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2014年6月2日月曜日

「寝言は寝てから言え」

「寝言は寝てから言え」とは中島らもの言葉だそうだ。丹生谷貴志氏が次のようにツイートしている。

「寝言は寝てから言え」、これはらもさんの啖呵=コピーの傑作かつ絶唱ってもんでしょう。もっとも、この決めの言葉を最初に用意してチャートしてしまっていたような感じは拭えない。周囲にクラン/バンドを誘引し牽引しながら同時にそれに肩すかしの準備を忘れない・・・狡知か「孤高」の整備か・・・

罵倒文句として使ってみたくなるとても愉快な科白だ。だがここではいささか「斜めから」受け止めてみよう、寝言は寝たときに言われるのだろうか、むしろ起きているときのほうが、ひとは「寝言」を言うのではないか、と。

というのは、夢に現れる思想の方がしばしば他の思想より力強くはっきりしていることがある以上、夢の思想のほうが他より偽であると、どうして確かに知りうるのであろうか。(デカルト「方法序説」)

これは柄谷行人の『探求Ⅰ』から『探求Ⅱ』にかけての大きい主題のひとつでもある。

ドストエフスキーは人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、“精神”であることを人は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説くあの連中のように、夢をみていることを望むのである。(『探求Ⅱ』P95)

これは何を言っているのだろうか。ここでの“精神”とは? 「あの連中」とは? 

デカルトにおける自分が夢をみているのではないかという疑いは、《自分が共同体の“慣習”または“先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である》(『探求Ⅰ』)。

彼(デカルト)にとって、「疑う」ことは、自らが「思う」ことが共同体(言語ゲーム)に属しているのではないかと疑うことにほかならない。いいかえれば、疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを“精神”とよんでいる。(柄谷行人『探求Ⅱ』P10)

寝ているときよりも、目覚めているときのほうが、人は、共同体の言語ゲーム、すなわち“慣習”や“先入見”により多く従うだろう。共同体の外部に出るのはむしろ寝ているときのほうだろう。

ところでラカンは最晩年(死の二年前)次のように語っている。

「私はただ相対的には愚かに過ぎないよ、つまり他の人たちと同じでね。というのは多分私はいくらか啓蒙されてるからな」

“I am only relatively stupid—that is to say, I am as stupid as all people—perhaps because I got a little bit enlightened”?  (Lacan“Vers un signifiant nouveau” 1979)

ジジェクはこの文を引用して、《この「相対性」は、"完全には愚かでない"と読むべきだ、すなわち厳密な意味での非-全体の論理として。ラカンの中には愚かでないことは何もない。愚かさへの例外はない。ラカンが完全には愚かでないのは、彼の愚かさのまさに非一貫性にある》(ジジェク「『LESS THAN NOTHIG』私訳)と叙しているが、その「非-全体pas-tout」の論理による解釈はこの際どうでもよろしい。

今、注目したいのは、《いくらか啓蒙されているa little bit enlightened”》という言葉だ。これは、共同体の言語ゲーム、“慣習”や“先入見”に囚われているということと殆ど同義である(象徴界の囚人)。

ここで、夢から目覚めることが、絶えられない<現実界>から逃れることであるのを説明するジジェクの文を引用しておこう。

いやそのまえにエリオットの詩句がよい。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)

逐語訳なら「人というものはあまりに大きな現実very much realityには堪えられない」となり、中井久夫の「超訳」とすることができるが、エリオットの『四つの四重奏』の「エピグラフ」に、ヘラクレイトスの《most people live as if they had a wisdom of their own.》とあり、この訳である、とすることもできる。

ここでの“Human being cannot endure very much reality”における“very much reality”を「現実」ではなく「現実界」(あるいはトラウマ的な核)として下の文を読んでみることにする。《現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人のために現実があるのだ。》

