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2014年6月11日水曜日

同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなる

谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』

一九七二年五月某夜、なかば即興的に鉛筆書き、同六月二十六日
パルコロールにて音読。同八月、活字による記録及び大量頒布に同意。

十四の詩があって以前その断片を引用したが(ちゃんとウンコはふけてるかい  弱虫野郎め)、なんたら言っているニブイのか凡庸なのかは知らないが、そんなのがいる。「賤民」なのだろうよ、この詩が最高の「はげまし」の言葉でありうるのが読めないのは。まあいまではそんなヤツばかりだが。

わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。(ニーチェ『この人を見よ』)

いずれにせよ、きみにはこのブログはむかないよ、火傷するぜ。やめとけ! とまでは言わないが、すくなくとも半可通の引用でオロカな感想を書くのだけはよしておいてほうがいいぜ

わたしは、同情せずにいられないときにも、同情心の深い者とは言われたくない。また、同情するときには、自分の身を離して遠くから同情したい。

……わたしは悩む者を助けたことのある自分の手を洗う。そればかりでなく、自分の魂をも念入りに拭うのだ。

というのは、悩む者が悩んでいるのを見たとき、わたしはそのことを、かれの羞恥のゆえに恥じたのだから。また、かれを助けたとき、わたしはかれの誇りを苛酷に傷つけたのだから。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「同情者たちVon den Mitleidigen」)

…………


飯島耕一に

にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体をつかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっているけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
何をしていいか分からないから起きて書いてる
書いてるんだからウツ病じゃないのかな
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
いい細工の白木の箱か何かにね
さわれたら撫でたいし
もし撫でられたら次にはつかみたいよ
つかめてもたたきつけるかもしれないが
きみはどうなんだ
きみの手の指はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め


…………

おそらく、親切に振舞ったつもりになって、他人に恥をかかせるタイプなんじゃあないかい、貴君は? すくなくとも、詩から意味だけを読んで、音調とタイミングを聞けないタイプなんだろうよ。


《詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。》(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」)
家庭内暴力予防法を一つ挙げるなら「恥をかかせるな」だろう。日本は「恥の文化」だけあって恥のかかせ方も恥の感じ方も実に微妙で隠微だ。子どもは実に恥に敏感だ。傷口に塩を塗らないことと甘やかすこととは全然違う。二つ目をいうとすれば人間の会話の効力は内容以上にタイミングと音調である。音域の広い「深みある」話し声を心がけることか。(中井久夫「暴力について」)

まあこれは旧世代の偏見だがね、最近の連中は同情されてまじで安堵するヤツも多いようだから。オレには信じがたいがね。

《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)


同情されて怒り狂うドストエフスキーの誇り高い登場人物たち。《彼にとっては、愛と過度のにくしみも、善意とうらぎりも、内気と傲岸不遜も、いわば自尊心が強くて誇が高いという一つの性質をあらわす二つの状態にすぎないのです。そんな自尊心と誇が、グラーヤや、ナスターシャや、ミーチャが顎ひげをひっぱる大尉や、アリョーシャの敵=味方のクラソートキンに、現実のままの自分の《正体》を人に見せることを禁じているというわけなのです。》(プルースト『囚われの女』)

だがドストエフスキーさえ読まないんだろうよ、最近の若い連中は。なんのために生きているのか、しらないが。

どういう人にせよ、プライドのない人間ほど始末におえない者はない。精神科医は、患者の自尊心を大切に守る必要がある。個々の病院によって大きな差があるが、精神科病院が自尊心を失う場になってはならないと思う。さまざまな矯正施設においても重要なことである。(中井久夫「「踏み越え」について」(初出2003『徴候・記憶・外傷』2004所収P318)