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2014年6月13日金曜日

純白の頭巾のかすかな汚点

一人の立派なハジ。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。

しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかなしみがある。純白の頭巾に。(ロラン・バルト『偶景』)

…………

たとえば、「高齢ニート」のテレビ番組で、神田うの氏が「親の務めって、わが子がちゃんと独立して、自分で生きていく力をつけさせてあげる。だから結婚もさせてあげるってことも」「9割方、親に問題があると思いますよ」と発言したことに対して、教育社会学者の本田由紀さんが次のようなツイートをしている。

@hahaguma
40歳を過ぎても働かない「高齢ニート」「年金パラサイト」が「ノンストップ!」で特集され話題に…コメンテーター・神田うのは「9割方、親に問題があると思いますよ」 http://news.livedoor.com/article/detail/8909232/ …親に問題を押し付けて(親はもう十分そう感じている)、で、それでどうしようと?


おそらく本田さんは40歳を過ぎたいわゆる「ニート」を抱える親の立場に立ってのみ発言しているのだろう。しかしながら、たとえば十代から二十前後の子供をもつ、とくに子供を愛しすぎている母親の立場に立ってみたらどうだろう。ああ、わたしも気をつけなくちゃね、という無数の相槌がきこえてきそうな神田うの氏の発言ではあり、あながち全面的に批判される言葉ではないように思う。

SNSにおいては、聡明な人でさえ、場合によってはこのような脊髄反射的ないささか偏った批判を洩らしてしまう場であり、それは当該の課題を「誠実に」、あるいは「真剣に」考えているひとほど起こりやすい傾向にあるのではないか。中井久夫がしばしば引用する物理学者ニール・ボーアの言葉がある、《杖を持つ人がゆるく杖を持つ時、杖の動きは地面の凹凸を反映し、杖は観測対象に屈する。逆に堅く持つ時、それは観測主体の動きを反映する。》本田由紀さんは、高齢ニートを抱える母親の立場で「杖を堅く」持ち過ぎてしまっている印象をうける。未来の「ニート」予備軍をいささかでも救出する意図としても捉えうる神田うの氏の発言への杖の感度はまったく見受けられない。まさか、距離をおいて書くことのでき、かつ見直して訂正できる論文でこのようなことは書きはしまい。

彼の書くものの中には、二種類のテキストがある。テクストⅠは反応的(反作用的)であり、その動因となっているものは、さまざまな憤慨、恐怖、内心での反論、軽い偏執病、防衛、いさかいである。テクストⅡは能動的(作用的)であり、その動因は、快楽である。しかし、書かれ、訂正され、“文体”の虚構に順応するにつれて、テクストⅠそれ自体も能動的となっていく。そうなると、それはみずからの反応性の表皮を失い、その反応性は、わずか、ところどころに斑(ささやかな丸括弧にかこまれた斑点)としてしか残らない。(『彼自身によるロラン・バルト』)

そう、テクストなら、ささやかなシミのようになって当初の憤慨や苛立ちは残るだけだ。

ところで今、わたくしの書いているものはテクストⅡと言えるだろうか。いや、東京大学教授のやや勇み足のツイートを拾って、それをいっけん距離をおいたつもりで書いているのは、頗るはしたない「反応的な」仕草である。ひとは、にわかインテリとして振舞いたければ、インテリを批判するのがいちばん近道である。東大の社会学の人気教授なら願ってもない「獲物」だろう。柄谷行人はかつて《知識人批判者が現在の典型的な知識人だというべきだある》とした。

“知識人”をどこかに想定しそれを批判することで自らを意味あらしめようとするようなタイプ、それが知識人なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」1990)

蓮實重彦は、「ユリイカ」2009年の2月号における水村美苗『日本語が亡びるとき』の特集「日本語は亡びるのか?」に寄せて、水村氏の文を批判(吟味)している。

……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。〔蓮實重彦「時限装置と無限連鎖」)

すくなくとも、「あれら」著名な知識人や評論家などの言説、あるいは「囀り」を読んで、それなりの「地位」ある人物でさえ、思いつきにすぎないような偏った見解やらときには誤読やらを流通させているのだから、この<わたくし>も馬鹿げたことを書いていいはずだという束の間の安心感が、今わたくしにこの文を書かせている。インターネットという場では、その「安心感」の自堕落な共有が、無償の饒舌の「無限連鎖」を誘発し、「厚顔無恥」が螺旋を描いて奈落の底に向かう様相を呈する。――といかにももっともらしく自己反省的に書くのさえ「厚顔無恥」である。

