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2014年6月27日金曜日

「モラトリアム」と「ひきこもり」

80年代から弱々しい「自分探し」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追求の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。先の見えない移行期に私たちはいる。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

中井久夫は、「モラトリアム」や「ひきこもり」は、――と鉤括弧つきながら、《これらもやがて過ぎ去るであろう》としている。一時的な現象だったのではないか、という考え方だ。もっとも逆にいまでは日本だけでなく、韓国やイタリア、あるいはフランスなどでもみられるようだが。

ところで、ここでは中井久夫はあくまで「モラトリアム」や「ひきこもり」を対象化して語っている。「刑事は現場を百遍踏む」の実践者中井久夫にも、もちろんこのようないわば「メタレヴェル」の語り口はある。

私はカルテを読んで頭にはいりにくければ、朗読し、筆写し、ワープロに打つ。その間で何かが私の腑に落ちてくる。明敏な頭脳の人にはさぞ迂遠愚鈍な作業と思われるであろう。しかし、私にはそうしないとわからない何かがある。「刑事は現場を百遍踏むそうだ」と私は自ら慰める。(中井久夫「訳詩の生理学」)

前投稿で、経験論と合理論の間で機敏なフットワークを実現するのが「超越論的」態度だという柄谷行人の見解を引用した。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)

「経験論」に凝り固まれば、これもほとんど「超越的=メタレベル」であるというふうに読める主張である。

カントとマルクスの「超越論的」態度を顕揚する柄谷行人の主著のひとつ『トランスクリティーク』には、「フットワーク」という語が何度か出現するが、ここではそのひとつを抜き出しておこう。

重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250)

これは異なった見解もあるだろう。だが柄谷行人は、かねてから、デリダにさえ「超越論的」ではなく「超越的(メタレベル}」の臭気をかぎ出す。

たとえば、デリダは、現象学における明証性が「自己への現前」、すなわち「自分が話すのを聞く」ことにあるという。《声は意識である》(「声と現象」)。これは、西欧における音声中心主義への批判というふうに読まれてしまうけれども、彼は、たんに哲学的あるいは現象学が、話す=聞く立場に立っているということをいっているにすぎない。そして、デリダは、そのような態度の変更に向かうのではなく、「自己への現前」に先立つ痕跡ないし差延の根源性に遡行する。《このような痕跡は、現象学的根源性そのもの以上に<根源的>であるーーもしわれわれが<根源的>というこの言葉を、矛盾なしに保持することができ、直ちにそれを削除しうると仮定すれば》(「声と現象」)。

直ちに抹消されるものだとしても、この根源的な差異は、われわれを再び「神秘主義」に追いやることになる。デリダは、「超越論的なのは差異である」というが、このとき、差異が超越化されるのだ、といってもよい。(柄谷行人『探求Ⅰ』P26)

だが、ここでのデリダの「直ちに抹消される」という言葉が肝要なのだろう。デリダ自身、直ちに抹消しなければ超越的になってしまうことに自覚的だったとみることもできる。では、デリダの脱構築についてはどうか?

ヘーゲルがいうように、ある命題を、いったん受け入れた上で、そこからそれに反対の命題を導き出して「決定不能性」に追いこみ、それを自壊させるというイロニーは、今日ではディコンストラクションとよばれている。というより、ディコンストラクショニストは、イロニーという語を避けることによって、自らの新しさを誇示してきたにすぎない。(柄谷行人『探求Ⅰ』P210)
デリダにおいて、全体化する例外の論理は、“脱構築の脱構築されえない条件”としての正義の形式に最高度の表現が見出される。すべては脱構築されるーー脱構築自体の脱構築され得ない条件の例外を除いて。たぶんこれは、己れの立場を「例外」として全ての領域を暴力的に均等化する仕草であり、最も初歩的な意味でのメタフィジカルな(形而上学の)態度である。(私意訳)

In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

たとえば、カントでさえ、『視霊者の夢』の「超越論的」文体から『純粋理性批判」の「超越的」文体になってしまったと読める坂部恵の指摘がある。

『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部氏はいう。(近代批判の鍵

…………

ところで、2012年の日本精神神経症学会のシンポジウムにて、「日本のひきこもり,ヨーロッパのひきこもり――イタリアとフランスの現状に触れて――」と題された鈴木國文(名古屋大学医学部保健学科)の発表には、次のようなCarla Ricci氏の論の引用がある。

