ーーとはさる書き手の文体模写の練習である。文体はまだしも、ひどい内容だねえ。わたくしは決してこんなことはいいはしない。
ところでドゥルーズの「概念の創造」ってのは、新しくレッテル貼りするのとどう違うんだろ?
柄谷行人)ぼくはドゥルーズがいった概念の創造ということに関して大きな誤解があると思う。概念の創造というのは新しい語をつくることだと思っている人が多い。その意味でいうと、『千のプラトー』はものすごく新しい概念に満ち満ちているように見えるけれど……。
ぼくはそんなものは感嘆に形式化できると言っている。だからそこに新しさを見てはいけない。概念を創造するというのは、あたりまえの言葉の意味を変えることなんですよ。しかし、そうやって意味を変えるときに、必ずドゥルーズならドゥルーズという名前がついてくるんです。たとえば、マルクスが「存在が意識を決定する」と言ったときの「存在」は、マルクスによって創造された概念なんで、その一行は「事件」なんです。ぼくはそれが概念の創造だと思う。
浅田彰)だから、たとえばデカルトの「コギト」(われ思う)というのが概念の創造なんですね。
蓮實重彦)まさにそのとおりだと思うけれども、ちょっと違う角度から言うと、たとえば『マゾッホ』、あれはサディズムの概念をおもしろく定義したからいいのではないし、マゾヒズムの概念をおもしろく定義したからいいのではなくて、ふたつを分けたことが概念の創造なんです。
浅田)「マゾヒズム」はサディズムと関係ないというのが概念の創造なんですね。
( ……)
音楽でいうと概念というのはライトモチーフなんですよ。だから、一回聴いたらそれがだれのものかわかるんですね、どういう変奏のもとに出てきたとしても。
蓮實)そこで、まさに概念は署名と不可分だということになる。それで、ドゥルーズという署名の問題が出てくるんだけれども、彼がガタリと創造した概念を、あたかもそれがCMでいうコンセプトであるかのようにして流通させている人は、まさに固有名を背後に感じていながらもこれを切断しているという、悪しき流通形態に陥ってしまう。それに対してドゥルーズは非常に厳しく批判していますね。
浅田)たとえば「スキゾ」という概念が 80年代の日本で結果的にCMのコンセプトのようなものとして流通したことは事実だし、その責任の一端は感じますけど ……。
蓮實)ありますよ、それは(笑)。
浅田)しかし、本当は、「スキゾフレニー」(分裂症)という言葉だってそれまでにいろんな人たちによっていろんな形で使われてきたわけで、ドゥルーズとガタリは新しい言葉を作るのではなくそういう既成の言葉を新しい形で使うことで概念を創造したんです。その点では、ガタリはまだ新しい言葉を生み出しているとして、ドゥルーズはほとんどそういう言葉を生み出していないとあえて言いたいぐらいなんですね。
蓮實)であるがゆえにすごいんだということでしょ。
浅田)そうです。つまり、ドゥルーズはやはり何よりも哲学史家だと思う。音楽の比喩で言うと、作曲家ではなくて演奏家なんです。ドゥルーズとガタリはグールドが好きだったけれど、グールドが弾くとバッハもベートーヴェンもグールドになってしまう、しかしそれはやはりバッハやベートーヴェンなんです。ガタリとの関係で言えば、ドゥルーズはほとんどガタリというピアノを弾いているんですね。
柄谷)カント論もニーチェ論もみなそうで、演奏なんですね。
浅田)演奏ってインタープリテーション(=解釈)ですから。
柄谷)ただし、解釈学とは違う解釈ですね。(共同討議「ドゥルーズと哲学」批評空間 1996Ⅱ―9)
…………
…次のことだけを指摘しておきたい。しばしば合理的な思考の源泉とみなされるギリシャの思想家における「建築の意志」が、ヘブライニズムに劣らず、非合理的な選択にほかならなかったということである。ニーチェが、それを、生成の多様性・偶然性を肯定することのできない弱者のデカタンス、あるいは合理主義への非合理的な逃避とみなしたように。
隠喩としての建築とは、混沌とした過剰な“生成”に対して、もはや一切“自然”に負うことのない秩序や構造を確立することにほかならない。(柄谷行人『隠喩としての建築』p10-11)
