ひょっとすると、多くの社会は、あるいは政府は、医療のこれ以上の向上をそれほど望んでいないのではないか。平均年齢のこれ以上の延長とそれに伴う医療費の増大とを。各国最近の医療制度改革の本音は経費節約である。数年前わが国のある大蔵大臣が「国民が年金年齢に達した途端に死んでくれたら大蔵省は助かる」と放言し私は眼を丸くしたが誰も問題にしなかった。(中井久夫「医学部というところ」1995)
ここにある大蔵大臣は、中曽根派閥を引き継ぎ、大蔵大臣、通産大臣、外務大臣、副総理などを歴任した「ミッチー」こと渡辺美智雄氏のこと(1995年9月15日 満72歳没)。(「二十一世紀は灰色の世界…働かない老人がいっぱいいつまでも生きておって」渡辺美智雄1986より)。
中井久夫は重ねて次のように書いている(1999年)。
「死ぬための教養」がなぜ今問題になるのであろうか。なるほど、江戸期の支配階級である武士には「死ぬための教養」が要請された。私の友人には、祖父から切腹の作法を教わった水戸っぽの教授がいるが、私は切腹を遂行する自信などない。私は私なりに、死の作法を考えないわけではないが、どういう状況で訪れてくるか分らないのが死である。人に話し、まして、雑誌に書いて死に恥をかきたくない。
他方、死は他人事になりつつある。そして金銭の問題に。「国民が年金年齢に達した時に皆死んでくれたら大蔵省は助かる」とある大蔵大臣が言った時、これは「貧乏人は麦を食え」どころではないぞと思ったが、この一派閥の領袖の発言を誰も問題にしなかった。その大蔵大臣は年金年齢に入ってから比較的早く亡くなった。しかし、それは別の問題である。この国が世界一の長寿国であるかどうかとは関係がなく、国民の早世を願う国は卑しい国である。国民を大切にしない国で長く栄えたためしはなく、現に、国民を奴隷に売ったり、国民の大量死を歯牙にもかけなかった国は外国の侮りを受けてきた。国民の命を粗末にした戦争で敗北したのはつい最近である。この発言は亡国の兆しではないか。
以後、私は「死の教養」とか「死と生を考える」とか「死生学」を素直に聞けなくなった。善意が利用されている気がする。……(中井久夫「「祈り」を込めない処方は効かない(?)――アンケートへの答え」1999)
《多くの社会は、あるいは政府は、医療のこれ以上の向上をそれほど望んでいないのではないか。平均年齢のこれ以上の延長とそれに伴う医療費の増大とを。》との疑義が呈されてから既に二十年ほど経っている。それ以後、市場原理主義がむきだしの素顔を見せる、すなわち「新自由主義」がいっそう猖獗し、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られるようになった現在、次のような話がなされてもすこしも驚かない。
「……日本政府は、弱者が自殺すると、福祉予算が減らせるので、コストカットになるとでも考えているのでしょうか?」
これについては、おおむね、その通りだと思う(和田秀樹)。
実際、霞ヶ関では原発事故処理をめぐって「コスト社会的損失のバランス」などという言葉が平然と呟かれてしまう。老人も弱者もコスト社会的損失のバランスから言えば、「死んでくれたら助かる」。
本日霞ヶ関で出された質問:「低いリスクへの対応と,それによるコスト社会的損失のバランス - いつまで低いリスクの検査を続けるべきか」 - 今や,大多数の人がリスクが低いと納得するまで淡々と数値を出し続けるしか無い.一方で,便益分析をしておくことは重要.(リスクコミュニケーションについて、早野龍五先生と霞ヶ関の対話)
質問があったので答えたが、海外住まいの身として、今後はこの類の話はやめにしたい。いずれにせよ「経済なき道徳は寝言」という考え方に変わりはない。