ジジェクの『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』の第六章は、「ふたつのフェティシズムのはざまで」と題され、次のような文がある。
現代のいわゆる「ポストイデオロギー」の時代にあっては、イデオロギーはますます従来の「症候」モードとは反対の「フェティシズム」モードで機能する。
この「症候」モードから「フェティシズム」モードへの変貌は、ラカン派内では「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)という見解の文脈のもとーーこれはなにもラカン派でなくともたとえば日本でも「父なき世代」(中井久夫)などと語られるーー、二十世紀の神経症(症候)の時代から、二十一世紀の精神病の時代(ミレール派)あるいは倒錯の時代(メルマン派)へという形で語られている。ジジェクは上の文で「フェティシズム」としているように、おそらく「倒錯」の時代へということだろうが、ジジェク自身はそう明言しているわけではない。いずれにせよ象徴権威が弱ければ、去勢が否認されたり(倒錯症状)、排除(精神病)されたりする傾向にある人びとが増えるというラカン派の視点からの議論である。
ここでことわっておくが、倒錯やら精神病という語彙が出現しても驚いてはならない。ラカンの心的構造論においては、ひとは神経症(抑圧)、精神病(排除)、倒錯(否認)のどれかに当て嵌まるのであり、たとえば神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるとされる(倒錯は当人が病的と感じていないこともあり殆ど治癒不能)。ジジェクがイデオロギーに対する態度にかんして「精神病」を語っていないのは、この精神病タイプはそもそもイデオロギーにたいして無関心な病的なナルシシストであるからかもしれないが、詳しいことは分からない。
ここでことわっておくが、倒錯やら精神病という語彙が出現しても驚いてはならない。ラカンの心的構造論においては、ひとは神経症(抑圧)、精神病(排除)、倒錯(否認)のどれかに当て嵌まるのであり、たとえば神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるとされる(倒錯は当人が病的と感じていないこともあり殆ど治癒不能)。ジジェクがイデオロギーに対する態度にかんして「精神病」を語っていないのは、この精神病タイプはそもそもイデオロギーにたいして無関心な病的なナルシシストであるからかもしれないが、詳しいことは分からない。
象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。(ジジェク『斜めから見る』鈴木晶訳)
さて「ふたつのフェティシズムのはざまで」において、「症候symptom」と「フェティッシュfetish」の相違の簡潔な説明がなされているので、それをまず引用しよう。ただし邦訳は手元になく、英文からの私訳である。
最愛のひとの死の例をみてみよう。症候の場合、私はこの死を“抑圧”する。それについて考えないようにする。だが抑圧されたトラウマが症候として回帰する。フェティッシュの場合は、逆に、私は“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく。この意味で、フェティシュは、私を苛酷な現実に対処させる頗る建設的な役割を果たす。フェティシストは自身の私的世界に没入する夢見る人ではない。彼らは徹底的な“リアリスト”である。もののあるがままを受け入れるのであり、というのはフェティシュな物にしがみついて、現実の全面的な影響を和らげることができるからだ。
この正確な意味で、貨幣は、マルクスにとって、フェティシュである。私は理性的な功利主義者の主体を装う。ものごとがどのようにあるのかをよく知っている。しかし貨幣フェティッシュのなかに自分の否認された信念を包みこむ……。ときには、ふたつの間の境界線はほとんど見分けがたいこともある。対象は、フェティッシュ(正式には断念された信念)とほとんど同じように、症候(抑圧された欲望)としても機能することもある。たとえば死んだひとの衣服などの遺品は、フェティッシュ(そこには、死んだ人が魔法のように生き続ける)としても機能するし、あるいはまた症候(死者を想い起こさせる心を掻き乱す細部)としても機能する。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)
ここからはインターネット上に『ポストモダンの共産主義』を引用あるいは要約されている方の記事が見つかったのでそれを活用させてもらう。まずは「フェティシズム、二態」について。
イデオロギー的神秘化においては、許容的でシニカルなフェティシズムとポピュリズム・ファシズム的フェティシズムでは、反対の性質をもつ。
そしてイデオロギーに対する二つのフェティシズムが説明される。
〈許容的シニカル・フェティシズム〉
・偽りの普遍性が伴う。主体が自由や平等を主張する一方で、この形態自体が狭量な(金持ち、男性、特定の文化に属するものなど、特定の社会階層に特権を与える)性質を内包していることに気づいていない。
・「主体が『自由と平等』と言うとき、じつは『貿易の自由、法の前の平等』などを意味している。
・明示される「よい」内容(自由、平等)が、内在する「悪い」内容(階級その他の特権および排除)を隠蔽している。
〈ポピュリズム・ファシズム的フェティシズム〉
・拮抗と敵対の性質を併せ持つ偽りの帰属意識が伴う。
・「主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。
・明示される「悪い」内容(反ユダヤ主義)が、内在する「よい」内容(階級闘争、搾取への反感)をおおい隠してしている。
こうしてひとびとの「イデオロギーに対する四つの態度」が示される。
(2)シニカル・フェティシスト
(3)ポピュリズム原理主義的フェティシスト
(4)イデオロギー批判派
(1)と(4)が症候派であり、ジジェクは症候モードについては多くを説明していないが、「暗黙の限界(自由/平等についての)がリベラルな平等主義の症候である」(the implicit limitations (on freedom/equality) are the symptoms of liberal egalitarianism ) とは書かれている。
さてこの四つの態度が示されたあと、次のような文がある。
Unsurprisingly, they form a Greimasian semiotic square in which the four positions are distributed along two axes:symptom versus fetish; identification versus distance.