フロイトの『機知』には、真実を言って--「真実のふり」をしてーー、相手を騙そうとする話がある。

あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(フロイト『機知』)

ひとは、彼はこういっているから、たぶんこうでないだろう、と推測することがある。その心理を逆手にとって、真実を言って相手を騙す、騙さないまでも韜晦する。これは比較的よくやる手口だろう。すなわち、わたくしのこの文は、「厚顔無恥」という真実を示して、読み手にそうでないと思わせる手口を使っているのかもしれない、――という形でべつの無限連鎖に陥る。くだらない些細な落度を拾って、公開するには及ばないのだ。もっと文句をいうべき相手はほかにいくらでもあるだろう。

《凡庸な資質しか所有していないものが、 その凡庸さにもかかわらず、 なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚こそ》がインターネットという場の夜郎自大の言説を育んでいる。《自分は他人とは同じように読まず、 かつまた同じように書きもしないとする確信、 この二重の確信が希薄に共有された領域が存在しなければ》、ひとはこんなブログやツイッターなどに、些細な落度への難詰の言葉をしきりに書きはしないだろう(二重山括弧内は蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』より)。――と書くのが真実の仮面による欺瞞でないことを見破れないようでは、〈あなた〉は修業が足りない。

《――仮装服として何を選びますか?

私の顔に、私の顔の仮面を着ける。そしたら、みんな私の振りをしている誰かで、私ではないと思うだろ。》(ジジェク)

…………

というわけでここまでは実にくだらない。実はここでは、《80年代から弱々しい「自分探し」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追求の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。先の見えない移行期に私たちはいる》とする中井久夫の文を引用するのが目的である。


【アイデンティティと生き甲斐】より

もし人生が無限であるならばアイデンティティは問題にならないだろう。輪廻がほんとうに信じられている世界ではどうだろうか。インドでは知識人も庶民も輪廻を確信しているときく。他方、インド人の社会的アイデンティティはカースト制度によって生まれる時から細かいところまで決まっている。後世によりよいカーストへの転生を願うしかないのだとも聞く。

人生が有限で一回きりであるということが現代のアイデンティティ概念の前提である。加えて、未来が見通せるだけの社会的余裕が必要である。日々の糧を得るのがおおごとの社会があり、四人に一人は15歳までに死ぬ社会がある。そこではアイデンティティなど、今生きてあることのいとおしさに席を譲るだろう。

われわれの社会では、おのれが死すべきものであり、人生が有限で一回きりであることに気づく時が、早い子では三歳であり、おそくとも十歳には多くの子に訪れる。思春期以前にこの根源的な問いに襲われる時期がある。

この問いは、自分はなぜ今、この性を以て、この家に生まれ、何のなにがしという名を与えられたのか、要するになぜ私は私であって他の誰でもないのかというアイデンティティの問いと切り離せない。そして、この問いは、自分以外の他人が果して存在しているのかという問いに続く。さらに永遠の謎である他者に私と同等の権利を認め、さらには惹かれさえすることをふしぎに思いつつ思春期に入ってゆく。

これらの根源的な問いには答えがない。そのまま引き受けるしかないのである。何を引き受けるのか。それは「私」が唯一で代替不能(unique)でありながら、おおぜいの中の一人(one of them)であるという矛盾を引き受けることである。成人の社会生活はこの引き受けによって可能になる。日常を他者たちと同等の権利を持ち、その一人として生きながら、代替不可能の個人として責任を問われる存在でもある。「アイデンティティ」確立の過程とはこの矛盾を積極的に引き受けてゆくことである。

古典的精神分析の「自我」概念は「規範を押し付ける超自我と快楽を追求するエスとの矛盾した要求の単なる妥協の場」という受動的なものであった。「アイデンティティ」概念は、その中で生まれながら、規範と要求とを自我が統合し、自らの一部に取り込んで、自我を肯定的な積極的概念に転化しようとした。そう私は理解する。

