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2014年6月3日火曜日

無責任性への責任

もちろんわたくしにも名前がないわけではないが、あえて匿名で書いているのは、人びとには窺いしれない理由があると疑ってみたことはないか。そもそもわたくしがわたくしと書くとき、いつも同じわたくしであるとはどうやって確信できよう。わたくしが素直にうけいれがたく思っているのは、昨日のわたくしと今日のわたくしがあっさりと同一人物だと信じこんでしまう、人びとの信じやすさなのである。ここでは和訳すれば閉じた眼という意味の仏語が当ブログの最初の行に大きく示されているだけであり、しかもそのあとには一人称単数の場合はなかば虚構と書かれているではないか。そこにはまた海外住まいとも書かれており、たとえばわたくしはすくなくとも日常会話としては使うことの稀になった日本語を懐かしみ忘れないようにするためだけに虚構の書き手として一人称単数代名詞の「わたくし」を使ってここでの日記を日課として強制しているのかもしれぬ。他のブログやSNSでみられるような夜郎自大の「自己主張」の言葉のつらなりから遠くはなれた書き物であること、自己同一性の無邪気な確信をたやすくは共有してほしくないために、わざわざ「なかば虚構」であるという言葉が示されているのではなかろうか。また他の可能性だってかんがえられる。日本語を学びつつある息子や妻がわたくしの代りにここに日本語で書かれた文章を写経していることだってありうるのだ。そこにときおりわたくしという一人称単数単数代名詞で感想というのか見解というのかが書かれていたら、それがこのわたくしではなく彼らが書いている可能性だってどうしてかんがえられないことがありえよう。ほかにもたとえば日課として毎日のように書かれているこの日記がどうしても家族旅行などで書きえなくなった場合、日本にいる娘に頼んでその精神医学を学んでいる彼女がかわりに書いてこちらに情報を送っている可能性だってある。文体模写のたくみな娘ならそれぐらいのことはやりかねない。もちろんこう書くことさえ虚構であるかもしれぬのは言うまでもない。

いずれにせよもここで書かれている「わたくし」は、自分をひたすらわたくしとして記号化しているに尽きている。無責任性を身にまとったはずの日記の書き手であるわたくしに対して、その記号としてのわたくしの向こうに誰か実体的な人物を想定してしまうのはその無責任性への責任の感性があまりにも希薄ではないだろうか。ここにはすくなくとも署名がない。もしあるとするならその署名とは「閉じられた眼」である。閉じられた眼との標題のもとに書かれるわたくしを主語とする文章はわたくしの所有から解放されており、ひとびとに対してわたくしの眼は閉じられている。

書き記された記号とは《いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立会いから分離された》、すなわち書き手から分離され、書かれた言語記号は《本質的に無責任な漂流性を生きる》ものとはさる仏国の哲学者の有名な言葉ではなかっただろうか。とはいえインターネットでの書き物の通念を疑ったことのないファストフード的な知的消費者には理解の及びがたいことであるのは十分窺いしることができる。こうやって文句を書くぐらいならコメント欄を閉じてもよいし、そもそもこのブログそのものも家族での使用だけであるなら閉じてもよいわけで、このような公開日記の形式を日毎に続けるのはやめにすべきなのかもしれぬ。と書かれた言葉は無責任な漂流性を生きている。