ヴァレリーの「カイエ」には次のような文がある。
人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。
かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。
自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。
(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)
このヴァレリーの断章は、中井久夫の「感銘を受けた言葉」からの孫引きであり、こうして引用されたあと、次のように続けられる。
訳者によれば、この手段は「言語」であるそうだが、ヴァレリーがそう考えていたにせよ、それは言語に限ったことではないと考えてもよさそうである。私は、このアフォリズムを広く解して「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」というふうにした。
こういう眼で人をみているとなかなか面白い。ひとが自分とどれほど折り合いをつけているかは内心の問題で、それを眼で直接見ることはできないが、そのひと以外の人間との折り合いをつけうる程度というものは、眼に見えるものから多少推し量ることができる。
私は精神科医をもう長年やってきたが、その領域から例を持ち出すのはいくらでもできるし、実際、ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない。私が思い合わせるのは分裂病の一時期――決して全時期ではない!――にかんしてのものである。しかし、ここでは、そういう職業的な体験を持ち出すのはフェアではああるまい。それに、この命題はもっと一般的なものであり、ひょっとすると倫理というものの基本の一つであるかもしれない。
非常にありふれた例として、荒れている少年とか、些細な違反を咎めてとめどなくなる教師の内部をかりに覗き込むことができるとすれば、自分との折り合いが非常に難しく、自分と通じ合えなくなっているはずだと私は思う。
性というものにかんしてもそういうことができる。自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである。「片思い」の全部とはいわないが、その多くは自分と自分の肥大した幻想とが通じ合えなくて実はみずから「片思い」を選んでいるのである。さいわい多くの場合、それは一時的な通過体験であるが、もっとも「純粋」な片思いも「ストーカー」と紙一重の危ない面がある。
一人でできる食事や睡眠はどうであろうか。食欲の異常が現れるよりずっと先に、まず、食卓をひとと共にすることができなくなっているのではなかろうか。睡眠でも、睡眠を護るものとしての夢があるならば、夢には多く他者が登場する(そうでない夢の多くは生理的なものである。たとえば尿意や鐘の音に触発された夢、あるいは、眠り入る時の横紋筋の緊張解除がもたらす飛行や墜落の夢がそれである)。悪夢とは内容の悪い夢ではなく、はじめはよくとも、だんだん険悪になってついには内容が夢に盛りきれなくなって冷や汗とともに夢から放り出される場合である。それは「何か」との折り合いがかなり悪い徴候であると考えてもよいのではないか。ここで「何か」というのは夢の場合には自分と他者との区別ははっきりしないからであるがーー。
では家族、社会は? 私が「折り合い」という言葉を選んだのは、家族と社会とを視野の中に収めようとしてのことである。ここで、私のよく引用するもう一つの言葉がある。それはプロイセンの戦術家クラウセヴィッツの言葉である。私はリデル=ハート大将の『戦略論』の引用で知り、その本も地震のせいか今見つからないが、「ある目標を徹底的に追求するならば、その過程で生じる反作用によって、その過程が足どめを食らい、結局目標を達成できないであろう」というものである。これは、治療においてはしばしば必要な金言である。この「徹底的追及」が目的の達成を妨げるという逆理は殲滅戦思想の持ち主として知られるクラウセヴィッツの言であるだけにいっそう重みを帯びている。
上に抜き出された文章には、
《ひとが自分とどれほど折り合いをつけているかは内心の問題で、それを眼で直接見ることはできないが、そのひと以外の人間との折り合いをつけうる程度というものは、眼に見えるものから多少推し量ることができる》
《ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない》
《ひとが自分とどれほど折り合いをつけているかは内心の問題で、それを眼で直接見ることはできないが、そのひと以外の人間との折り合いをつけうる程度というものは、眼に見えるものから多少推し量ることができる》
《ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない》
《荒れている少年とか、些細な違反を咎めてとめどなくなる教師の内部をかりに覗き込むことができるとすれば、自分との折り合いが非常に難しく、自分と通じ合えなくなっているはずだと私は思う》
《自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである》
ーー等々、ある。
これらの文から理解できるのは、他者との折り合いの様子をみて、自己との折り合いの具合がわかるということだ。
ところで、作家の佐々木中氏は昨晩(2014.1.12)、《ひとは自分と折り合える程度にしか、他人と折り合えない》(ポール・ヴァレリー)とツイートしている。
これはおそらく、上に引用した《私は、この(ヴァレリー)を広く解して「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」というふうにした 》と書く中井久夫の言葉をヴァレリーのそれと錯覚して引用されたものだろう。
錯覚そのものはこの際どうでもよろしい。
だが、中井久夫の言葉やヴァレリーの《人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない》には、他者が先にある。
つまり《ひとは自分と折り合える程度にしか、他人と折り合えない》(佐々木中)ではなく、「ひとは他人と折り合える程度にしか、自分と折り合えない」とすべきところだ。
佐々木中氏はおそらくヴァレリーだと錯覚した中井久夫の言葉の変奏、《ひとは自分と折り合える程度にしか、他人と折り合えない》を引用したあと、次のようにつぶやいている。
佐々木中氏はおそらくヴァレリーだと錯覚した中井久夫の言葉の変奏、《ひとは自分と折り合える程度にしか、他人と折り合えない》を引用したあと、次のようにつぶやいている。
これ淡々したさりげない言葉だけど、本当に真実を突いてると思うな。他人を全肯定したかと思うと全否定したりする人って、自分にもそうしてるのよ。自分はこれで行くしか仕方ないな、他にできることもないしな、と劣等感なく感じることができてから、他人を肯定できるようになるんじゃないかな。
これだけみると、誤読であるように思える。佐々木中氏の変奏を逆転させ、「ひとは他人と折り合える程度にしか、自分と折り合えない」とすれば、たとえば中井久夫の別の書に於ける、次の言葉とも繋がってくる。
他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)
※「メタ私」は、中井久夫のフロイトより広い「無意識」概念である。
あるいはさらに別の論から引用するなら、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)》(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)とは、中井久夫のエリオット『四つの四重奏』の詩句の超訳であり、逐語訳なら「人というものはあまりに大きな現実には堪えられない」だろう。
他人像には批判のまなざしを向けることはやさしいが、自分像には眼がいかない。あるいは、われわれは、他人の「メタ私」には気づくが、自分の「メタ私」には耐えられないで眼を逸らす。
佐々木中氏の誤読(おそらく?)は、別にどうでもよろしい。ツイッターでの発話はその程度のものだということだ。「ツイッターとはインテリのパチンコだ」という名言があるではないか。もし敢えて言えば、すぐれた資質をもっていることが明らかな佐々木中氏は、なぜかなりの時間をパチンコなどに費やしているのか、ということだ。おそらくやむ得ぬ「営業活動」なのだろうが、読み手に媚びた彼のツイートは、ときに「みぐるしい」。
公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)