グレマスの四角形についてはまったく無知なのだが、次のような図をこれもインターネット上から拾うことができる。(グレマス図式)
Both the liberal and the critic- of-ideology move at the symptomal level: the first is caught up in it, the second undermines it by way of interpretive analysis. Both the populist fetishist and the cynic cling to their fetish: the first directly, the second in a disavowed manner. Both the populist fetishist and the liberal directly identify with their position (clinging to their fetish; taking seriously the arguments for their universal ideological claims), while both the cynic and the critic-of ideology distance themselves from their position (fetishistic disavowal or critical interpretation) .(ZIZEK "FIRST AS TRAGEDY,THEN AS FARCE")
ここではまず縦軸のみに注目するが(上方、下方)、ポピュリズムフェティシストは自身のフェティッシュなものに執着し、リベラルは自ら信じる普遍的イデオロギーの真剣な議論に凝着する。これが同一化の方向に向かうということである。他方、シニカルフェティシストとイデオロギー批判派はそれぞれその「同一化」から距離をとる。
ところで横軸の左に向かう症候派(旧来の神経症型)は、イデオロギーの普遍性を信じているのだが、症候とは、最愛の人が死んでも、彼らは《この死を“抑圧”する。それについて考えないようにする。だが抑圧されたトラウマが症候として回帰する》とあった。何の死を抑圧しているのだろう。おそらく自由、平等の死(少なくとも限定的な死)を抑圧している。
横軸の右に向かうフェティッシュ派は、普遍的な自由と平等の死を受け入れている。彼らは《“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく》とあった。なんのフェティッシュな物にしがみついているのかと言えば、私利私欲にかかわる自由・平等ではないか。これは己れの利益=関心にのみ関係する「自由・平等」がフェティッシュとなっているのではないかということだ。
この横軸は左右両方とも、市場原理主義がむきだしの素顔を見せる現在のあり様、すなわち「新自由主義」にかかわる。そこでは「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られている。「女子力」、「婚活」などという語彙群もそのたぐいだろう。たとえば症候派が自由・平等の死を抑圧して真剣な議論をしているさなか、抑圧されたトラウマが症候として回帰する。その回帰する症候が、「勝ち組」「負け組」「女子力」などの隠喩語彙群であっていけないはずはないだろう。
ところで、原理主義はリベラルの反動から生まれるとジジェクは言う。
ところで横軸の左に向かう症候派(旧来の神経症型)は、イデオロギーの普遍性を信じているのだが、症候とは、最愛の人が死んでも、彼らは《この死を“抑圧”する。それについて考えないようにする。だが抑圧されたトラウマが症候として回帰する》とあった。何の死を抑圧しているのだろう。おそらく自由、平等の死(少なくとも限定的な死)を抑圧している。
横軸の右に向かうフェティッシュ派は、普遍的な自由と平等の死を受け入れている。彼らは《“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく》とあった。なんのフェティッシュな物にしがみついているのかと言えば、私利私欲にかかわる自由・平等ではないか。これは己れの利益=関心にのみ関係する「自由・平等」がフェティッシュとなっているのではないかということだ。
この横軸は左右両方とも、市場原理主義がむきだしの素顔を見せる現在のあり様、すなわち「新自由主義」にかかわる。そこでは「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られている。「女子力」、「婚活」などという語彙群もそのたぐいだろう。たとえば症候派が自由・平等の死を抑圧して真剣な議論をしているさなか、抑圧されたトラウマが症候として回帰する。その回帰する症候が、「勝ち組」「負け組」「女子力」などの隠喩語彙群であっていけないはずはないだろう。
ところで、原理主義はリベラルの反動から生まれるとジジェクは言う。
