シューマンのクララへの手紙より(1839年3月11日 結婚一年前)。
1週間以上もあなたに手紙を書いていませんでしたね。でも私はあなたの夢を見て、これまで経験したことのないほどの愛をもってあなたのことを想っています。ピアノの前に座っては、いっぺんに作曲しつつは文章を書き、笑いながら泣く毎日です。あなたにはこれらが全部、私のOp.20のグランド・フモレスケの中に美しく書き表されているのがわかることでしょう。曲はもう楽譜屋の手の中にあります。
私はこの世で起きるあらゆることから影響を受けて(……)その気持ちを表現したいと思っていたところ、音楽の中で表すという方法を見つけたのです。そのため私の楽曲は時に理解しがたいですが、それは音楽が色々な興味と結び付けられているからなのです。
譜例⑥を参照いただきたい。(……)三段譜表の中段に「内なる声Innere Stimme」と書かれた旋律の存在である。上段は右手で、下段は左手で奏されるが、中段の旋律は演奏されない。実はこれまで述べてきた譜例④の冒頭のバス旋律(複前打音がタイで伸ばされた音)は、譜例⑥の「内なる声」の旋律の前半四小節に書かれた二分音符による旋律d1-c1-b の音価を拡大したものである。さらに「内なる声」の続く4小節に書かれた四分音符(と二分音符)による旋律b-es1-d1-d1-c1-d1 は、譜例④のソプラノ旋律(第467 小節以下)と対応している。
この対応関係を踏まえた上で再び譜例⑥「内なる声」に目を向けると、後半四小節の旋律に強弱変化の記号がある。つまり、b からes1 にかけてクレッシェンド、d1 にディミヌエンドの指示がある(なお、d1 に対するディミヌエンドの指示は、三段譜表の最後を締めくくる二分音符d1 にも見られる)。
この部分と同じように対応する譜例④のコラール風の旋律にも強弱変化をつけると、音価を引き伸ばされた「内なる声」は、歌うように、音を伸ばしたり大きくしたり減衰したりできる「声」として聞こえてくるのである。(「内なる声が語るもの―シューマンの《フモレスケ》とフィスハルモニカ」 筒井はる香
http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/art/pdf/sart-020-05.pdf)
……シューマンの最も内省的な面の現れとして《フモレスケ》作品20の第2部に見られる「Innere Stimme=内なる声」を挙げたいと思います。中段に書かれた「内なる声」である音符は実際には演奏されず、ただ心の中で静かに歌われるべき旋律を意味しています。現実的な音響とは関係ないこうした書法や、モットーとしての詩の提示はシューマン独自の詩的世界の現れであり、シューマン以外ではほとんど考えられないことだと思います。
その一方で、シューマンはこの「一つの静かな音」とはクララであると彼女への手紙の中で書いています。この曲はクララのために献呈しようと計画されていました(実際出版された時には、ベートーヴェン記念碑の寄付を提唱したリストへ献呈されましたが)。シューマンは手紙の中で「第1楽章は私の書いた最も情熱的な曲でしょう。あなたへの深い嘆きです」と書いています。
1楽章の最後にアダージョの部分が突然出てくるのですが、この部分の旋律はベートーヴェンの《遥かなる恋人へ》という歌曲集からの引用であると言われています。シューマンが引用したというその歌は歌曲集の第6曲目にあたりますが、「さあ愛する君よ、以前に歌ったこの歌を受け取っておくれ。心の中からほとばしる、ただ憧れだけがこめられた歌を。そしてこの歌で、我々を隔てる邪魔物を消してしまおう」という内容の歌詞が付いているのです。これはシューマンからクララへのメッセージそのものといえます。シューマンは、ベートーヴェン記念碑のためにふさわしい、また自分自身の思いともマッチするベートーヴェンのこの曲を自身の《幻想曲》へさりげなく織り込んだのでした。楽譜を受け取ったクララは「幻想曲を読みながら美しい夢を見ました。このように深い印象を受けたことはありません」とシューマンへの手紙に書いています。聡明な女性であり、なおかつ優れた音楽家であったクララなら、すぐこのメッセージにも気付いたはずです。
シューマンにとっての「一つの静かな音」が自分自身の心の声なのか、クララのことを指しているのか断定することはもちろんできません。しかしロマン派の時代とは比較にならないくらい生活のおけるあらゆる点で進歩を遂げ、ほとんどの情報や物をすぐに手にできることができる私たちにとって、世界がますます雑多な音に満ち溢れ、どこかで静かに鳴っているはずの一つの音に耳をすますことが難しくなっていることは間違いないでしょう。(後藤友香理)
Deleuzian “pure difference” at its purest, if we may put it in this tautological way, is the purely virtual difference of an entity which repeats itself as totally identical with regard to its actual properties: “there are significant differences in the virtual intensities expressed in our actual sensations. These differences do not correspond to actual recognizable differences. That the shade of pink has changed in an identifiable way is not all-important. It is that the change is a sign of a re-arrangement of an infinity of other actual and virtual relations.”67 Does not such a pure difference take place in the repetition of the same actual melodic line in Robert Schumann’s “Humoresque”? This piece is to be read against the background of the gradual loss of the voice in Schumann’s songs: it is not a simple piano piece, but a song without the vocal line, with the vocal line reduced to silence, so that all we actually hear is the piano accompaniment. This is how one should read the famous “inner voice” (innere Stimme) added by Schumann (in the written score) as a third line between the two piano lines, higher and lower: as the vocal melodic line which remains a non-vocalized “inner voice” (which exists only as Augenmusik, music for the eyes only, in the guise of written notes). This absent melody is to be reconstructed on the basis of the fact that the first and third levels (the right and the left hand piano lines) do not relate to each other directly; that is, their relationship is not that of an immediate mirroring: in order to account for their interconnection, one is thus compelled to (re)construct a third, “virtual” intermediate level (melodic line) which, for structural reasons, cannot be played. Schumann takes this use of the absent melody to an apparently absurd level of self-reference when, later in the same fragment of “Humoresque,” he repeats the same two actually played melodic lines, yet this time the score contains no third absent melodic line, no inner voice―so that what is absent here is the absent melody, absence itself. How are we to play these notes when, at the level of what is actually to be played, they repeat the previous notes exactly? The actually played notes are deprived only of what is not there, of their constitutive lack; or, to refer to the Bible, they lose even that which they never had.68 Consequently, when we suspend the symbolic efficiency of the inexistent “third melody,” we do not simply return to the explicit line; what we get is a double negation―in the terms of the Lubitch joke, we do not get straight coffee, but a no-no-milk coffee;69 in terms of Schumann’s piece, we do not get a straight melody, but a melody which lacks the lack itself, in which the lacking “third line” is itself lacking.
死なずに生きつづけるものとして音楽を聞くのがわたしは好きだ。音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。《遠くからやってくるように》、シューマン(<ノヴェレッテ>作品二一の最終曲、<ダヴィッド同盟舞曲集>作品六の第十八曲、あるいはベルク(<ヴォツェック>四一九-四二一小節)に認められるこの指示表現は、このうえなく内密なる音楽を指し示している。それは内部からたちのぼってくるように思われる音楽のことだ。われわれの内部の音楽は、完全にこの世に存在しているわけではないなにかなのである。欠落の世界、裸形の世界ですらなく、世界の不在にほかならない。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PIANO SOLO』)
※ダヴィッド同盟舞曲集第十八曲とあるが、第十七曲の間違いか(ⅩⅦ Wie aus der Ferne(遠くからのように)、ⅩⅧ Nicht schnell (速くなく))。
痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。
この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。
音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)