日本では,ひきこもりは文化的社会的現象である.…東京に暮らして,著書『ひきこもり:自発的に隠棲する若者たち』を著した人類学者Carla Ricciは『この現象は日本に典型的なものだが,それが韓国やアメリカ合衆国,北ヨーロッパ,イタリアに拡がっている』と書いている.基本的な類似は『母親との関係にある.両親共にそうである場合も多いが,まさにこの過保護な存在が,息子をナルシストにし,壊れやすくする.そして最初の困難に出会うと引きこもるのである』

ーーというのは、つい最近、「高齢ニート」のテレビ番組で、神田うの氏の「親の務めって、わが子がちゃんと独立して、自分で生きていく力をつけさせてあげる。だから結婚もさせてあげるってことも」「9割方、親に問題があると思いますよ」との発言に偶然行き当たってすこし調べてみたのだが、この発言に対して、教育社会学者の本田由紀さんが次のようなツイートをしている。

@hahaguma
40歳を過ぎても働かない「高齢ニート」「年金パラサイト」が「ノンストップ!」で特集され話題に…コメンテーター・神田うのは「9割方、親に問題があると思いますよ」http://news.livedoor.com/article/detail/8909232/ …親に問題を押し付けて(親はもう十分そう感じている)、で、それでどうしようと?

 この本田さんの発言への齟齬感をめぐっては、いくらか叙したので繰りかえさない(参照:純白の頭巾のかすかな汚点)。

こうした「ひきこもり」当事者を「対象化」しつつの発言は「当事者」を傷つけるだけだという考え方の一環なのだろう。だが「対象化」による研究、たとえば原因が「母親との関係にある」などという分析は、ひきこもり当事者からは、なかなか出辛いだろうから、まったく無意味というものでもないだろう、すくなくとも未来の「ひきこもり」予備軍の親子にとっては。

このように「経験論」の態度だけでは見逃し勝ちな事実がある。真に「超越論的」であるためには、ときには「合理論」のほうへの揺れ(あるいはフットワーク)が必要であるに相違ない。「経験論」の立場から、社会的な悪や、医者・学者・評論家たちのメタレベル態度を批判するだけでなくーー柄谷行人の見解では、それに凝着してしまえばこのメタ批判自体がメタなのだーー、「母親との関係」やらあるいはもっと一般的に親との関係を分析したり問い直したりすることが「当事者」という経験者の立場から可能であるならば、そこにこのましいフットワークが生じる。だがそれを期待するのは、いささか酷でもある(己れのトラウマに触れてしまうということもあるだろう)。

いずれにせよ「当事者」に、超越論的な態度、すなわち《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかける》こと、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(柄谷発話 『闘争のエチカ』P53)をいたずらに強要してはならないだろう。

さて次に、2001年の座談会、すでに十年以上まえのものだが、斎藤環、中井久夫、浅田彰は「ひきこもり」をめぐって、次のような談話を抜き出そう。これらもやや「合理論」への傾斜をもった議論であるだろう。

斎藤) ひきこもりの最高年齢がちょうど私と同じ年齢で、世代論は避けたいと思ってはいても、やはりそこには何かがあるという気がします。共通一次試験と特撮・アニメの世代ですね。例えば「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている。

中井)先行世代がバブルにいたるまで蓄積し続けたから、寄生できるんだね。

斎藤)経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化しているようなところがあるわけです。なにがなんでもこれを表現せねばならない、というようなものもないんですね。

中井) これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。

斎藤)ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏が早くくれば救われるということはありますね。

浅田)治療者としての斎藤さんは拙速な「兵量攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。(「批評空間」2001Ⅲ―1斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」より

