世のマルクス主義文芸批評家は、こんな事実、こんな論理を、最も単純なものとして笑うかもしれない。しかし、諸君の脳中においてマルクス観念学なるものは、理論に貫かれた実践でもなく、実践に貫かれた理論でもなくなっているではないか。まさに商品の一形態となって商品の魔術をふるっているではないか。商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行するとき、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するという平凡な事実を忘れさせる力をもつものである。(小林秀雄『様々なる意匠』)
『様々なる意匠』は、小林秀雄の27歳のときの作品(『改造』懸賞評論論二席入選作)で、実質的なデビュー作といっていいだろう。
ここに書かれている「商品は世界を支配する」というのは、商品のフェティシズムなどと言われるもので、貨幣のフェティシズムと同様、マルクスの物神論のひとつである。
貨幣呪物の謎は、ただ,商品呪物の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』)
金を貨幣として、したがって貨幣退蔵の構成分子として固定させるためには、流通することを、また購買手段として、享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。それゆえに、貨幣退蔵者は、黄金神のために自分の肉欲を犠牲にする。彼は禁欲の福音に忠実である。他方において、彼が流通から貨幣で引上げることのできるものは、彼が商品として流通に投じたものだけである。彼は生産するほど、多くを売ることができる。したがって、勤勉と節約と吝嗇は、その主徳をなしている。多く売って少なく買うということが、彼の経済学のすべてである。(同 マルクス『資本論』)
若き小林秀雄がいいたいのは、マルクス主義者たちは商品の魔術を言い募って巷間の無分別を批判するが、きみたちのやっていること自体魔術的な意匠となってしまっていて、それが商品のフェティシズムと似たようなもの、すなわち人間の意志をこえて動きだし人間を拘束する一つの観念形態になっていることに気づいているのかい? ということだろう。
ここで、ロラン・バルトの言葉を援用するなら、生成性の顕揚自体が、生成性のエクリチュールになっていなければならないということになる。
メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。(『作品からテクストへ』)
これはテル・ケル誌の朋友であったクリスティヴァのテクスト理論(意味生成性)の論述の仕方への批判=吟味でもありうるので、――すなわちクリスティヴァでさえ、小林秀雄の指摘する同じ罠に嵌ってしまっているーー、そのことをバルトは、クリスティヴァの名をあげずに、《『テクスト理論』がメタ言語的陳述に満足できない》としている。蓮實重彦をそれをめぐって、次のように書いている。
「テクスト理論」と呼ばれるメタ言語的な言説とも深くかかわりあってはならず、あくまで浅い関係にとどまらなければならない。なぜならみずからそうした言説を担うことは、支配する「テクスト」を支配することにほかならず、とどのつまりは「テクスト」の終りの宣言にも通じてしまうからだ。(……)
バルトを通して読まれることによってではなく、バルトとともに読まれることで、クリステヴァは救われる。快楽主義者を自称するこの犠牲者の言説と離れて読まれたクリステヴァは、その「意味生成性」の概念にもかかわらず、メタ言語的な閉域で一つの秩序を構築するだけの言葉となってしまうだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』)
あるいは、蓮實重彦は次のようにも書いている、《かりに、エクリチュールなるものが濃密な環境として文学の全域に充満していたなら、バルトは間違いなく『作者の死』ではなく『エクリチュールの死』を書いていたことだろう。それは文学の未来を約束する絶対的な善なのではなく、それとごく浅く戯れることでかろうじてコードの「《裏をかく》」ことがありえるかもしれぬ虚構の楽しみの一つなのである。》ーーすなわちエクリチュールがドクサとなってしまえば(菊の御紋化)、それに対抗したに相違ないということだろう。
「言表内容 enonce」とは実際に話された言葉(意味内容)であり、「言表行為 enonciation」はその言葉を発言する行為のことである。
ロラン・バルトの若い友人でもあり、ラカンの娘婿でもあるジャック=アラン・ミレールの次の文は、もちろん人間の発話にどうしようもなく本来的にそなわってしまう、言表内容enonceと言表行為enonciationとの間の還元不能な落差を語っているのは言うまでもない。
主体、語る主体は自分自身で言っていることの主人ではありません。彼が語るとき、彼 が言語を使用していると考えるときは、実は言語が彼を使用しているのです。彼が語ると きには常に彼自身が言う以上のことを言います。自分が欲している以上のことを言うのです。そしてそのうえ、常に他のことを言います。(ミレール『エル・ピロポ』)
誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)
クリスティヴァの旦那、かつロラン・バルトやラカンの若い友人であったソレルスなら、次のようにオッシャル。
語りたまえ、そうすればすべてが明らかになる。出来事と諸力に対するきみたちの位置、きみたちの盲目性、きみたちの操作の範囲、きみたちの暗黙の信仰、鏡のなかの自分自身を見るきみたちの仕方が …語りたまえ、そうすればいまにもきみたちは思わず本心を洩らすだろう。叙述したまえ、そうすればきみたちは、自分の思考で考えていることよりずっと多くを言うだろう。悪と関わるきみたちのやり方。ただひとつの悪、実存することの悪だ。全能なる羨望と嫉妬のなかで。一般化された大人の稚拙さのなかで。(ソレルス『女たち』)
…………
自分の得た結果をそのような一つの全体に融合しようとする多くの、未成功に終った試みのあとで、私は自分にそのようなことが成就できるわけでないこと、私の書きうる最上のものはたんなる哲学的考察にとどまるであろうこと、私の思想は、それを自然のなりゆきに逆らって、むりやり一つの方向に向けようとしたとたんに、不具になってしまうであろうこと、に気がついた。そして、このことは、もちろん、ここで行なわれる探求そのものの性質にも関係していたのである。 ――すなわち、この探求は、思想の広汎な領域を縦横無尽に、あらゆる方向へ向かって遍歴することを、われわれに要求する。(ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』)