彼はすばらしい「美文」の中井久夫賛を書いている(ツイッターで拾ったので、パラグラフ分けは適当)。この文は、中井久夫ファンには掛け替えのないものだ。
知っていた。知っていた、筈、だった。そうだ-中井久夫がこういう男だということを、われわれはすでに仄かに、彼自身の文章から感じ取っていたのではなかったか。彼の文体は時にあわい甘やかさを香らせて読む者をゆくりなく蕩(とろ)かせる。 陶然とも唖然ともさせてくれる。が、彼の文章は一文たりともそのくっきりと真明(まさや)かな輪郭を張り詰めた抑制を失わない。常に簡潔で静謐であり、叫ばず声を嗄らすことなくゆるやかにまた慄然とその歩みを進める。
この日本精神医学最大の理論家にして雅趣と叡智を併せ持つ随筆家は、類ない語学力に支えられて文学や歴史に通暁する碩学でもあり、さらに詩と論文とを問わぬその翻訳の質の高さとそこでも発揮される文体の気品はわれわれを驚嘆させ続けてきた。
まず第一にその文字の流れの面にうつろい映える所作の優雅において。だが。ここにいるのは楡林達夫という、三十歳にもならぬ一人の医師である。然るべき理由あってこの筆名で自らを隠した中井久夫である。その情熱、その反骨、その孤高、その闘争の意思たるや。
それは長く長く中井久夫を読みその軌跡に同伴するを歓びとしてきた者すらをも瞠目させ狼狽させ得る。しかし、繰り返す。われわれはあの高雅なる中井久夫の姿に、密やかにこの若き楡林達夫の燃え立つ瞋恚を感じ取っていたのではないのか。 この、ふつふつと静かに熱さを底に秘めて揺らぐ水面のような、執拗な反抗を止めない微かに慄える怒りを、そしてこの世の正を求めるゆらぎなき意思を。 ―――「胸打たれて絶句する他ない抵抗と闘争の継続」―『日本の医者』中井久夫を読む。『アナレクタ3』佐々木中より)
「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「創造と癒し序説」)
佐々木中この中井久夫の文章を見事に翻訳している(上の中井久夫オマージュはそのすぐれた実践だろう、とくに冒頭の読点の使用法を見よ)。
言語は形式ではない。口ずさまれる詩の言葉の色彩であり、文体の奇妙な軋みであり、一文のなかに置かれた言葉の匂いが発する齟齬であり、声のトーンであり、訛りであり、口籠もりであり、吃音であり、間であり、発すると同時に採られる挙措であり、言葉が放たれると同時に吊り上げられる片眉であり見開かれる瞳であり、その奇妙にテンポを失ったリズムであり、言い損ないであり、駄洒落であり、吐息であり、話の接ぎ穂であり、その言葉の色であり、口腔の感覚であり、八重歯に当たる舌先であり、声ならぬ音であり、軋みであり、歯ぎしりであり、あえかな口臭であり、涎の微かな匂いであり、唇の端につい浮かんだ泡であり、痙攣的に歪められる唇であり、その唇にひく糸をすすり込む音であり、筆先に込められた力であり、その力の圧迫で白くなった指先であり、拭いがたい筆跡の癖であり、繰り返される幾つかの文句であり、使ってみたいと思いながらもどうも自分の文章に上手く嵌め込めない語彙の歪みであり、新しいインクの匂いと爪のあいだに入り込んだその染みであり、万年筆の書き味によって揺れる文章の流れであり、モニタに映し出されるフォントの好悪であり、あるいは愛用のキーボードの上で踊る変則的な指遣いであり、そのカタカタと調子外れのリズムを刻む音ですらある。だから、言語とは文体である。語り-口である。書き-方である。言語は言語ではない。(……)言語は言語ではないものに滲み、言語は自らの身体に溶け出した言語の外を含む。言語は、滲んで溶ける水溶性の染みでできた、斑の身体を持つのだ。(「ララング、神に恋する女性の言葉」より)
…………
※参考:プルースト「花咲く乙女たちのかげに 第二部」より