たとえばドゥルーズの「少女になる、子供になる」ってのも「生成」だよな。当時流行していた構造主義のひっくりかえしさ。
少女や子供が生成変化をとげるのではない。生成変化そのものが少女や子供なのである。子供が大人になるのではないし、少女が女性になるのでもない。少女とは男女両性に当てはまる女性への生成変化であり、同様にして子供とは、あらゆる年齢に当てはまる未成熟への生成変化である。「うまく年をとる」ということは若いままでいることではなく、各個人の年齢から、その年齢に固有の若さを構成する微粒子、速さと遅さ、そして流れを抽出することだ。「うまく愛する」ということは男性か女性のいずれかであり続けることではなく、各個人の性から、その性に固有の少女を構成する微粒子、速さと遅さ、流れ、そしてn個の性を抽出することだ。<年齢>そのものが子供への生成変化なのだし、性一般も、さらには個々の性も、すべて女性への生成変化、つまり少女たりうるのである。――これは、プルーストはなぜアルベールをアルベルチーヌに変えたのだろうかという愚劣な問いへの答えである。
ところで、女性への生成変化も含めて、あらゆる生成変化がすでに分子状であるとしても、あらゆる生成変化は女性への生成変化に始まり、女性への生成変化を経由するということも、はっきりさせておかなければならない。女性への生成変化は他のすべての生成変化を解く鍵なのである。戦士が女性に変装し、少女になりすまして逃走する、そして少女の姿を借りて身を隠すということは、彼の経歴において恥ずべき仮そめの偶発事などではない。身を隠し、偽装するということは、戦士の機能そのものなのだ。……(ドゥルーズ『千のプラトー』厚表紙版 p320
・例えばD/Gの提起するものは無論或る「思考実験」だが同時にそれは「生の実験」に関わるものである。しかしいつの間にか彼らの思考は研究者の書斎や語句注解の営みに呑み込まれてしまった。それを推進するはずの者の営みがその本質を封鎖する障壁になってしまう・・・まあ、いつの時代も相変わらずか
・「ドゥルーズやフーコー、デリダといった人々の提起はたぶん哲学的にも倫理的にも望ましきことだが、最大の問題は彼らの要請するような世界を耐え続けることが出来る者はおそらく極く稀な者たちだろうということです」、と、こう言ったのがレヴィ=ストロースだったという僕の記憶はいい加減として・・
・じっさい「器官なき身体」やら絶え間ない「脱構築」或いは「外の思考」絶対的分散、主体と起源と帰属の不在、絶対的多元性、マルティテュード、例外性etc.を文字通りに「生きる」ことに耐え続け得る者はおそらく殆どいない。しかし少なくともそれが僕らの「救命ホース」であることに変わりはない
すなわち生成変化やら動詞形に耐え続ける者は殆どいないんじゃない? ってことだな。
あれら学者たちをみてみろよ。どうみても「生成変化」には縁のなさそうなおっさんがなんたら言っているだけだろ、と。ただ「救命ホース」としては大切だよな、というわけだ。
……ペレルマンは『レトリックの帝国』のなかで、伝統的レトリックではほとんどとりあつかわれない議論技術として「概念の分割」をあげている。「現象/実在」という対象概念は、その最も代表的な例であり、偶然/本質、相対/絶対、個別的/普遍的、抽象的/具体的、行為/本質、理論/実践といった二項対立もおなじみのものだ。ペレルマンはこれを「第一項/第二項」とよび、さらにそれらがたんなる二項対立ではないことをつぎのように説明している。