とすれば「生き甲斐」概念にも、同じ矛盾を引き受けて、その上で一回きりで有限の人生を生きるに値するものにしようとする意図があるはずだ。生き甲斐を求める意思は、死をこえようとする意志である。生き甲斐を求める努力は現実的努力であり、生の充実感を社会的平面において実現しようとする努力である。生き甲斐を感じる時には、スポーツや科学に集中している時の「機能快」に近い心身統一感もある。同時に、社会的に適切な位置にあって貢献しているという感覚もある。プロテスタントの倫理に通じるものがどこかにあるかもしれない。

「生き甲斐」と「アイデンティティ」との関係はどうか。アイデンティティの追求は、より高次元である生き甲斐追求に向かう。そうであるならば「生き甲斐」とはこの追求過程の導きの糸である。「生き甲斐」の言葉は故・神谷美恵子さんの著作と固く結びついているが、彼女は帰国子女の先駆者である。その生き甲斐論はアイデンティティの模索の果てに生まれたのかもしれない。

もっとも、「生き甲斐」は「甘え」と同じく日本生まれの概念である。そのような概念の常として「脳よりも心に訴える」情緒に濡れており、通俗となり浅薄となる弱みがある。「生き甲斐」には「よい子」「優等生」の言葉という感触がつきまとう。会社員の就職試験の場でも上司と酒場で飲む時にも「アイデンティティ」の出番はないが「生き甲斐」は大いに語られるだろう。

しかし今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。もはや「生き甲斐」の出番はなくなり、「アイデンティティ」概念も存在を脅かされているのではないか。80年代から弱々しい「自分探し」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追求の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。先の見えない移行期に私たちはいる。

セーフティーネットのない殺風景な世界が実現すれば、「生き甲斐」はもちろん「アイデンティティ」の追求も一種の贅沢になるだろう。冒頭に述べたように現にそういう社会はある。その行き着く果ては「人間であること」が贅沢とされる世界である。「アイデンティティ」や「生き甲斐」はもう古いなどと軽々しくいうべきでないと私は思う。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

…………

これだけでやめておけばいいのだが、70年代後半に書かれた文、《もう昔の話なので憶えている人もいまいあの「アイデンティティ」の危機だの確立だのといった神話》などという奇怪な声がきこえてくる。《個人の生活史の上でも集団の歴史という側面においても、その危機的状況の克服の契機として「アイデンティティ」の概念が重要な役割を演ずるとまことしやかに語られていた時代はさいわい遠い昔のこととなってしまったが、しかしそれに類する物語は尽きることなく生産され続け、されとはまるで違った顔をした、たとえば「モラトリアム」などと称する神話としていまもしたたかに生きているのかもしれない》などと。


・中井久夫(1934年1月16日 - )
・蓮實重彥(1936年4月29日 - )


【倒錯者の「戦略」】より

罠と呼ばれるにふさわしいほど邪悪な装置が仕掛けられているわけでもないのに、どこかに身を潜めた悪意といったものがまるで罠としか思えない装置を思いのままに操作していて、いたるところで思考だの身振りだのからしなやかさを奪っているのだと信じねば気のすまぬ連中というのがどんな世界にも存在していて、そのことじたいは、彼らが孤独にそう信じて思い悩んでいるかぎりどうということはないのだが、しかし現実には、何かに脅えたり深刻そうに悩むといった妙にせっぱつまった表情とはまるで無縁の晴れがましい顔つきで連帯などと口にするその連中が、そのありもしない罠に向かって自分だけは罠にはまるまいといっせいに身がまえたりするし、そんなありさまをいささかの距離をおいてながめている者たちも、彼らの身がまえる表情がそのときばかりは妙に真剣なので、それをあからさまに無視するのも何か気がひけてしまうのだが、たぶん善意にほどよく湿っているのであろう瞳をこらして見えない悪意をじっと見すえている仕草はなかなか堂に入っていて、まんざらの冗談とも思えず、ついついそれほどのことならひとつ連中とつきあってみようかとも思ってしまうものがでてくるのも無理からぬ話だ。実際、彼らが罠だといいはる装置とやらの邪悪なる機能ぶりに視線を向けるふりぐらいは誰にだってできる。だから、そんな演技をしばらく続けたうえで、やおら連中の方に向きなおり、そんな装置などどこにも仕掛けられてはいはしない、どこかに身を潜めた悪意など、マブセ博士じゃああるまいし、あれはたんなるつくり話なのだ、物語なのだとつぶやいてみる。たとえば『ピンチランラー調書』に「大物 A氏」を登場させる大江健三郎などは、さしずめそんなふうにつぶやく一人なのかもしれない。だが、そうつぶやくことがすでに罠に陥ることでしかなかったという点が肝腎なのだ。この善意の身振りこそが、実はつぐないがたい錯誤だったのである。というのも、そのつぶやきがおさまるべき場所がつくり話=物語の中にすでにみごとに用意されていて、見えないのに見えるふりをしていた装置と申し分なく連動してしまうからだ。もちろん、身を潜めた悪意というほどのものがその装置を操っているわけではなく、罠は、自分だけは罠にはまるまいとして身がまえた連中に酷似することによって装置として機能しているまでのことだ。つまり、真剣なる善意の瞳の連帯こそが、その装置を操作しているのである。しかも、その装置をたんなるつくり話だ、ありもしない物語だとつぶやいていた低い声までが、共犯者として罠の構築に手をかし、誰が仕掛けたわけでもない罠にさからう巨大なる罠を、いたるところに捏造してしまう。これはいささか絶望的な事態というべきではないか。