われわれの友人は、各自に多くの欠点をもっているから、そんな友人を愛しつづけるにはーーその才能、その善意、そのやさしい気立てを考えてーーその欠点をあきらめるようにするか、またはむしろ、積極的にわれわれの善意を出しきってその欠点をのんでしまうようにつとめなくてはならない。不幸にも、友人の欠点を見まいとするわれわれの親切な根気は、相手が盲目のために、それとも相手が他人を盲目だと思いこんでいるために、あくまでその欠点をすてないので、その頑固さにうちまかされてしまう。相手は、なかなか自分の欠点に気がつかず、また自分では他人に欠点を気づかれないと思いこんでいるのだ。他人のきげんをそこなう危険は、何よりも物事がそのまま通ったか気づかれなかったかを見わけることの困難から生じるのだから、われわれは用心して、すくなくとも自己のことはけっして語らないがいいだろう、なぜなら、自己の問題では、他人の見解とわれわれ自身のそれとがけっして一致しないことは確実だといえるからだ。他人の生活の真相、つまり見かけの世界のうらにある真の実在の世界を発見するときのおどろきは、見かけはなんの変哲もない家を、その内部にはいってしらべてみると、財宝や、盗賊の使う鉄梃〔かなてこ〕や、屍体に満ちている、といったときのおどろきに劣らないとすれば、われわれが他人のさまざまにいった言葉からつくりあげたわれわれ自身の像にくらべて、他人がわれわれのいないところでわれわれについてしゃべっている言葉から、他人がわれわれについて、またわれわれの生活について、どんなにちがった像を心に抱いているかを知るときも、またわれわれのおどろきは大きい。そんなわけで、われわれが自分のことについて語るたびに、こちらは、あたりさわりのない控目な言葉をつかい、相手は表面はうやうやしく、いかにもごもっともという顔をしてきいてかえるのだが、やがてその控目な言葉が、ひどく腹立たしげな、またはひどく上調子な、いずれにしてもはなはだこちらには不都合な解釈を生んだということは、われわれの経験からでも確実だといってよい。一番危険率がすくない場合でも、自己についてわれわれがもっている観念とわれわれが口にする言葉とのあいだにあるもどかしい食違によって、相手をいらいらさせるのであって、そうした食違は、人が自分について語るその話を概してこっけいに感じさせるもので、音楽の愛好家を装う男が、自分の好きなアリアをうたおうとして、その節まわしのあやしさを、さかんな身ぶりと、一方的な感嘆のようすとで補いながら、しきりに試みるあのおぼつかないうたいぶりに似ているだろう。なお自己と自己の欠点とを語ろうとするわるい習慣に、それと一体をなすものとして、自分がもっているものとまったくよく似た欠点が他人にあるのを指摘するあのもう一つのわるい習慣をつけくわえなくてはならない。
ところで、自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。近視の男は他人の近視のことをこういう、「だってあれはほとんど目があけられないくらいですよ。」胸部疾患の人間は、この上もなく頑丈な人間の健康な肺臓にも種々の疑念をもつし、不潔な男は、他人がお湯や水を浴びないことばかりを口にするし、悪臭を放つ人間は、誰でもいやな匂がすると言いはる、だまされた亭主は、いたるところにだまされた亭主たちを、浮気な女房はいたるところに浮気な女房たちを、スノッブはいたるところにスノッブたちを見出す。それからまた、各自の悪徳は、それぞれの職業とおなじように、専門の知識を要求し、それをひろくきわめさせる、各自はそんな知識を得々と人まえで弁じたてずにはいられない。倒錯者は倒錯者たちを嗅ぎだし、社交界に招かれたデザイナーは、まだこちらと話をまじえないのに、もうこちらの服地に目をつけ、その指は生地のよしあしをさわってみたくていらいらしているし、歯科医を訪ねて、しばらく話をまじえたのちに、こちらについて忌憚のない意見をきいてみると、彼はこちらの虫歯の数をいうだろう。彼にはこれよりも重大に見えることはないのだが、そういう彼自身の虫歯に気がついたこちらにとっては、これほどこっけいなことはない。そして、われわれが他人を盲目だと思うのは、われわれが自分のことを話しているときばかりではない。われわれはいつも他人が盲目であるかのようにふるまっている。われわれには、一人一人に、特別の神がついていて、その神が、われわれの欠点にかくれ蓑をかけてわれわれからかくし、他人には見えないという保証をしてくれているのであって、同様に、その神は、からだを洗わない人々にたいして、耳にためた垢の筋や、腋の下から発する汗の匂に、目をとじ鼻腔をふさがせ、誰もそれと気づかないであろう社交界へ、それぞれその垢の筋や汗の匂をもちこんでも平気だという確信をあたえるのだ。そしてイミテーションの真珠を身につけたり、贈物にしたりする人は、それがほんものに見られるだろうと想像するのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅡ」 井上究一郎訳)