リベラリズムの本質的価値――自由、平等など――は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値を原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。問題はリベラリズムだけでは自立できないことだ。リベラリズムの体系には何かが欠けている。リベラリズムはその概念からして「寄生的」 なのであり、発展過程で自らが損なう共同体の前提になっている価値体系に依存しているのだ(Liberalism is, in its very notion, "parasitic:' relying as it does on a presupposed network of communal values that it undermines in the course of its own development.)。
原理主義はリベラリズムに内在する真の欠陥への反動――もちろん誤った、ごまかしの反動――であり、くり返しになるが、だから原理主義はリベラリズムから生みだされる。それを切り離してリベラリズムだけにしてしまえば、ゆっくり崩壊へ向かうだろう。その本質的価値を救えるのは、復活した左派だけだ(the only thing that can save its core is a renewed Left.)。あるいは、よく知られた一九六八年の用語でこう言えばいいか。リベラリズムがその重要な遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。(栗原百代訳)
原理主義とリベラルは二つはともに上方の同一化に向かう運動である。とすれば、下方の距離をとる方向に向かう運動、シニカル・フェティシストは、イデオロギー批判派から生まれるといえるのではないか(これはジジェクはそう書いていないが)。いや「生まれる」とまでは言うまい。イデオロギー批判派のインテリたちがシニカル・フェティシストたちを「育む」とだけ言っておこう。
実際、反排外主義や反差別運動から距離をとるイデオロギー批判派の言説は、たとえば次のようである。
・反差別運動が差別の温床となる
・己れの加害性の隠蔽になる、
・速断による誤解や勇み足
・売名行為などの「偽善」等々
こういった言説はある側面からはかぎりなく「正しい」のだろうが、他方シニカル・フェティシストたちに都合よく利用される(たとえばなにも行動をおこさない己れの立場を正当化する)。そしてイデオロギー批判派はどっちもどっち論を繰り返す輩でもあるだろう。
《私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的にdogmatically」主張することだよ。》(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)
実際、反排外主義や反差別運動から距離をとるイデオロギー批判派の言説は、たとえば次のようである。
・反差別運動が差別の温床となる
・己れの加害性の隠蔽になる、
・速断による誤解や勇み足
・売名行為などの「偽善」等々
こういった言説はある側面からはかぎりなく「正しい」のだろうが、他方シニカル・フェティシストたちに都合よく利用される(たとえばなにも行動をおこさない己れの立場を正当化する)。そしてイデオロギー批判派はどっちもどっち論を繰り返す輩でもあるだろう。
何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)
リベラルの運動の標的がまずは、ポピュリズム・ファシズム的フェティシストであるのは当然だろう。実際、彼らがヘイトスピーチなどに代表される排外主義者の典型と目され、ジジェクの指摘するようにリベラルの身から出た錆(分身)であるならなおいっそうそうである。ポピュリズム・ファシズム的フェティシズムの特徴とされる《拮抗と敵対の性質を併せ持つ偽りの帰属意識》はあきらかに彼らの特質である。もっとも重ねて彼らの特徴とされる《明示される「悪い」内容(排外主義)が、内在する「よい」内容(階級闘争、搾取への反感)をおおい隠してしている》のかどうかは議論の余地があるだろう。
だがここで再度、フェティシストの二態のうちのもうひとつ、もう片方のシニカル・フェティシストの特徴を繰り返しておく。いま日本の支配的イデオロギーはむしろこのような態度ではないか。そしてこの連中に餌付けするようなほどよく聡明なインテリ(イデオロギー批判派)の言説や振舞いは厚顔無恥とでもいうべきものである。いや彼らはときに第三象限から第四象限に移行してシニカル・フェティシストの愉快な仲間たちではないかとさえ疑う。
・偽りの普遍性が伴う。主体が自由や平等を主張する一方で、この形態自体が狭量な(金持ち、男性、特定の文化に属するものなど、特定の社会階層に特権を与える)性質を内包していることに気づいていない。
・「主体が『自由と平等』と言うとき、じつは『貿易の自由、法の前の平等』などを意味している。
・明示される「よい」内容(自由、平等)が、内在する「悪い」内容(階級その他の特権および排除)を隠蔽している。