《現象/実在という対概念を手本として、哲学的概念を第一項/第二項の形で表すことができる。第一項は現象的なもの、最初に出てくるもの、現実的なもの、直接的なもの、直接に認識されるものを表わす。第二項は第一項との間には区別があるが、この区別は第一項に関連づけてのみ理解される区別であって、第一項の諸様相間に現れた不両立関係を除かんがため第一項内で行われた分割の産物が第一項と第二項との区別である。第二項は第一項の諸様相内で価値あるものと無価値なものとを区別することを可能にする基準、規範を示している。第二項はたんに与えられてそこにあるものではなく、第一項を分割するにあたってその諸様相間に上下関係を設定することを可能にする規則のための構成物(コンストラクション)でもある。何が実在であるかを決定する第二項の規則に合致しないものが、見かけのもの、誤っているもの、悪い意味で現象的なものである。第二項は第一項に対して規範であり、同時に説明でもあるのである。》(ペルレマン「説得の論理学」)
「説得の技術」としてみられているかぎり、どんなレトリック論も不毛である。(中略)「説得の技術」であるかぎり、レトリックは二次的であり、それはペレルマン自身のいい方でいえば、{(レトリック/哲学)哲学}という構図のなかにある。すなわち、レトリックと哲学の対立はメタレベルとしての哲学によって支えれれている、しかし、今日いわれている「レトリックの復権」は、そのような構図の“逆転”としてあらわれたのである。つまりレトリックそのものがレトリカルに逆転されたのであって、この自己言及性に注意しなければならない。それがもはやたんなる“逆転”でありえないことはいうまでもない。ペレルマンは、西洋哲学がそのような二項対立のなかにあると同時に、“独創的思想”が、これらの対概念の上下を逆転することによって生じてきたこと、しかしたんなる“逆転”にはとどまりえないことを、次のように説明している。
《独創的思考はためらうことなくこれら対概念の上下をひっくり返すものだが、しかし、その逆転も、対概念の二項のいずれかを手直しすることなしに起こることはまれである。逆転を正当化する理由を言う必要があるからである。こうしてたとえば個別的/普遍的という伝統的形而上学の特徴的な対概念を逆転すると、抽象的/具体的という対概念になる。なぜなら普遍がプラトン的イデアの如き高度の実在でなく、具体的なものから派生した抽象物とみなされるところでは、唯一の具体的存在でる個別的なものの方にこそ価値があるとされるからである。その場合直接に与えられたものの方が実在であり、抽象物は理論/実在の対概念に対応した派生的理論的産物にすぎないものとなる。》
そこからみれば、「形式化」が、たんに形式/内容の逆転ではありえず、{(形式/内容)内容}という構図そのものの逆転であらざるをえないことが明らかになるだろう。そして、この逆転は、{(内容/形式)形式}に帰結するだろう。デリダのいう「自己再固有化の法則」とはこのことである。そして、彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。
すでにのべたように、十九世紀後半からの「形式化」は、「知覚/想像力」・「実存/本質」・「不在/現前性」・「シニフィアン/シニフィエ」・「文字/音声」・「狂気/理性」・「精神/身体(知覚)」、その他ありとあらゆる二項対立(副次的なもの/一次的・本質的なもの)の“逆転”としてあらわれている。それが実存主義とよばれようと、構造主義とよばれようと、また当人がそのような名称を拒絶しようと、重要なのはそのような“逆転”ではない。むしろわれわれが問うべきなのは、いかにして“逆転”が可能なのかということだ。そのことは、すでにペレルマンが「分割」についてのべたことのなかに示唆されている。 すなわち、第二項は、「第一項/第二項」の対立に属すると同時に、第一項において不可避的に生じる「不両立関係」(パラドックス)を回避するために見出されるメタレベルであり、そしてこの上下(クラスとメンバー)の混同を禁止するところに、いわば「形而上学」がある。つまり、プラトン以来の哲学は、たんなる二分法によるのではなく、この対立がもつ自己言及的なパラドックスを“禁止”するところにあった。しかし、それはけっして“禁止”できない、というのは、それは形式的にコンシステントであろうとするかぎり、「決定不能性」におちいるからである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』(講談社版)P115-119)