…… われわれが「確固たる現実」と「夢の世界」という素朴なイデオロギー的対立に固執している( ……)。われわれはまさに夢の中でのみ自分の欲望の<現実界>と出会うのだということを考慮に入れたとたん、がらりと重心が変わる。われわれの共通の日常的現実、つまりわれわれが親切で真面目な人間という役割を演じている社会的世界の現実が、じつは、ある種の「抑圧 」、すなわちわれわれの欲望の〈現実界 〉から眼を逸らすことの上に成立した一つの幻想にすぎないということが明らかになる。この社会的現実は、<現実界>の闖入によっていつ何時でも、ごくふつうの日常会話やごくありふれた出来事が危険な方向へとむかい、取り返しのつかない破滅が起こるかもしれないのだ。(ジジェク『斜めから見る』)
もしわれわれが「現実」として経験しているものが幻想によって構造化されているとしたら、そして幻想が、われわれが生の〈現実界〉にじかに圧倒されないよう、われわれを守っている遮蔽膜だとしたら、現実そのものが〈現実界〉との遭遇からの逃避として機能しているのかもしれない。夢と現実との対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な〈現実界〉と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人のために現実があるのだ。

これが、フロイトが『夢判断』の中で例に挙げている有名な夢から、ラカンが引き出した教訓である。それは、息子の棺を見張っているうちに寝込んでしまった父親がみた夢である。夢の中で、死んだ息子が父親の前にあらわれ、恐ろしいことを訴える。「お父さん、ぼくが燃えているのが見えないの?」 父親が目を覚ますと、ロウソクが倒れ、息子の棺を覆っている布に火がついている。ではどうして父親は目を覚ましたのだろうか。煙の臭いがあまりに強く、その出来事を即興で夢に取り入れ、睡眠を継続することができなかったのだろうか。ラカンはもっとずっと興味深い解釈を述べている。


《夢の機能が眠りの延長だとしたら、そして夢はそれを呼び起こした現実にこれほどまで接近することができるとしたら、眠りから離れることなく夢はこの現実に答えている、と言えるのではないでしょうか。結局、夢には夢遊病的な作用があるのです。それまでフロイトが示してきたことからわれわれがここで立てる問い、それは「何が目覚めさせるのか」ということです。目覚めさせるもの、それは夢「という形での」もう一つの現実にほかなりません。「子どもが彼のベッドのそばに立って、彼の手を摑み、非難するような調子で呟いたーーねえ、お父さん、解らないの? 僕が燃えているのが?」

このメッセージには、父親が隣室で起きている出来事を知った物音よりも多くの現実が含まれているのではないでしょうか。この言葉の中に、その子の死の原因となった出会い損なわれた現実が込められているのではないでしょうか。(ラカン『精神分析の四基本概念』)》

このように、不幸な父親を目覚めさせたのは外の現実からの闖入物ではなく、彼が夢の中で出会ったものの耐えがたく外傷的な性質(traumatic character;原文)だった。「夢をみる」というのが、<現実界>との遭遇を回避するために幻想に耽ることだとしたら、父親は文字通り夢をみつづけるために目を覚ましたのだ。シナリオは次のようになっている。煙が彼の眠りを妨げたとき、父親は睡眠を続けるために、すぐさまその妨害要素(煙、火)を組み入れた夢を作り上げた。しかし、彼が夢の中で遭遇したのは、現実よりもずっと強い、(息子の死に対する自分の責任という)外傷(trauma)だった。そこで彼は<現実界>から逃れるために、現実へと覚醒したのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)


夢のなかだけなのだ、「寝言」に出会わないのは、――とすれば極論すぎるだろうが、“very much reality”に出会えるのは、共同体の“慣習”や“先入見”に囚われていないときだけなのだ、とすることはできるだろう。
けっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことはなんら有効な証明ではないのだ、ということを知った。(デカルト『方法序説』)

もっともわれわれがほどよく「快適な」生活をおくるためには、共同体の「空気」を読まなければならない。


実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。(デカルト『方法序説』)

慣習や先入見に従うのが、おおむね目覚めたときの生活、すくなくとも社会生活/社交生活であるなら、やはりそれは「夢を見ている」ということになる。われわれは、自他とも「寝言」を交わし合いつつ、他人や社会と妥協して生きてゆく。いや、慣習や先入見の「凡庸さ」にシニカルに反発しつつ生きてゆくことさえ「夢を見る」、あるいは「寝言」を言うことであるとしてもよい。

誰もが凡庸と呼ばれる思考の風土からもっとも離れた地点に自分を位置づけようとしており、そうした姿勢のはば広い共有ぶりが、ことによると凡庸さの実態だといえるのかもしれぬ(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)


というわけで中島らもの名言「寝言は寝てから言え」は、「寝言は寝ているときだけにしたほうがいいぜ」というおそらく通常受け取られる意味以外に、「寝言を言うなら寝ろ、そうすれば目覚めることができる」と斜めから読むこともできる。