浅田彰の「冷たい」言い方は脇にやるとしても、精神科医の中井久夫や斎藤環の「ホンネ」もこのようである。それはつい最近の斎藤環のツイートにも窺われないではない。

@pentaxxx: いまだに「受容神話」や「退行神話」を信奉する専門家の皆さんに問いたい。いつから「暴力も金銭要求も、何もかも受け入れてあげるのが子供のため」と錯覚していた? 同じ理屈で「DVも受容してあげるのが夫のため」と言わないのはなぜ?  
@pentaxxx: ついでに、ひきこもりやニートに悩むご家族へささやかなヒント。「いい加減ハロワ行け」とか言いつのるのをやめて、こう言ってみましょう。「お母さんの知り合いの事業所で週三日のパートの仕事があるんだけど、試しにやってみない?」これで就労確率は一〇倍になる。数字は個人の感想です。 
@pentaxxx: 何年も履歴にブランクがある人に「ゼロから就活」とかどうみても無理筋。それをどうしてもさせたいのなら、せめてお膳立てくらい十分にしてあげましょう、というだけの話。 
@pentaxxx: もちろんこれは本人との関係が比較的良好な場合に限って有効。「恨み」や「意地」がくすぶっている間は無理。でも僕が知る限り、「紹介」や「コネ」っていまだ就活では最強のカードだ、その当否はともかくとして。 
@pentaxxx: 「元気なうちは養ってあげます。その代わり、認知症になったら家事と介護を全面的にお願いしますね」という契約もあり。もし断られたら早めに世帯分離の時期を検討しておきましょう。無理心中の悲劇を回避するためにも。


結局、経済的余裕があるのなら、「ひきこもり」であっても恥じる必要はないし、そうでなかったらなんとかしなくてはならない、ということなのではないか。そして家事と介護も立派な仕事である。ただし、日本が「引き返せない道」、経済の下り坂を歩んでいるのは否定し難い。社会福祉政策がいまの財政状況では好転するはずはない、ということもある。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」ーー「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」)


…………

ここで誤解のないように付け加えておけば、「医学」は人間を「対象化」してはならない、というのが中井久夫の医師としての基本的な態度である。


犯罪学者でもあるエランベルジェ(エレンベルガー)は、犯罪学と医学が科学でない理由として、疾患の研究、犯罪の研究からは「疾患は治療すべきであり、犯罪は防止すべきであるということが理論的に出てこない」ことを強調している。すなわち、彼によれば、犯罪学と医学は「科学プラス倫理」である、と。

だが中井久夫はこのように師のひとりであるエレンベルジェの見解を書き綴ったあと、医学はまず倫理的なものであるが、それでは不十分だ、とする(「医学・精神医学・精神療法は科学か」『徴候・記憶・外傷』所収)。

少なくとも、もう一点で、医学は科学と相違する。それは、囲碁や将棋が数学化できるかどうかという問題と本質的に同じである。囲碁や将棋は数学化できない。それは、科学とちがって徹底的に対象化することのできない「相手」があるからである。「対象」ではなく「相手」である。わかりやすいために、殺伐な話だが戦争術を考えてみるとよい。実験的法則科学はいつも成立しなければならないが、「必ず勝てる」軍事学はない。もしできれば、人間に理性がある限り、戦争は起こらない。それでも起これば、それは心理学か犯罪学という「綜合知」の対象である。経済学でもよい。インフレやデフレなどの経済学的不都合を絶対に克服する学ではなく、その確実な予測の学でさえない。これらが向かい合うものは「相手」である。科学は向かい合うものを徹底的に対象化する。そしてほどんどつねに成り立つ「再現性のある」定式の集合である。対象化と再現性は表裏一体である。すなわち、「相手」が予想外に動きをしては困るのである。ところが、囲碁や将棋や戦争術は相手の予想外に出ようとする主体間の術である。なるほど、経済学は、常に最大利益を得ようとして行動する「経済人(ホモ・エコノミクス)」というものを仮定しているが、これは人工的な対象化であって、経済学が経済の実態の予測を困難にしている一因である。それは、経済学の対象すなわち経済行動を行う人間の持つ、利益追求の欲望以外の心理学的要素の大きさを重々自覚しながら、これを数理化できないために排除しているからである。つまり、科学的であろうとする努力が経済学をかえって現実から遠ざけてきた。現在、むき出しの「市場原理」が復権をとげている。「市場原理」ならばローマ時代、いや太古からあった。(186頁)