と、ここまでのところは、目新しい発見など何ひとつ含まぬごく貧しい日常の再確認にすぎない。物語は勝利するという物語の、一つの変奏を提示したまでのことであって、とりたてて詳述するにもおよぶまい退屈な現実であろう。というより、現実をいかにして回避しつつ生をなし崩しに消費してゆくかという退屈きわまりない自分自身の物語がくり返されているまでだ。この罠という善意の虚構装置が、時代によって、またその無意識の捏造者が属する文化形態によっていくつもの異なった名前を持っているという点も、また衆知の事実であろう。もう昔の話なので憶えている人もいまいあの「アイデンティティ」の危機だの確立だのといった神話も、そんな名前の一つであったはずだ。個人の生活史の上でも集団の歴史という側面においても、その危機的状況の克服の契機として「アイデンティティ」の概念が重要な役割を演ずるとまことしやかに語られていた時代はさいわい遠い昔のこととなってしまったが、しかしそれに類する物語は尽きることなく生産され続け、それとはまるで違った顔をした、たとえば「モラトリアム」などと称する神話としていまもしたたかに生きているのかもしれない。物語は、間違いなく勝利するのだ。

とはいえ、いまはもう忘れてしまったものからつい先刻覚えたばかりのものまで、そんな一連の名前を列挙しながら、いささか冷笑的に、あるいは道化のけたたましい闖入ぶりによって虚構の歴史をたどりなおして悦に入っていられる時代ではない。それぞれの虚構にはそれなりの有効性はそなわっていたし、だいいちそれはまごうかたなき現実として罠たりえもしたのだから、いまさら愚痴っぽくあれこれ批判めいた言葉をつぶやいてみてもはじまらないと思う。さしあたっての急務は、善意の虚構へのほとんど普遍化されたといってよい確信が、普遍的であることに見あった希薄さであたりに漂いでた結果、罠の捏造者自身をはじめその直接=間接の共犯者たちから何を奪ったか、またいまも奪いつつあるかを明らかにしてみることにある。罠でもない装置を罠として思い描き、それにだけは足をとられまいとして身がまえる仕草が希薄に連帯されることで捏造してしまった善意の装置は、邪悪なるものとして想定された装置が現実のものであった場合に持ちえたであろう残酷さにもおとらぬ残酷さで何ものかを奪うが故に罠なのだが、その装置が、欲望から何をかすめとっているかを生なましく触知することこそが問題なのである。なぜ欲望からなのかと問うものがいるなら、ごくぶっきらぼうに生からと呼びなおしてもかまわない。だが、呼び名などはこの際どうでもよろしい。善意のものであれ悪意のものであれ、とにかく虚構は、その構築の過程できわめて具体的に生きた何ものかを犠牲に供することなしには虚構たりえないのだから、いま、この瞬間、虚構が現実にいかなる犠牲を提供せよと迫っているのか、その力学を捉えることこそが必要なのだ。力学、といってもことはきわめて曖昧である。虚構を生きつつあるものが放棄せざるをえない自分自身の一部、それを無理にも手放すことの痛みを緩和し、犠牲を犠牲としては意識させない何やら麻薬めいたものまでがそこに含まれてもいるからだ。善意の罠の真の恐しさは、何よりもまず、それが大がかりな忘却装置として機能してしまう点にある。(蓮實重彦「倒錯者の「戦略」」より『表層批判宣言』所収)