣いで難解な単語をそれとなく排除しながら会話を続けてくれる人がいる。そんな人には、かりに言葉につまって非礼を覚悟でフランス語を使ってしまっても、それを許してくれる心の柔軟さがそなわっているから、あとは何語で話そうと、人間としての心の触れあいを持つことができる。ところがこちらが無理して口にする日本語の言葉など頭からうけつけようとせず、たて続けに外国語を話し続ける人がいて、何とも醜いのはこの三番目の連中なのだと妻はいう。彼らは、身振りも表情もどこか似かよっていて、多くの場合、季節の変化とか、東京に住んで何年になるかとか、シャンソンが好きだとか、外国旅行にでかけたことがあるとか、パリの女性は美しいとか、そんな種類の文句ばかりをこちらの存在を無視してじゃべりまくる。そして、たまたま話題を転じて会話教則本の範囲をぬけでようとすると、あとはもう、イエスとかウイとか、何でもかでも肯定してしまう。最近、そんな人たちのふるまいの意味がどうやらわかって来た。自分が習った外国語が通じるかどうか、あたしを使って実験しているというわけなのね。日本という地理的配置からしてそれも無理はないと思う。それにしても、と、妻は不満げに口にするのだ。それにしても、そんなとき、こちらはガイジンという抽象的存在であって、人間とはまるで認められていない。それは贅沢な不満かも知れないけれど、何とも情けない話だと思う。それに、絶望的な点は、外国語を話すことで、自分のまわりに厚い壁をこしらえあげて、頑迷なまでにコミュニケーションを断っているのだということを、その人たちがまるで気づいていないらしいこと。それはちょうど、日本語がわかるということを示そうとするだけの目的で、入ったレストランの料理に文句をつけたりする外国人が、まさに自分の使っている日本語で日本人との対話を断ち切っているさまに似ているといえばいいかしら。とにかく、言葉の壁というものがあるというけど、それは外国語の無知が築きあげる障害というより、なまじ外国語を知っている人が捏造する文化的な環境汚染の一つだというべきだわ。だから自分としては、あまり流暢に日本語を操る気がしないのだというのが、妻の一応の結論である。結論といっても、怠惰であることの正当化の一つかも知れないけれど。でも、醜さに加担して言葉の環境汚染を蔓延させる気にはどうしてもなれない。

妻は、何も特別目新しい発見をしたわけではない。それは、日本に暮す外国人の多くが日々体験していることであろうし、われわれが祖国を離れて異国の地で生活するときにも、しばしば実感される現象である。(……)

確かに、言葉が巧みであればあるほど、自分が歓迎されている、容認されているという印象が誇張されはしよう。だが、真の歓待とは、ちょっとした長所を讃美することでも、欠陥をうやむやに見逃すことでもないだろう。まぎれもない差異としての他者の不気味さに、存在のあらゆる側面で馴れ親しむことこそが、歓待の掟であるはずだ。したがって、自然さとは、忘却の身振りではなく、あくまで意識化のそれでなければなるまい。

たとえば、フランス人の旧友と午後のひとときを過すような場合、こうして成立した自然さに埋没した結果、ついいましがた読んだばかりの週刊誌で目にした流行語とか、大学という環境の中でのみ流通しうる俗語の幾つかを思わず口にしてしまうときがある。すると相手は、全く別の文脈の中にそれに相応するより由緒正しい語彙をさりげなくまぎれこませ、その種の流行語や俗語を使って自然さを捏造しようとする外国人の不自然さを、いかにも自然に指摘してくれるのだ。勿論、あらゆるフランス人が、あらゆる外国人に対して、この種の自然さで接しているというのではない。だがそれは、日本人同士の日々の生活にあっても同じことだろう。要は、他なるものへの全的な合一でも、他なるものの全的な容認でもない。そして、そんな話はごく当然のことだと抽象的には理解できても、ひとたび外国語と呼ばれるものが介在するとあっさり忘れられて、流暢さという不自然のみが夢みられてしまうのだ。日本語を話そうとするとき妻を戸惑わせるものが、この不自然さへの怖れであることはいうまでもない。日本という風土にはこの不自然さを蔓延させるものが絶えず漂っている。そしてとりわけここで強調しておきたいのは、日本に住む外国人のかなりの数の人間が、この風土にすっかり浸りきっているかにみえる点だ。つまり、あんな風にだけははりたくないと妻がいう奇妙なガイジン達は、程よい巧みさで日本語を操って日本人の間を泳ぎまわりながら、彼ら自身の言動の根源に横たわる本質的な滑稽さに日本人が向ける寛大さ、つまり希少価値からくる怠惰な許容を絶好の隠れみのとして、日本人との間に目には触れない隔離の幕を張りめぐらせてゆく。それは、彼らにとってもわれわれ自身にとっても不幸な事というべきだろう。すでに述べたごとく、この自堕落な寛大さこそが、真の言葉の障害と呼ばれるものにほかならないからだ。そのため、コミュニケーションの道はいたるところで絶たれ新たな鎖国が始まっている。そして、二十一世紀を間近に準備しつつある時期のこの鎖国状態は、その鎖が人目に触れないだけにいっそう開国を困難なものにしてゆく。すべては、起源に身を潜める滑稽さを明確に標定し、しかる後に共有しつつある何ものかをたがいに辛抱強くさぐりあてながら、滑稽それ自体にゆっくり時間をかけて馴れてゆくという作業があらかじめ放棄されてしまっていう点から来ているのだ。……